第六話
「シュルツ!?」
慌てて振り返ったダレオナの目に飛び込んできたのは、魔物の姿だった。ごわごわの焦げ茶色の毛並み、頭部に生えた二本の角はダレオナの腕よりも太く、大きく湾曲している。牛に似た姿だけど、大きさは倍以上、尾の生える部分には青白い蛇が生えていて、獲物の品定めをするように先端の割れた赤い舌を出したり引っ込めたりしている。三年前、ミセティアを殺した魔物と同じ姿だった。
顔から血の気が引くのが分かった。今度こそ体がすくむ。呼吸がうまくできないような気がした。
イルレッガが剣を構え、シュルツも気を取り直したように剣を構えている。だけど魔物に比べれば、体格のいいその二人でも子供のように小さく見える。
ダレオナは三年前に同じ魔物を倒した。今も当然同じことができるはずだ。二人の手助けをしなければ――。
「きゃ!?」
すくむ自分を叱咤して前に踏み出そうとした瞬間、何かが体に絡み付いて引き倒された。
「君はここにいないと。巻き込まれて死んでしまうよ」
オディオンがうっすらと笑う。十歳そこそこの子供とは思えない、背筋が泡立つような酷薄な笑みだった。
「……あなた、誰なの」
体に絡み付いているのは、さっきイルレッガたちを捕らえていたツタだった。腕ごとツタに巻かれて、ろくに身動きが取れない。
「君の婿になる者だよ」
「オディオン……じゃない?」
「姿と名前を借りている。本当の姿は結婚した時に見せよう。楽しみにしておくといい」
声も姿も今までのオディオンと変わりはない。だけど口調はまるで違っていた。子供ではなく、大人だ。恐らくダレオナより年上で、そして魔術師。姿を変えられなんていったいどれほど強力な魔術師なのだろう。ダレオナでは到底足下にも及びそうにない。
だけどそんな人が、どうしてダレオナの婿になろうとしているのだろうか。
そんなダレオナの思考を断ち切るように、魔物が雄叫びを上げる。右前脚の付け根近くから血が出ていた。イルレッガがその近くにいる。彼の刃が魔物の肉を裂いたらしい。でも、イルレッガも顔や腕に怪我をしている。
「は、おとりか。あの若造に仕留める力があるものかね」
オディオンが鼻で笑う。彼の言う若造は、シュルツなのだろう。魔物の背後に回り込んでいる。
オディオンはここから高みの見物をするつもりのようだ。視線もイルレッガたちの方に向いている。ダレオナは自分の体を締め付けるツタを見下ろした。操るのに呪文は使わないから、オディオンの注意が向こうに行っている隙にこれをほどかなければ。
だけど、さっきは手応えが悪いながらも操れたツタが、今はぴくりとも動かない。いくら視線に魔力を込めても手応えがなかった。
「無駄だよ。さっきは君の力を甘く見ていたから主導権を奪われてしまったが、今度はそうはいかない」
「このツタはあなたが操っているのね」
「――植物はたやすいが、動物はなかなか難しい。ある程度言うことは聞かせられるが、意のままとなるとさすがに難儀する」
「まさか、あの魔物も?」
ダレオナを見下ろすオディオンの口元はおかしげに歪んでいた。
「父様のお茶にリアリアの実を入れたのもあなたね!」
「未成熟の実を一粒。死ぬ量ではない。運が悪くなければね。――もっとも、あの二人が不必要なのはもちろんだが、ヒーダーも必要とは言えない」
