第28話 瘴気漂う海

 月明かりが照らす甲板。

 ハチス·サマウィングはそこを夜風に当たりながら歩いていた。

 さらさらと短く刈られた髪が風に揺れるが、彼女はそれを気にすることなく海を眺める。普段から身につけている厳しい鎧は脱いでおり、代わりに着ているのは護衛隊専用の裾の長い軍服だ。


 すると何かを見つけたのか、む、と眉を顰めた。端正な顔が歪み、不快感を露わにする。辺りを見回し、目についたバケツに常備しているらしいロープを結びつけ、そのままバケツを海へと放り投げる。

 甲板から身を乗り出してバケツが水を掬ったらしいことを確認した彼女はロープを引き、上がってきたバケツを抱え込んで眉間の皺を深くさせた。


「まだマシとはいえ……。もうこんなところまで汚染されてるとか、どういうことだよ……」


 手に掬った水は瘴気に侵され、月光を受けて薄く黒光りしている。おまけに少し粘性があり、青臭い。


「……まて、青臭いとはなんだ青臭いとは。普通こういう海の水が汚染されたらもっと磯臭いぞ」


 そう一人でツッコミを入れてもう一度確認するもやはり水は青臭く、磯の匂いなど微塵もしない。


「おいおい……訳が分からねぇぜこりゃ……。こいつはまるで汚染された川とか池の水みてぇだ……。ここは海の上だぜ……?」

「どうした、こんな夜更けに」

「!」


 頭の上にクエスチョンマークが飛び交っているところで突然掛けられた声にハチスはバッと振り返った。

 見るとハルイチが漆黒の髪を夜空に溶け込ませながら立っている。肌寒いのか寝間着であろう浴衣の上から羽織を着ていた。


「ハルイチ殿。……貴殿こそ、なぜここに?」

「夢見が悪くてな。というか何だその水は。森の瘴気を纏っている水がなぜ海上ここにある。気味の悪い」

「え、これはたった今海から掬った水で……」


 そこまで言うとハチスははっとし、そうか! と叫んでもう一度水を手に掬う。


「これは森の瘴気か! ははっ、道理で青臭い訳だ、海水だったから思い至らなかった!」

「うおっ、いきなり大声を出すな大声を。……ふむ、たった今海から掬った水、か……」


 ハルイチも手を伸ばして水を掬った。

 筋張った指の間からとろとろと水が流れ落ちていくのを眺めながら、ハルイチがしかしと言う。


「これが森の瘴気であると分かったとしても、海水が森の瘴気に侵されているという不可解な現象の説明はつかんぞ。ますます竜玉汚染の謎が深まっただけだ」

「む……。確かにそうだな……」


 ハチスはそうだった、と言うように顔を顰めると、瘴気で汚れてしまった手を浄化魔術で浄化し、バケツを持った。


「取り敢えずこれは機関班に回そう。この地点でこれだけ汚染されているならば、もっと竜玉に近寄れば本格的な研究所でなければ調べることが出来ないくらい汚染が進行しているだろうから」


 ハルイチはその言葉にほう、と片眉を上げる。


「この隊の機関班はそのようなこともできるのか」


 だが彼女はいや、と首を振る。その顔にはなぜか疲労のようなものが見えた。全てを悟った顔のようにも見える。


「瘴気取扱免許を持っている奴が皆機関班にいるからだ」

「……お前たちは、何を目指しているんだ……?」


 呆れたようなハルイチの問にふっ、と笑ってハチスは答える。もう何も抵抗するまい、と言うように。それはまるで歴戦の戦士のようにも見えた。


「今年のスローガンは“歌って踊れる護衛隊”だ。……王族や貴族の中では今、空前のアイドルブームでな……」


 ハルイチは哀れんだ目になってしまった。完全に本来の業務とはかけ離れたものを目指そうとしている彼らを思って。

 頑張れ、負けるな、護衛隊。


「……なんというか、うん、頑張れ」

「大丈夫さ、もう慣れてる」


 甲板に乾いた笑いが響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る