24_始の想起、あるいは現の蒼海にて

 多分「起きなさい」と、誰かが私に言っている。アラームの音じゃなくて人間の声だ。


「……よ……」


 身体を揺すられたようだと分かったから、もうちょっと、もう少し待って……。


「……るか……て……」


 ようやく目がゆっくりと開けられて、ぼやけた視界に少しずつピントが合っていく。私の目の前にいるのはやっぱり人間であるらしい。私は椅子か何かに座っている……わけではなくて、体を横にして、何か枕ではないものの上に……


「ん……」


 膝枕の持ち主の大きな瞳二つがじっとこちらを見つめている。赤いフレームの眼鏡はどこかへ落としてしまったのだっけ。


「……ナツ? ごめん、えっと……あれ?」


「よし、喋れるね。ちゃんと実体だし、私の名前も覚えてた」


 寝起きにしては少し重いような気がする身体をどうにか起こして、自分が何故寝ていたのかを思い出そうとする。こんな……ところで。


「ゆっくりで大丈夫。無理に思い出さなくてもいいからね」


「……うん、ありがとう」


 私たちは何故かアスファルトを敷いた車道の上に座っている。オレンジ色の『×』と『U』字に曲がった矢印を引き延ばしたマークがセットで、交差点のところだ。けれど……。座ったまま上体だけを捻って周囲を見渡す。薄青い空、点々と浮かぶ島、瓦礫、モノ。……そう、Uターン禁止の交差点の先は、あるはずの車道はどこにも繋がっていない。切り取られたようにこの場所が浮かんでいるだけ。ここは空の上のようなどこかで、私たちは探し物をしていた。薄オレンジ色の記号はよく見るとひび割れていて褪せたアスファルトの色を滲ませている。ナツ以外にもう一人と一匹、オゥルくんとナレィ。それから……透明クジラ。それで……


「黒い手に捕まえられそうになって……その先のことはどうやら覚えていないみたい。でも……」


 ナツは続く言葉を待ってくれた。感覚でしかない、消えていく夢の手触りのように、どこまでも曖昧な結末の色味、何人分かの残り香。


「よかった、って、言っていたような。私だけじゃなくて……あの場にいた人たちが。そんな気がする」


 ナツが優しく微笑んだ。


「それなら私も胸を張って、同じ言葉を使えそうだ。よかったよかった」


 ゆっくり立ち上がったナツはスカートを二回だけ軽く払った。もしかしたら、私が覚えていないことの中にナツの奮闘があったのかもしれない。


『ピロリン』


「あ」


「メール?」


 この音がナツのケータイの受信音であることは覚えている。メールの内容を確認したナツは安心したような顔をした。


「ほら、ハルカ。見てよこれ」


 しゃがんで手を伸ばして見せてくれたケータイの画面には、誰かが撮った写真が映っていた。白衣を身に着けた賢そうな女性が年季の入った顕微鏡のような装置を大事そうに抱えている。隣にはナレィを肩に乗せたオゥルくんがポーズを決めかねた顔。背景の街並みは見慣れない景観だ。ケータイのカメラが気を利かせたのか、長い時間の流れの中で微睡んだような空気が伝わってくる。まるでどこか別の世界であるかのような。


「二人とも笑ってるでしょ。表情は分からないけどナレィも多分ね。これが何よりの証拠さ」


 よかった、の証拠。


「確かなことだったみたいだね」


「もちろん。ところが困ったことに折角の報告には続きがあって……」


「うん?」


 ケータイのキーを何度か押して、ナツは再び私に画面を見せた。


『元の状態に繋がった時間の流れが強力な反動を生み出します。何が起こるか予測はできませんが、どうか』


「お二人が離れないように尽くしてください……だって」


 元に戻った時間の流れの反動……? 一体何のことだろう。


「えーっと、あの“途切れる”やつかな?」


「残念ながら私にも分からない。もしかしたら……あれよりも強烈なのかも」


「と言われても……どうすれば」


 お互いに薄青い空を睨む。まだそれらしき気配は無いけれど、身を寄せ合うくらいしか私たちには手立てがないのだ。私たちが棒磁石だとしたら、それをやったところで“大きな手”に相当する何かに引き剥がされる可能性は十分にある。


「あー……」


 向かい合って喋るから、先にどちらかが“何か”に気付く。今回は(今回も?)ナツ。ナツの声のトーンでそれが良いものなのか悪いものなのか、手に負えるのか負えないのか分かるようになってきたかもしれない。多分、あまり良くないもので手に負えないものだ。


「どうしよう、オゥルくんたちはいないし自転車も無いよね?」


 振り返って確認した。ゆるやかに、遠くの空が崩れていく。


「ない」


 一度ナツの顔を見て、あら目を閉じてる、また振り返る。トンネルが上に乗った土の重量に負けて潰れていくのを横から見ているような景色。それが迫ってくる。音は何も聞こえない。崩れた破片は全て同じ形、巨大な長方形が幾つも剥がれるようにして同じ色の空に溶けていき、剥がれた跡には真っ黒な亜空間が残っている。