「あなたなんか、絶対に選ばないわ!」
オディオンの姿を借りた魔術師の狙いは、ダレオナの婿という立場――きっと、荘園がほしいのだ。手に入ってしまえば、ダレオナも必要ないと言って手にかけるのだろう。
「さっき、動物でも、ある程度は言うことを聞かせられると言っただろう。それに、薬草をいくつか使えば君を操るのはそれほど難しくない。薬草が効く分、むしろ魔物よりもたやすい。手荒なことをされたくなければ、大人しくしておくことを勧めるよ」
オディオンの視線は魔物たちへ向けられる。見張っていなくともダレオナは逃げられないと思っているのだ。
操れないのであれば、燃やしてしまえばいい。縛り上げられているのが自分なら、ツタを燃やすのにもためらいはなかった。このままではみんなオディオンに殺されてしまう。
火をつけるための呪文を、オディオンに気付かれないよう小さな声で紡ぐ。
呪文が完成しツタが燃え上がる――はずなのに、炎は上がらない。ツタを燃やそうとした瞬間、何者かに魔術をかき消されたような手応えだった。何度やっても結果は同じ。
オディオンが、火をつけるのを見越して何らかの魔術を施しているに違いない。彼の方が魔術師として相当上手だから、その魔術を破るのはほとんど不可能だ。
魔物の咆吼が大気を震わせた。見やると、尾の蛇がいなくなっている。シュルツが斬り落としたらしい。オディオンの眉間にはしわが寄っていた。
二人が善戦しているのはいいことだけど、さっきより傷が増えているように見える。
呪文を紡げば三年前のように魔物を砕けるだろう。でも、火をつけるのとはわけが違う魔術だ。呪文を唱える段階でオディオンに気取られる可能性はとても高い。ほかの、オディオンにばれない方法で二人の手助けをできないだろうか。ダレオナは必死になって周囲に役立ちそうなものがないか探した。だけど、めぼしいものがない。いちばん役に立ちそうなのはダレオナを締め付けているツタだ。でも、これは操れない。
どうすればいいと半ば焦ったダレオナの目に飛び込んできたのは、森の下草だった。雑草ばかりで、細長い葉っぱは引っ張れば簡単にちぎれてしまう。だけど、くるぶしまで伸びているそれは、地面を埋め尽くすように生えていた。魔物のそばにも、もちろん。
ダレオナは、魔物の足の動きを注視した。地面を踏みしめた瞬間を狙って草を編んで輪を作り、魔物の足がその輪に引っかかるようにするのだ。封じることは無理でも、一瞬動きを止められる。オディオンに知られてはいけないから、二人にそれを教えることはできない。ダレオナの作る隙を突いて二人が魔物を倒してくれるのを期待するしかない。
魔物の角がシュルツの胴を狙う。体勢を崩しかけているシュルツはそれを避けられそうにない、とダレオナが息を詰めた瞬間、イルレッガがシュルツを突き飛ばした。代わりに、イルレッガの脇腹を角がかすめる。痛くないはずがないだろうにイルレッガは踏み留まり、剣を構えて魔物の眉間を狙った。魔物は頭を振り角で剣を弾き返す。イルレッガは飛びすさり、それとほとんど同時に体勢を立て直したシュルツが首の根元に剣を突き立て、引き抜いた。
魔物が再び吠えて、怒り狂ったように前脚を高く上げた。
――今だわ!
