三人の出会い――ACT.1 消えたルーフと名前を知らない少女

 

 ――その日、ルーフは村長からお使いを頼まれて、エンジュと一緒に、村の南東にある港町レイリークに来ていた。


 ルーフはレイリークの玄関口である大きな門を見上げてつぶやいた。


「ふぅ……やっとついた」


「とっとと用事済ませて帰ろうぜ」


 疲れた顔のエンジュと一緒に、ルーフはレイリークの門を潜る。


 門を潜り抜けると、そこはもう港町。

 さわやかな潮風が髪を撫で、塩の混じったしょっぱい匂いが鼻腔を刺激する。市場の方からは賑わい声が聞こえてくる。


 港町レイリークはこの辺りでは一際大きな街。旧マリンピア領との交易の拠点にもなっており、行き交う人々も実に様々な格好をしている。客寄せをしている宿屋の看板娘。煌びやかな宝石をふんだんにあしらった豪華な服装の商人。全身を頑丈そうな鎧で包んでいる騎士。さらに、ここから遠く離れた遠方の地、旧フレイリィ領から来たと思われる人たちさえ見かけた。


 田舎者のルーフとエンジュは、何度レイリークに来てもその人の多さに圧倒されてしまう。今回もその例に洩れず、雑踏の中で二人は口をポカンと開け放ち、しばらく門前広場で立ち尽くしていた。


 道行く人が二人に不思議そうな視線を向ける中、エンジュが唐突に口を開いた。

「なあ、ルーフ」


「……なんだい、エンジュ?」


「今日はその……お祭りでもあるのか?」


ルーフはやれやれ……とうんざりした顔で答える。

「エンジュ……ぼく、レイリーフに来るたびにその台詞聞いてる気がするよ」




 やがて街のメインストリートまで歩いてきた二人は、レイリーク中央商会と書かれた看板を見かけて、足を止めた。

 エンジュは扉を開けて建物の中に入って行った。ルーフも遅れずに彼の後に続く。

 施設の中は閑散としていた。商会というから、市場のようなものを想像するかもしれないが、実際は村役場みたいな施設で、受付の奥で皆忙しそうにペンを走らせていた。


 二人の姿を見つけて、恰幅のいい女性が走り寄る。


「エンジュとルーフじゃないか! よく来たね! 村長の手紙を持ってきてくれたんだろ?」


「あ、アンバーさん」


「いやあ見ないうちに大きくなったもんだ。子供が育つのは早いねえ……。それで今日は何か用があって来たのかい?」


 豪快に笑いながらそうつぶやく彼女に、エンジュはポケットに閉まっていた封書を手渡した。


「親父がこれを届けろってさ」


「手紙? どれどれ……なるほどねぇ」


 手紙を読んで得心した様子のアンバーに、ルーフはきょとんとした顔で尋ねた。

「アンバーおばさん、村長の手紙ってなんだったの?」


「ん? ちょっとした頼み事さね。今月は思いの外豊作だったから、今月の市場会議には出られないってさ」


「ふうん……」


「それより、二人ともここまで来て疲れたろ?」


 そう言って、アンバーはエンジュに紙切れを二枚手渡した。


「……これは?」


 アンバーはニッと笑って言った。

「食事券だよ。私からの贈り物さね。ここを出てすぐのところに食堂があるから、そこで好きなもの食いな。あ、レイモンド村長に渡してほしいものがあるから、食事が終わったら寄り道せずに戻ってくるんだよ」