「逃げないと……でもどこに。飛び降り……る?」


 ずっとずっと下ならあるいは。


「それはダメ」


 ナツが目を開けた。表情が真剣になる。


「モヤモヤのことがあったでしょ。ここでの落下はきっと同じことになる」


 否定できない。


「でもこのままじゃ、」


「ハルカは、思い出せた?」


「……え?」


 圧倒的な光景に音がないせいで、ナツの顔を見ていたら、ナツが時間を止めてしまった。

 一緒に“思い出そう”。帰ろうでも取り返そうでもなく、私はナツにそう言った。もし私たちが“思い出した”のなら、私たちは元居た場所に帰ることになるのだろうと、そう思っていた。


――私たちは誰で、何故ここにいるのか。


 正直に言えばまだ思い出せてない。何かを忘れた自分が何を判断基準にして動くのか。軸はどこにあって、それはたとえ思い出せていないままでも変わらないものなのか。“確かなもの”がほんの一握りしか無いこの空の上で、胸を張って“私”を支えられるような軸であれるのか。

 答えの見えない私は思わず後ろを、崩壊の状況を振り返ろうとした。


「仮に」


 ナツがそれを制し


「“指パッチン”で元いた場所に戻れるように、もうハルカがなっていたとしたら」


 私に問いかける。


「ハルカは指を鳴らす?」


「鳴らさない」


「それは、私と離れたくないから?」


「それもある。でもそれだけじゃなくて」


 それだけじゃなくて……何。ナツの足元に目を伏せてその影に自分の奥底を探す。反射的に答えた『NO』ほど軽くないもの。もっと深いところにあって、もっともっと重要なもの。これが見つけられないならきっと私は、私は……ナツと一緒にいられない。ナツの問いを反芻する。言葉にした自分の思考をもう一度なぞる。一握りだけは……見つけていた。それは、何?


――私たちは誰で、何故ここにいるのか。


 そうか。……そうだ。思い出したのではなく偶然にまた見つけたのかもしれない。でもきっと、きっとこれなのだ。


「まだ……納得してない。きっとまだ私に出来ることが、私がやらなくちゃいけないことが……残ってるから」


 ナツの影を見たまま言葉を絞り出す。この答えに、その資格はあるか。


「顔を上げて」


 ナツの……誇らしげな表情。口を結んだまま後ろを指さして……


「後出しになっちゃうけど」


 もう後ろを見てもいいよってこと? 私が振り返ったところでナツは“答え合わせ”を続けてくれた。


「ハルカならそう言ってくれると思った。私の答えと同じだよ」


「……本当に?」


 もう一度ナツの顔を見て聞く。


「本当さ」


 自信のない私に力強くナツが頷いた。ナツは嘘ではなく私と似た、いや、同じ答えに辿り着いて、この答えにはそれだけの“強さ”がある。そう肯定してくれた。


「私がそう思った理由にハルカが納得してくれたなら、私たちはまだ離れないよ。落っこちても飛ばされても、きっとね」


「うん……うん!」


 ナツに手を引かれて彼女の隣に立つ。浮島の少し先で巨大な長方形がぺらりぺらりと剥がれ落ちて、真っ黒な空間はその面積を大きく広げていた。と、風船を引っ張るように、奥側に向かってその景色が延長され始めた。点々と浮かぶ島も二色に分かれた空も無限遠の消失点に向かって伸びていく。


「おー……」


「やっぱり怖い?」


「ううん。もう怖くない。……ナツの方こそ私にメールを読んでもらうくらいなのに」


「あれとこれはちょっと種類が違うの」


「へぇー」


「なにさ~」


「別に~」


 例えば、困っている人を見かけたら助けようとしてしまうところとか。


「あの自転車にはお礼を言いたかったなぁ。あ、名前付けてあげてないんだった」


「今から付けるとしたら何にする?」


「セントナツ号!」


「……え?」


「え?」


 例えば、自分でも手の届きそうな謎があれば手を出してしまうところとか。


「結局私、オゥルくんとナレィに重力操作で浮かべてもらえなかったなー。あ、意識のある時にね」


「そういえばそうだね」


「どんな感じだった?」


「こう、ジェットコースターで落ちてる時のさ、」


 私たちはどこか似ているのかもしれない。でも、そんなことよりも。


「WITHGRAVと主さんは、オゥルくんとナレィと一緒に先へ進めるかな」


「……あれ? ハルカ覚えてるの?」


「ん? うーん……さぁ」


 目の前で大きな大きな空の板が剥がれ落ちた。


 軽く手を握るくらいでいい。もっと強いものが私たちを繋ぎとめてくれるから。ナツの言う通り、落っこちたり、どこかに飛ばされたりしても。きっと。

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