第一章   名前を知らない少女

チコリ村の仲良しトリオ

帝国暦 508年 アルネルの月 15日


 旧エルデ領にある小さな田舎の農村、チコリ村。周りは豊かな山林に囲まれており、朝の空気は格別素晴らしい。村の人達は登ってきた朝日に感謝しながら、静かな朝の時間を過ごしていた。

 そんなチコリ村の片隅にある小さな一軒家で、朝の静けさを台無しにする怒声が響き渡っていた。


「ルーフ。ルーフってば起きなさいよ! ねぇったら!」


 少女がベッドに寝ている男の子を起こそうと躍起になっていた。


 少女の名はナナシ。長い紅髪は腰に届くほどで、大きな鳶色の瞳をしている。

今日は村に偉い人が来るとかなんとかで、ナナシたちも村の集会所に行かなければならないのだ。だから、こうして彼を起こそうとしているのに……。

 ナナシが何度声をかけても、ベッドの足をけり上げても、男の子が起きる気配はない。

 屋内は、特に部屋が仕切られているわけでもなく、だだっ広い間取りに二つのベッドが置いてある。室内の中央には木製の円卓と、丸椅子が二つ。朝日が差し込む窓の傍には小さな台所がある。暖炉には火が付いているが、まだ温まりきっていないため、吐息は白く、肌寒い。


 ナナシはベッドの上の寝顔を見やり、一言つぶやいた。

「あ、そう。あなたが起きないなら、私にも考えがあるわ」


 とうとうナナシは強硬手段に出た。ナナシは男の子の上に掛けられている布団や毛布類をまとめてひっつかみ、強引に引っぺがした。その反動で男の子はベッドから転げ落ちて、床に頭をぶつけた。


「いたた……、乱暴しないでよナナシ……」


 呑気につぶやいた少年の名はルーフ・ノート。新緑のような目はトロンとしていて、未だ眠気が抜けきっていないようだ。アッシュブロンドの髪は寝癖でぐしゃぐしゃになってしまっている。


 ぼんやり顔のルーフに、ナナシは冷水をかけるように言う。

「起きないあなたが悪いのよ。今日は何の日か知ってるでしょ? 起きたら、さっさと支度する!」


「……? 今日って何かあるの?」


 ルーフの一言に、ナナシはしばしの間絶句する。


「今日は帝国教会の神官様が講演にいらっしゃる日でしょ? 前から村長も言ってたじゃないの! 遅れたら村長に怒られるわよ!」


「うわぁ……それはちょっと……」


「でしょ? だから早く支度しなさい! 朝ごはんはテーブルの上に置いておいたから、さっさと顔洗ってきなさい!」


「は~い……」


 気の抜けた返事をして、ルーフはふらふらとした足取りで洗面所へ向かう。

 ルーフは瞼をこすりながら、身支度を整えようと鏡面の前に座る。ふわぁーと欠伸をして、櫛を手にとる。


「にしても、もうちょっと優しく起こしてくれればいいのにな……」

 と、鏡に向かって独り言をつぶやく。


 鏡に映っているのは萌え出る新緑のような瞳をした少年。

 いつ見ても思うが、本当に小柄な体躯である。ルーフは今年で十歳になるが、童顔と小柄な体躯のせいで、実際よりもずいぶん幼く見える。

 普段はサラサラのアッシュブロンドの髪も、寝起きの今はボサボサだ。手にした櫛で、慣れた手つきで髪を整えていく。が、いつものように、てっぺんの辺りからぴょんとはねた前髪は櫛で直そうとしても、上手くいかない。


「まあ、少しくらい寝癖があってもいいや」


 それからパジャマを脱いで、着慣れた紺色のオーバーオールを身につける。愛用のツナギは肌にしっくり馴染む。


 ルーフはダイニングに戻って、円卓に腰掛ける。ナナシが焼きたてのパンを皿の上に載せて持ってきてくれた。パンの横には温かいカップスープが置いてあり、卓の中央に置かれたボウルにはサラダが盛り付けられている。

 卓上には質素ながらもきちんとした朝食が並べられている。

 ルーフとナナシが手を合わせて、いただきますの挨拶をしようとした時だった。


 ――ドンドンドン! ドンドンドン!


 扉をノックする音が響く。


「こんな早くに誰だろう?」


「……どうせあいつよ」


 ナナシは溜息をつきながら食べかけのパンを皿に置くと、不機嫌な顔で扉を開けた。

「よぅ、ナナシ!」


 ドアの向こうにいたのは、朝っぱらから眩しいまでの笑顔の少年だった。


 彼の名はエンジュ・ダグ。

空色の髪は首の辺りまで伸びており、前髪はオールバック。背丈はナナシと同じくらい。瞳は紅蓮の輝きを放っている。動きやすそうな紺色のオーバーオールを身に着け、首にふわっとしていて暖かそうなマフラーを巻いてある。