「アンバーおばさん、ありがとう! ぼく、もうすっかり腹ペコだったんだ!」


 ルーフは目をキラキラさせて本当に嬉しそうだ。

 エンジュも顔には出さないが、喜んでいる様子だ。


「アンバーさん、恩に着るよ。んじゃ、ルーフさっさと行こうぜ!」


 駆け足で食堂に向かって行く二人を尻目に、アンバーは商売の準備を始めるべく、荷車を引いて自分の店に向かった。


 潮風に乗って海鳥の声が響く。今日も港町はいつものように平和そのものである。




 アンバーからもらった食事券でただ飯を食べ終え、ルーフとエンジュは食堂を後にする。食堂から出てきた二人の顔に眩しい日差しが照りつける。


 エンジュが日差しを遮るように、目のあたりを手で覆いながらつぶやく。

「今日はずいぶんとまたいい天気だな」


 それを聞いたルーフがぐぅっと背伸びをする。

「ふわぁ~……さてと。どうする、エンジュ?」


「ん? どうするったってなぁ……、アンバーさんのとこに戻るか」


「うん、そうだね」


 レイリーク中央商会に向かおうとしたルーフだが、路地裏から視線を感じ、立ち止まる。


「どうした?」


「いや……何か、誰かに見られている気がしたから」


「気のせいだろ。さっさと行こうぜ」


 エンジュは後ろをじっと見つめるルーフを尻目に歩き出す。




 それは本当に一瞬の出来事だった。




 いやに不気味な風が潮風に交じって吹き抜けていく。


「……ルーフ?」


 エンジュが後ろを振り返ると、ルーフの姿が消えていた。





   ◇ ◇ ◇





「……ここは……?」


 薄暗闇の中でルーフは目を覚ます。目を開けたばかりで視界がぼんやりとしている。首の辺りがぴりっとした。意識の覚醒によって体の筋肉が目覚め始めると同時に、首筋にかけて鈍い痛みが這い上がってきたのだ。


 身動きが取れない。見ると、ロープでぐるぐる巻きに縛られている。ロープはかなりきつく縛ってあるようで、ちょっとやそっとじゃ解けそうにない。

 ぼんやりした視界がだんだんとはっきりしてくる。ルーフは今、周りを壁に囲まれた袋小路に横たわっていた。薄暗くジメジメとしており、壁には数匹の蛞蝓がうごめいていた。

 痛む首筋を抑えながら体をゆっくり起こす。向こうの方から雑踏の音が聞こえてくる。ほのかな潮風の香りもする。おそらくレイリークに居るであろうことは推測できたが、なにしろ港町レイリークは広く、地元の人間ですら迷うことがある程である。それ故レイリークにいたとしても、自分が今、街のどのあたりにいるのかは皆目見当がつかない。ましてや普段チコリ村で生活しているルーフにとってはなおさらだ。


 ここがどこなのかわからないという不安が、ルーフの心を蛆のように這いずり回る。


 立ち上がって辺りを眺め回してみる。見上げると空はまだ青いにも関わらず、辺りはしっとりした空気に包まれていて、靄がかかったように薄暗い。通りに面した建物が壁のように日光を防いでいるせいだ。


 不意に、こちらに近づいてくる足音を察知し、ルーフは身構えた。


 耳に届く足音はだんだん大きくなってくる。

 やがて、足音の主がルーフの前に姿を現した。


「ちっ……もう起きやがったか」


 やって来たのは猫背の男だった。くたびれた服を着ており、よれよれに撚れた服が不潔な印象を与える。男はルーフに近づいてくると、突然ナイフを取り出してルーフの首にあてがった。


「坊主、死にたくなかったら大人しくしてな」


「な、おじさんは誰? なんでこんなこと――」


「黙れってんだろ!」


 首筋から赤い液体が一滴、つー、と流れる。それを見た瞬間、ルーフの唇が恐怖で青ざめた。男の息が顔に当たる。ロクに歯磨きをしていないのか、腐った魚のような嫌な臭いがした。男の口臭に耐え、ルーフは顔を顰める。


「あぁ? なんだその顔は?」


 言って男はいきなりルーフを殴りつけた。地面に頭が激突し、額から血が垂れてきた。


 やがて、また足音が近づいてきた。ゆったりとした足取りでやって来たのは、高価そうな服を身につけた裕福そうな男。恰幅が良く、首に綺羅びやかなアクセサリーをつけている。彼は踵のしっかりとした革靴で石畳を鳴らしながらルーフの近くに来ると、にやにやと薄ら笑いを浮かべながら言った。


「そいつが、今日の獲物かボンズ?」


 ボンズと呼ばれた猫背の男が、腰を低くして、手を摺り寄せるようにしながら言う。


「へい、旦那。汚ねぇガキですが、売り物にはなるかと思いまして……」


 旦那は、ルーフを見て鼻で笑いながら、

「まあいいだろう。さっさと連れて行くぞ」


 ボンズは倒れたルーフ見下ろし、ナイフを押し当てたまま言った。

「ハッ……哀れなガキだぜ。おら、さっさと立て! ぼさぼさするな。死にたくなかったらなぁッ……!」


 立ち上がろうとしたが、縄で縛られて思うように動けない。すると癇癪を起こしたボンズが、身動きが出来ないでいるルーフの腹を蹴りつけた。


「おら、おら、おらぁ!! はやくしねぇか、この愚図がッ!」


「ごめん……なさい……」


 ルーフはようやく立ち上がることができた。蹴り傷が体のあちこちに出来ていた。


「さっさと歩け!」


 罵声を浴びてルーフはおずおずと歩き出した。この人達は何が目的なんだろう。ぼくをいったいどうしようというのか。だが、逆らえば殺さるかもしれない。今すぐ逃げ出したいが、縄で縛られており、走って逃げることは出来ない。


