05_ガベージコレクション

――綻びの無いものなど在り得ないのだろう。なぜならそれは“私たちが造ったもの”なのだから。



「ねえ、一体、どうしたのっ」


 呼吸を整えながらナツに聞く。私たちは一言も交わさず走って自転車のところに戻ってきた。先に着いたナツは自転車に寄り添うように立って、いや、重心を低くするように腰を落として……何かを探すように空を睨んでいる? 色褪せた道路の一角は気の抜けたような静けさのままだが……


「ハルカ私にくっついて。なるべく強く、抱き着いてもいいから」


 ふざけて言っているのではない、ナツは明確に何かを警戒している。空を走り見る彼女の視線を追ってみるが私には何も見つけられない、微かに聞こえる低い音が続くだけ。


「……来た。見て、あそこ!」


 遠くの空を指すナツ。ピントを合わせると確かに黒っぽい浮遊物が漂っている。瓦礫が強力な磁石に吸い寄せられて塊になったような意思の無い輪郭、でも比較的大きいことを含めて他の塊以上の際立った何かは感じない。


「あの島がどうかし……た?」


 言い終える前に、空が少し歪んだように見えた。目にゴミでも入ったのかと思ったが違う、見え方が不安定に流動していく。浮遊物の周りの空間が奥に凹んだように見えたかと思えば、容器に同色の液体を入れてゆっくりかき混ぜているようにも見え始めた。


「空が……」


「あの島、もうすぐ消える」


 消える? その意味を理解できないままずれたピントを浮島に合わせようとするが、私の目は奇妙な振る舞いを見せた。ぼんやりと輪郭が見えていただけの浮遊物に一瞬鮮明な輪郭が……見間違いじゃないのなら、集合団地のような建物――経済成長期に乱立した無機質な建造物を仰ぎ見る視界、その中心に……三角の骨組みから提がる二つのブランコ? モノクロフィルムが巻き取られるように映像は駆けて行き、頼りない自分の目は解釈を待たず次のフェーズを切り取り突きつける。浮遊物が粉々になって、空に……分解されていく。


「何? 何が起きて……」


「まだ途中なんだ。ごめんハルカ、くっつくよ」


 理解が追い付かない私をナツが引き寄せた。片膝をついて更に重心を低く、それから自転車を脇に抱えて固定し……自転車は放して、両腕を私に。左腕で私を固定したナツは右手で私の手を強く握った。まるで衝撃や地震に備えるように。そう、何か巨大な存在に怯えるように。それを感じ取った私もなるべく身を縮めて手探りで踏ん張る。きっとナツの目は閉じていない、しっかりと開いて、


「う……わ」



 途切れた。



 私の声は遅れて零れた。足元が大きく揺れたように感じた。眩暈とも思った。でも違う、私の意識が、ともすれば世界の意識がほんの一瞬だけ断絶した、そんな強烈な実感が襲ってきた。それは言語化できるような、ヒトが生きて体験できるような事象だろうか。凝縮と跳躍、断絶と停止、撹拌と……


「良かった……無事だ……」


 ナツがゆっくりと息を吐く。

 そうか、ナツの手は、強く握られた手の感覚は私を繋ぎ止めていたんだ。力が抜けたようにナツがアスファルトに崩れる。


「……ナツ?」


「あ、ごめんごめん、もう大丈夫」


 錨を水底から引き上げるように、私の手から命綱が解けた。


「私、今のを何度か見てるんだ。ハルカを見つける前にさ。まあ座って。えっとね……」


 順に、観測できたその現象について言葉を並べるならば。ナツはゆっくりと説き始めた。まず空のどこからか低い唸り声のような音が聞こえるのだという。これは私にも聞こえていたあの音だ。音源の大体の方角は人間である私たちにも探知ができて、概ねその方角のどこかで空間が歪むのだという。巨大な浮遊物の近くが選ばれるのは恐らく偶然ではない。奇妙に、膨れるようにも凹むようにも、捩じれるようにも溢れるようにも見えるそれは、空間そのものが“その状態でいられなくなった”ことを思わせる。そしてその場所は瓦解し、消滅する。