「何の用よ」


ナナシが冷淡な口調でそう言うと、エンジュは満面の笑みで言った。


「さぁ、行こうぜ! 冒険の旅へ、レッツゴーだぁ!」


 爛々とした瞳のエンジュに対し、ナナシはそっけなく一言。


「イヤ」


「ち、ちょっと待てよ! 話くらい聞いたっていいだ――」


 ナナシはエンジュの言葉を待たずに扉をバタンと閉め、鍵をかけた。

 ナナシは再び椅子に座って、パンを食べ始めた。

 扉の向こうではエンジュが騒いでいるが、そんなの知ったことではない。エンジュは思いつきの冒険を提案しては、こうして二人を誘いにやって来るのだ。はじめはエンジュの冒険ごっこに楽しく付き合っていたナナシだったが、こう毎日では疲れてしまう。

 向かいの席でルーフが心配そうにナナシの顔を覗き込む。


「……いいの? エンジュ、怒るとめんどくさいよ?」


「いいのよ! また、訳分からない場所に連れ出されるに決まってるわ」


「でもさ……こんな、締め出すような真似しちゃあエンジュが可哀想だよ」


 すると、ルーフの言葉に合わせて扉の向こうから声がした。

『そうだそうだ! ルーフの言うとおりだ!』


「はぁ……ルーフは甘いわね」


 ナナシは溜息を一つつくと、すっくと立ち上がり扉をそっと開けた。

 扉を変えた瞬間、エンジュが家の中に転がり込む。そして、天高く指を突き上げると、大きな声で言った。


「よっしゃ! お前ら、行くぞ冒険の旅へ!」


「うっさい」


 ぽかりとエンジュに小さな拳骨を見舞って、ナナシは椅子に座ってスープを飲み始めた。温かいスープが胃に流れ込み、体全体がほんのりと温かくなってくる。

 エンジュはナナシに殴られた後頭部を抑えながら、ルーフの隣に座った。


「大丈夫エンジュ?」


「大丈夫じゃねぇ……こいつのゴリラパンチをくらったんだぜ?」


 すると、ナナシはスプーンを置いて、拳をポキポキ鳴らしながら、低い声でつぶやいた。


「ふーん……誰がゴリラだってエンジュくん……?」


 ナナシに鬼の形相で睨まれたエンジュは青い顔でつぶやく。

「い、いやいやいや!? 何でもないですございますハイ」


「あっそ。ほら、ついでだからあんたも飲みなさい」


 そう言ってナナシはエンジュの前にカップスープを置いた。

「それで、エンジュ。今日はどこへ行くの?」


「な、何言ってんのルーフ! 私達はご飯食べたらもう行かないと。集会所に呼ばれてること忘れたの?」


「あそっか」


「だいたい、エンジュもエンジュよ。あんただって、呼ばれてるんじゃないの? 帝国教会のお偉いさんが来るってのに、村長の息子がいないんじゃ、村長の面目丸つぶれよ」


 するとエンジュは、ケロッとした顔で言う。

「俺は最初から行くつもりなかったぜ」


「は?」


 呆れた顔をするナナシ。エンジュはスープを飲み終えてからつぶやいた。


「ふう、ごちそうさま。それで、今日の講演? だっけか。だってそうだろ。帝国教会なんて都会の人たちの話、俺はちっとも興味ないし。だいたい俺は、帝国教会の信者じゃないしな」


「あ、あんたそういうこと滅多に口にするもんじゃないわよ!」


「なんでさ? ルーフだって、別に興味ないだろ?」


 ルーフはエンジュの言葉に首肯する。

「ぼく……帝国教会って言われてもよくわかんないし……」


 ナナシはルーフとエンジュを交互に見てから、頭を抱え、溜息交じりに話す。


「はぁ……あんた達ねぇ……。いい? 帝国教会ってのはこの世界を総べる唯一にして最大の国、エルデンテ帝国の国教なの。だから世界中どこに行っても、帝国教会の教えは根付いているし、皆、教会の教えに従って暮らしているの。国教っていうのは、つまり王様の命令とほとんど変わらないのよ!」


 長々としたナナシの説明に対し、ルーフは大きく欠伸をしてつぶやいた。

「ふわぁ~……ぼくにはよくわかんないや」


 エンジュもルーフの言葉に続く。

「俺も。王様って言われても、会ったことないし、なんか実感沸かねえ。だいたいさ。チコリ村には教会ないじゃん」


「そ、それは……この村が田舎過ぎるだけよ!」


「あっそ。じゃあナナシは一人で集会所行けよ。俺達はそうだな……釣りにでも行こうぜルーフ!」


「そうだね! 今日は大漁だといいな!」


「ち、ちょっと待ってよ二人とも!」


 しかし、ナナシの静止を振り切り、ルーフとエンジュはさっさと家を出て行ってしまった。一人残されたナナシは、二人が出て行った方をじーっと見やると、


「あ~もう! わかったわよ! 私も行く!」


 壁に掛けてあった丈の長い黒のロングコートと、愛用のボロゴーグルを装着すると、ナナシは二人を追って駆け出した。

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