 ぼくはこれからどうなるんだろうか……。 エンジュはどうしてるかな……。ぼくを探してるのかな? ルーフはかつて味わったことが無いような恐怖に駆られていた。


 ルーフは男たちの後をついて歩きながら、ふと誰かの視線を感じて上を見上げた。

 屋根の上に人影を見た。薄暗い小路でも何故かはっきりと見えた。


 屋根の上に立っていたのは女の子……とても綺麗な紅髪の女の子だった。だが瞬きをした後には、少女の姿は消えていた。


 すると急に、体が前方に引っ張られた。ボンズがルーフを縛っているロープを強引に引っ張ったのだ。ルーフは足がもつれてしまい、顔面からそのまま地面に倒れ伏す。


「てめえ……早く歩けって言ったろ! あまり俺を苛つかせるんじゃねえ!」


 ボンズが腰に収めたナイフを引き抜いた。


 その時である。小さな呻き声を漏らし、旦那がどさりとその場に崩れ落ちた。


「だ、旦那!? どうしちまったんで!?」


 慌ててボンズが旦那に駆け寄る。すでに旦那は事切れていた。


「……ッ!」


 背後に気配を感じて振り返った瞬間、ボンズは言葉を失った。


 顔を上げると、想像だにしない光景が広がっていた。紅髪の少女がボンズの後ろに悠然と立っていた。彼女の手には鈍い色をたたえた銀色の銃が握られていた。銃口はまっすぐにボンズの額へと向けられている。少女は口元に僅かな笑みを浮かべながら、ゆっくりと銃の撃鉄を起こす。


 かちゃり……と音がした。瞬間、ボンズの額からどっと汗が吹き出す。


「て、てめぇ! ……一体何もんだ!? どこから湧いて出た?」


 呼吸が制御出来ないほどに加速する。ナイフを持つ手が小刻みに震えていた。

 息を荒げて狼狽するボンズに怜悧な視線を向け、少女はつぶやく。


「……答える必要はない」


「ふざけんなクソガキ!」


 言うや否や、ボンズは少女をナイフで切りつけにかかった。だが、少女はボンズの攻撃に瞬時に反応して、霧のようにその場から姿を消した。……かと思えば、気づくとボンズの背後に回り込んでおり、彼の眉間に冷たい銃口を押し当てる。ルーフは少女の動きを目で追うことが出来なかった。少女の流麗な身のこなしは常人のそれを遥かに超えていた。


 唇を震わせながらボンズがつぶやく。

「な、お前は何なんだ……」


「……言ったはずよ。答える必要はないって。だって、私があなたに会うことはもう二度とないのだから」


 そうつぶやくと、少女は静かに銃の撃鉄を起こす。かちゃり……という音が辺りに響く。


「ヒッ……やめろ。やめてくれぇ!」


 だが、彼の叫びは少女の一言で虚しいものとなる。


「バイバイ」


 ズガン! 銃声が路地裏にこだまする。近くにいたルーフにとっては、耳が痛くなるような音だった。


 ボンズはどさりとその場に崩れ落ちた。ルーフは始終間近で見ていたが、一瞬の出来事で何が起きたのかわからなかった。生まれて初めて感じる、人が殺される瞬間。人が魂を刈り取られる瞬間は、あまりにあっけなかった。体をビクビクと震わせて、ボンズは物言わぬ物体となって地面に転がっている。


 少女は溜息を一つつくと、肩にかかった髪をさらりと掻き上げる。少女はルーフをじっと見つめた。その視線で、ルーフはピクリとも動くことができなくなってしまった。


 怖かったからだ。少女の手には銀色の銃が握られている。鈍く光る銀色の銃が、人二人を葬った銀色の銃が握られている。旦那も、そしてボンズもいとも簡単に銃で殺してしまった。まるで虫けらか何かのように彼らは殺された。おそらく……次は自分の番。