魔物の足が着くであろう地点の下草に、魔力のこもった視線を向ける。何枚もの葉をより合わせ、太い前脚が地面に叩き付けられて地響きがした瞬間、輪を完成させた。魔物の足は草の輪を通っている。踏み出そうとしてそれが引っかかり、動きが一瞬止まる。
イルレッガとシュルツは、それを見逃さなかった。シュルツはさっき剣を突き立てたところにもう一度、そしてイルレッガが眉間に剣を突き立てる。
一際大きな咆吼が大気を伝わってダレオナの肌をも震わせる。思っていた以上にうまくいったことに驚き、真っ赤な血をまき散らして巨体が倒れる様を半ば呆然と見ていた。
「――馬鹿な」
オディオンも驚きを隠せない様子でつぶやく。後は、彼をどうにかするだけだ。
「おい、何をしている!」
イルレッガとシュルツが、一息つく間もなくこちらの異変に気付いた。
ダレオナに絡まるツタを見たシュルツが血相を変える。
「待て、シュルツ! 様子がおかしい」
イルレッガが止めようとするけれど、シュルツは聞かずにこちらへずんずんとやって来る。
「それ以上近付くな」
オディオンは素早く取り出した短剣を、ダレオナの喉元に突きつけた。シュルツの足がその場でぴたりと止まり、イルレッガが眉をひそめる。
「オディオン……お前、自分が何をしてるか分かっているのか」
「シュルツ、に――っ」
逃げて、と言おうとしたら、オディオンが突きつけていた刃をぴたりと喉に当てた。冷たい感触に背筋が凍る。
「大したガキだと思ってたが、まさかここまでとはね。恐れ入る」
「あの魔物に比べればわたしは小さいから取るに足りぬと思っているのだろうが、見た目を信用しないことだ」
オディオンが普通の子供ではないと分かっても、姿さえ変えることのできる魔術師だと気付くだろうか。
「人質を取ってまで荘園がほしいのか。ダレオナが糾弾すれば一発でおしまいだろうが」
「自分たちが死んだ後の心配は必要ないだろう」
オディオンが不敵な笑みを見せた直後、地響きがあった。死んだと思った魔物が荒々しく大地を踏みつけて起き上がり、口から血を飛ばしながら吠えた。
いちばん近くにいたイルレッガが慌てて剣を構えるが、魔物が前に踏み込み頭を大きく振って、角でイルレッガの胴をないだ。イルレッガは剣で防ごうとしたものの腕ほども太い角には敵わず剣を折られ、なぎ倒される。
ダレオナが息を飲む間に、魔物は次の標的であるシュルツめがけて突進してきた。突き出された角がぎりぎり届かない距離で、シュルツは横に飛びすさる。猛然と走る魔物はシュルツのいた辺りを通り過ぎ、ダレオナたちの目と鼻の先で方向転換した。その時、魔物の血が飛び散ってダレオナの顔や体にも降り注ぐ。
「早く始末しろ」
当然、血はオディオンにもかかっていた。オディオンが舌打ちして顔を拭う。その時に、ダレオナに突きつけていた短剣を退いた。もう必要ないと判断したのだろう。
シュルツの悲鳴が上がり、イルレッガが彼の名前を叫ぶ。地面に仰向けに倒れたシュルツの右腕が、魔物の左の前脚に踏みつけられていた。魔物が右脚を上げる。あれで胴を踏みつけられたら内臓が潰れシュルツが死んでしまう。イルレッガが折れた剣を手に立ち上がり、シュルツを助けようと駆け出す。間に合うだろうか。間に合っても、折れた剣では。
体中の血液が逆流し、いつの間にかほどけた髪が逆巻くように感じた。意識が瞬時に研ぎ澄まされて、目に映るのは血まみれの魔物だけになる。呪文を紡いだかどうか自覚はなかった。でも、砕けろ、と強く純粋にそれだけを考えていたのは分かった。そして思い出す。三年前もこうしたのだった、と。
魔物の巨体が、更に大きな手で叩き潰されたようにひしゃげた。噴き出した血と、砕けた角の破片がシュルツに降り注ぐ。
「馬鹿な! 小娘、お前が――」
オディオンは先ほど以上に狼狽していた。ダレオナが魔物を倒せるとは思っていなかったのだろう。
シュルツが踏み潰される前に間に合うかどうか自信はなかったから、ダレオナ自身も驚いている。そして、ひどく消耗していた。髪を編むくらいの簡単な魔術しかここ数年使っていなかったのに、いきなり大きな魔術を使ったせいでひどい倦怠感に襲われていた。
狼狽しながらも、まだ諦めていないオディオンに襟首を掴まれる。それに抗おうという気力も湧いてこない。近くでオディオンが何かわめいていたけれど、一度うめき声を上げ、それきり黙ってしまった。襟首から小さな手が離れる。
「ダレオナ、大丈夫か?」
イルレッガが肩を掴み、ダレオナの顔をのぞき込む。視界の隅に、地面に倒れ伏すオディオンの姿があった。
「ダレオナ!?」
大丈夫だと答えたかったけど、疲れ切って声も出ない。視界が暗くなり体が前に傾いで、イルレッガにもたれかかってしまう。覚えていたのは、そこまでだった。
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