「ここまで、ハルカにもそう見えてた?」


「うん。……あ、でも」


 角砂糖が溶けるように消えゆく直前、浮遊物が私に見せた光景は? 集合団地とブランコの、白黒写真のような、映像のような。


「私には見えなかったな。島だけをじっと見てなかったからかもしれないけど……。ハルカ、それ覚えといて。きっと何かのヒントになると思うんだ」


「分かった。でも夢みたいにすぐに忘れ……」


 一瞬、二人とも沈黙する。


「夢……か」


「気になったよね」


 そしてほぼ同時に確かめた。私は頬をつねってナツは自分に平手打ち。


「痛みはあるって確認済みだけど、一応さ」


「うん。念のため」


「……お互いに相手にもやってみる?」


「痛いからやめとこう」


 物が浮かぶ空にも色褪せたモノとヒトにも答えは出ないままだが、感覚や思考の類は問題なく鮮明だ。ひとつ、記憶の一部にカーテンが掛かっていること以外は。


「でね、大きな塊が一つ消えると、」


 世界が途切れる。端的に言えば私はそう感じた。


「良い線行ってると思う、多分そんな感じだよ。でもそれだけじゃないんだ。ハルカもう立てる? こっちに来て」


 少しふらつきながら立ち上がったナツを追って私も立とうとすると、確かに脚に力が入らない。Uターンしてくれたナツの手を借りて立ち上がったら今更足が震えていた。

 切り取られたアスファルトの車道を縁に沿って少しだけ歩いて、ある地点から島の下を見る。


「ご覧あれ」


 そこから見えたのは私たちが最初にいた駅舎の島だ。


「……ん?」


 と思ったけれど何か形が違う。3列あったはずのホームは2列になっていて、欠損していたはずの駅舎が形を取り戻している。それからあれは……電車だ。短い電車が……違う、色褪せた電車は4両目の半分までだけ切り取られて忽然とそこに現れている。


「そっくりな駅の島じゃないよ。さっきまで私たちがいたところが書き換わったんだ。もっと言うと、」


 どうにか解釈して呑み込む私にナツは言葉を続ける。手を伸ばして上に広がる空を、扇を広げるようになぞっていく。


「気付いた?」


「塊と島が……増えた?」


「流石。見間違いじゃないと思うよ」


 空を漂う浮遊物――瓦礫の塊やどこかで見た地上を切り取ったような島たちの密度が増した。のっぺりとした無限遠の空に疎らに気まぐれに配置されていることには変わりないが、変容を検知できる程度に明らかに。無言で道路の反対側を示すナツ。目を遣ればすぐ向こうでハリボテ建物たちの一部が“奥行き”を獲得している。この島でさえ小さく拡張された、そういうこと?


「どう言えばいいのか難しいところなんだけど、大きな島を消した後で空間全体に再配置するようなことが起きてるんだと思う。物というか、質量というか、それをね。……恐ろしいのはその法則が読み切れていないところ」


 さっきの瞬断絶と再編成は比較的穏やかなものだったとナツは言う。自分のいる島や周囲の島どころか、目に見える視界全体がでたらめに変容したこともあったらしい。再配置と言いはしたが、“再配分”とはとても思えない明らかな密度の加算変化。その発生場所は予測できず規模影響はヒトのスケールなど気にも留めない。……だからこそだ。もし仮に今立っている場所が丸ごと消し飛んだら? 足元の地面は無情な虚空に変わり、きっと自分は無力に薄青い空に飲まれてしまうだろう。ともすれば、直接……。

 大きなエネルギーを伴う圧倒的な現象。それはちっぽけな人間ひとりに、信頼のできる場所など、確かな物など何もないのだと突き付けるようだった。何度か遭遇する度にナツはそう感じたという。


「だからさ、あれでどうにかできると思ったわけじゃないけど、その、……ハルカと離れたくないと思ったから」


 ナツは空飛ぶ自転車よりもずっと役に立たない私を繋ぎとめようとしてくれたのだ。……いや、そうじゃない。役に立つかどうかじゃない。やっと、ようやく理解した。


「ありがとう。もし私がナツだったら、きっと同じことをしたよ」


 自己と他者と世界の確認など建前。ただ気軽にお喋りができる人間を最初に探した。ところが常識の通じぬ空の上は薄情だった。探しても探しても見つかるのは特性も年代も分からない遺物のような瓦礫ガラクタばかりで、やっと見つけた人型の影は色褪せたまま停止していた。人間は誰しも寂しがり屋だ。ましてや底の見えない空の上で、足を滑らせたら消え去るのだ、計り知れない天災を思わせる現象に揺さぶられもして。……私がナツに近い定義を持って、駅のベンチで寝ていて良かった。私を起こしてくれたのがナツで良かった。


「一緒に、」


 帰ろう、取り返そう。そのどちらでもない言葉を私は続けた。

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