 少女の視線は冷たかった。その瞳からは、彼女の意思を汲み取れなかった。

 少女が歩いてくる。冷たい瞳でルーフを見据え、ゆっくり、一歩一歩、少女との距離が縮まる。

 どくんどくんとルーフの心臓がかつてないほどに脈打つ。全身の毛が総毛立って、呼吸が暴走し、背中は汗でびっしょりになっていた。迫り来る死の恐怖から目を逸らそうとして、ルーフは思わず目を瞑った。


 足音がルーフのすぐ傍で止まる。かちゃりという音がした。


 ルーフは頑なに瞳を閉じていた。ルーフにとって永遠とも思えるような長い沈黙が続く。



 銃声はしなかった。



 代わりにぽとり、と何かが落ちる音がした。何が落ちたんだろう? わからない。だが目を開けたくない。見たくもない恐ろしい光景が目の前に広がっているかもしれないから。

 少女が薄ら笑いを浮かべながら、自分に銃口を突き付けている光景を想像したルーフは、体をこわばらせ、目を瞑り続けた。


 だがルーフの想像とは裏腹に、いつまでたっても銃声がしない。

 不意に少女の言葉が聞こえてきた。


「いつまで目瞑ってるの?」


 恐る恐るルーフが目を開けると、腰に手を当てて、少女がルーフの顔を覗き込んでいた。


「う、うわぁ!」


 思わずルーフは飛びのいた。

 ……ん? ……飛びのいた? だって、ぼくの体はロープで縛られて――

 気づくとルーフを縛っていたロープが解けていた。さっきのぽとりという音は、体に巻きついていたロープが落ちた音だったのである。ルーフは恐怖のあまり、そんな事にも気づかなかったのだ。


 ルーフは少女に視線を移す。瞬間、少女と目が合った。


 丈の長い黒色のロングコートを羽織り、思わず目を引くほど可憐な真紅の髪は腰に届くほどに長い。大きな瞳は吸い込まれそうなくらい純粋な鳶色。きめ細かい肌は冬に深々と降り積もる雪のような白さだ。額には薄汚れたゴーグルを身に着け、首に黄色いマフラーを巻いている。


 そのあまりに美しい容姿は、まるで彼女だけが別世界の存在のようにさえ思わせる。

例えるならば、彼女は月であった。まだ昼間だというのに煌々とその美しさを見せる白昼の月のようだった。いつしかルーフは目の前の少女に見惚れてしまっていた。


 ルーフがぽけーっとした顔で自分のことを見ているのに気付いた少女は、

「あのねぇ……あなた危ないトコだったんだから。分かってるの?」


「へ?」


「さっきの奴ら。あいつら、その筋では有名な奴隷商人なの」


「奴隷?」


 少女が言った言葉の意味を理解していない様子のルーフを見て、少女は呆れた様子で溜息をついた。


「……要するに、あなた悪い人達に攫われちゃうところだったのよ」


「きみはどうしてぼくを助けてくれたの?」


 少女は照れを隠すように、両手を交差させながら言った。

「わ、私は別に助けたつもりなんか……。ただ、ああいう奴らが嫌いなだけ」


「でも、殺すまでしなくても良かったと思う、ぼく……」


 悪い人達だけど、殺すことは無かったんじゃないか。だって、殺したらもう二度とその人と話すことは出来ない。それってなんだかとても……寂しいことのような気がする。


 ルーフは唇をぎゅっと結んで少女を見た。


 すると、少女は肩にかかった髪を払いのけて言う。

「……殺してなんかいないわよ。あいつらには、麻酔弾を撃ち込んでやっただけ。じきに目を覚ますでしょ。それで、奴らに見つかると面倒だからここまで逃げてきたってわけ」


 少女は銃を指でくるくると回してみせた。随分扱いなれているようだ。残弾数を確かめてから、銃をコートの内ポケットにしまう。


「さてと……仕事、仕事」


 少女は倒れている旦那の傍に駆け寄り、おもむろに服を脱がし始めた。


「な、何やってるの?」


「あなたまだいたの。別にあなたには関係ないでしょ」


 言いながら、少女は旦那の財布を取り出し、現金を抜き取ってポケットに入れた。彼が身につけていた宝石類も全て剥ぎ取って、コートの内ポケットにしまった。


 横で見ていたルーフが思わず声をかける。

「きみはもしかして……泥棒なの……?」


 少女は少し沈黙した後、ふぅと一息してから話す。

「……少し違う。私は盗賊よ。やってることは泥棒と変わんないけど。それが何?」


 ルーフは俯いて、しどろもどろにつぶやく。


「ひ、人の物盗ったら泥棒だよ。おばあちゃんが言ってた。だから、その……きみが持ってる宝石やお金はおじさんに返さなきゃダメだよ」


「……余計なお世話よ。私のことは放っておいてちょうだい。大体、あなたこいつらに誘拐されかけたのよ? 心配する義理ないじゃない」


「関係ないよ。悪いことは悪いことでしょ」


「うるさいわね……いちいち口出ししないでくれる? それとも何、あなた私を捕まえようっていうの? ふふっ……まさか恩を仇で返されるとは思ってなかったけど……いいわ。そういうことなら相手になるわ」


 少女がすっとコートに手を忍ばせ、銀色の銃を取り出す。それを見て、慌ててルーフが言った。


「ま、待ってよ! 別に、ぼくはきみを捕まえる気は無いよ!」


「じゃあどうして私の邪魔をするの?」


 ルーフはごくりと唾を飲み込んでから、芯の通った声でつぶやく。

「悪いことはしちゃいけない。当たり前のことでしょ」


「……そんなの私だって知ってるわよ」


「ならどうして!」


「悪い事だっていうのは分かってる。私だって、できればこんな事したくない。でもね、現実の世界っていうのは思い通りには行かない。理想ばかりじゃ、今の世は生きていけないのよ!」


 どうしてだろう……この少年と話していると、自分が自分じゃなくなってしまう。たかが子供の質問、ムキになる必要など無いのに、つい本音を吐露してしまう。

 と、帝国を告げる鐘の音が響いてくる。


「いけない! こんな所で油を売っている場合じゃないわ。早く行かないと!」


駆け出そうとする少女をルーフが呼び止めた。

「あっ! どこ行くの!」


「あなたには関係ないでしょ! ついてこないでよ!」


「盗んだものは返さないとダメ!」


「もーっ! わぁったわよ! 返せばいいんでしょ、返せば!」


 少女は内ポケットから盗み取った金品を取り出し、乱暴にルーフの方に投げつけた。

 札束が宙を舞う中、少女は猫のように俊敏な動作で小路を駆けて行く。ルーフは懸命に彼女の後を追いかけた。


「もー、なんでついてくるのよ!」


「まだ……お礼……言ってなかった……から」


「礼を言われる筋合いはないわ。私は私で理由があって奴らを襲った。結果たまたまあなたを助けることになっただけよ。これ以上付き纏うのはやめてくれる? はっきり言って迷惑だから」


 少女はルーフから視線を外すと、黄色のマフラーをたなびかせて路地裏を駆け出した。


「ま、待ってよ!」


 ルーフは疲れた体に鞭打って、少女の後を追いかける。


 ちらと少女は後ろをふりかえる。

 少年が真剣な表情で追いかけてきている。


 ……あの子は何が目的なんだろうか? いずれにせよ、相手にするのは面倒だ。

 少女は走るスピードを一段上げた。

 すると、少女とルーフの距離はみるみる開いていく。

 これできっと、あの少年も諦めるだろう……。そう思って少女はもう一度後ろを振り返る。少年は遥か向こうの方にいた。しかし、少年の顔から諦めの色は汲み取れない。


 一体、彼は何をそんなに必死になっているのだろうか? 少女には理解できなかった。


 それからいくら走っても、ルーフは少女の後を追いかけてきた。そのあまりのしつこさにとうとう根負けした少女は、ふと立ち止まった。やがて、ルーフが追い付いてくると、少女は怒った声で言った。


「いい加減にしてよね! なんなのよ!?」


 ルーフは肩で息をしながら、枯れたような声で言った。


「ぜぇ、はぁ……言ったでしょ。ぼくはまだきみにお礼を言ってない。助けてもらった恩は返さないといけないんだよ。それに……」


「それに……?」


 少女が尋ねると、ルーフは真剣な瞳で少女を見つめてつぶやく。

「ぼくは知りたい。きみがどうしてこんな生活をしているのか。人の物を盗まないといけなくなってしまった、その理由を」


 ルーフは固唾を呑んで少女を見つめる。すると、彼女はふっと柔和な笑顔を見せた。

「あなた、名前は?」


 突然名前を尋ねられて、ルーフはきょとんとした表情で答えた。

「ぼく? ぼくはルーフ。ルーフ・ノート」


 少女が目を閉じて穏やかに笑った。優しい柔和な笑みだった。


「ルーフ。ふふ、あなた面白い子ね」


「……?」


「だって、普通は自分を襲ってきた相手のことを心配したりしないわよ。それに初対面の相手にここまで干渉したりしない。ましてや私は盗賊なのよ?」


 少女は長い髪をそっと掻き上げる。陽光を浴びて、艷やかな紅髪が煌めいた。


「見たくもないものを見ることになるかもしれないけど……それでも知りたい?」


 少女の言葉に、ルーフは黙って頷いた。

「そう……。なら、ついてきて」


 少女はそう言って、踵を返して歩き始める。ルーフは少女の背中に問いかける。

「ねぇ……きみの名前はなんていうの?」


 すると、少女が歩みを止めてルーフの方に振り返る。不意に太陽が雲に遮られて、一瞬少女の顔に影がさす。少女が抑揚のない声でつぶやく。




「私には名前が無いの」




「え……?」


 抑揚のない声でつぶやいた少女の瞳はどこか悲しげだった。彼女は空を見上げ、遠くに広がる鼠雲を見つめて言う。


「……両親は私が生まれてすぐ、私を名付ける間もなく亡くなったそうよ。だから、どんな人だったのかも分からない。生まれたばかりの私を偶然育ててくれる人がいてね。その人は生きていく術を私に教えてくれた。銃の使い方だって、その人に教わったのよ」


 彼女の話を、ルーフはまるで自分の事のように聞いていた。ルーフは少女に不思議な近親感を覚えていた。


「……ぼくもきみと同じさ」


 その言葉を聞いて、少女はルーフの方をじっと見る。彼が嘘を言っているように思えない。少女を見つめるルーフの瞳はどこまでもまっすぐだった。


「私と……同じ……?」


「ぼくもお父さんとお母さんの事、知らない。それどころか、本当に両親がいるのかさえ分からない。小さい時のことは覚えてなくて……ぼくには昔の記憶が無いんだ」


「記憶が無い?」


 ルーフは少女の言葉に頷きながら話を続ける。


「ボロボロの身なりで、村の近くにあるシルベの森で倒れていたんだって。ぼくを拾って育ててくれたおばあちゃんがそう言ってた。本当に何一つ覚えていないんだ。自分が誰で、どこで何をしていたのかさえ……。ルーフっていう名前もおばあちゃんが付けてくれた」


 ルーフはそっと微笑した。


「……だからかな。ぼくはきみを放っておけない。なんだか自分の事のような気がして、胸が苦しくなる」


「……そう。記憶が無いなんて人に会ったのは初めてだったから驚いたわ。けど、やっぱり私とは違う。だって、あなたには名前があるじゃないの。ルーフ・ノートっていう立派な名前が。……私には何も無い」


 すると、ルーフは少女の手をとってつぶやいた、

「――ナナシ。それがきみの名前」


「は……? それどういう――」


 少女は目の前のルーフが言ってることの意味が理解できなかった。


「言ってたよね、自分の名前がわからないって。だから、ぼく考えた。ぼくはきみのことナナシって呼ぶ」


「か、勝手に決めないでよ! なんで、あなたが私の名前決めることになるわけ!?」

 そう言いつつも、少女は少し嬉しかった。決して顔には出さないけど、自分に名前があるということがちょっぴり嬉しかった。それがたとえ、他人が勝手につけた名であっても。

 それは名前を知らない少女の正直な気持ちだった。


 ルーフはぺこりと頭を垂れた。

「さっきはありがとう。ナナシのおかげで助かったよ」


「あっそ。どういたしまして」


「それより……ルーフ、あなた本当についてくる気なの?」


「当たり前でしょ」


「当たり前って……あなたねぇ……」


 少女がいくら説得しても、ルーフは頑として少女の意見を聞き入れない。少女は大きく溜息をして。


「……勝手にすれば」


 そう言い捨てて少女は路地裏をかけていく。

 ルーフは少し笑って、黙って、少女――ナナシの後を追ってひた走る。

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