アレキサンドライトは未来を願う

かいね

第1話 "宝石の街"

「ねえ、おにいさん。私と駆け落ちしてくださらない?」

 そう言って、彼女はクスリと笑った。

 その、年齢不相応に大人びた表情に、思わず心臓がドキリと跳ねる。

 ”女は生まれたときから女”とは、どこで聞いた言葉であっただろうか。その言葉が嘘でなかったことを、今まさに実感させられていた。昼間に話したときはモンシロチョウのように屈託なくかわいらしかった彼女が、今は濡れ羽色のクロアゲハのような艶やかな雰囲気を放っている。

 すでに夜も更け、雲のない星空には満月が上がっている。今日が満月だったのは幸いだったのか、不運だったのか。目の前の彼女の、その瞳の奥までもがはっきりと見える。

 夜のベランダで月を背景にじっとこちらを見つめる彼女。その姿は絵画のように美しく、アメシストの瞳に吸い込まれそうな気さえしてくる。

「ど、どうしたの?いきなり」

 言ってから思った。我ながらその返答はどうなのかと。

 こう言っては言い訳がましいが、昼間と全く違う彼女の雰囲気に気圧されてしまったのだ。

 そんな僕を見ておかしそうに笑った彼女は、手すりに乗せていた僕の右手に、そっと、自分の左手を重ねる。彼女の手から伝わる熱が、妙に熱く感じる。

「いきなりだなんて……恋に時間は関係ないと言うでしょう?」

「いや、関係あると思うけど…」

「まあ!一目惚れなんてするようなはしたない女は嫌かしら?」

「……そういう意味じゃなくって」

「ふふ…」

 悪戯な顔で笑う彼女の言葉に翻弄される。

 女の子は本当に、こういうのをどこで覚えてくるのだろうか。僕の方は、こういうやり取りを何回したところでちっとも慣れる気がしないというのに。こういうところ、女の子はずるいと思う。

 そんな僕の内心の動揺を見透かすように、彼女は僕の目をじっとのぞき込んで、こう言った。

「ねえ、私のこと嫌い?」

 …本当に、ずるい。

「――その言い方は卑怯でしょ…」

「あら、お嫌いでしたか」

「……嫌いじゃない」

 顔が少し赤くなったのを感じる。全くもって、ガラじゃない。

 彼女は、そんな僕の内心を見透かしたように、満足そうに笑った。

 とても癪なことに、その笑顔は信じられないほど綺麗で、しばし見とれてしまった。

 彼女が、空を見上げる。つられて空を見上げてから初めて気づいたが、今日はいっとう星が良く見える。まるで宝石箱のような、綺麗な星空。

「――今日は、星空がとても綺麗です」

 彼女が、ぽつりとそう言った。それは、さっきまでのような僕をからかう口調ではなく、目の前の光景に思わず口を突いて出たという感じだった。

 ふと、右腕に暖かさとわずかな重みを感じる。彼女が僕に寄りかかってきたのだ。

 今はもう、先ほどまでのように動揺はしなかった。星空を見る彼女の横顔と、こぼれ出てきた素直な言葉が、僕の心を穏やかなものにしていた。

「うん、とても綺麗だ」

 だから、僕のその言葉も、自然と心のうちから零れ出たものだった。

 穏やかな沈黙が流れる。

 一瞬のような、永遠のような沈黙。それを破ったのは、未来に思いを馳せるような彼女の呟きだった。

「私は見たことがありませんが、きっと、外の世界の星空も、同じように綺麗なんでしょうね」

「どうだろう、見る場所とか天候とかによると思うけど…」

「…なんというか、夢がないですね。おにいさん」

 うぐ、と言葉に詰まる。確かに今の返しは無粋が過ぎた。少し反省。

 彼女は小さくため息をついて、続く言葉を口にする。

「……でも、そんな綺麗だったりそうじゃなかったりする星空を、また二人で見上げるのは素敵だと思いませんか?」

 彼女の言葉に、その光景を夢想する。

 二人旅のなか、夜汽車の車窓から、宿の窓から、もしかしたら空に手が届くかのような高い山の上で。彼女と二人、空を見上げる。それは、まさしく夢のような、穏やかな時間になるのだろうと思えた。

「…うん、それは、とても素敵だ」

 だから、その言葉に虚飾はなく。それは、心からの肯定だった。

 徐に彼女が身を離し、僕の方に向く。その、アメシストの瞳が僕を正面に捕らえ、彼女の真摯な心を僕に伝えてくる。

 僕は、今から彼女が一番の本音を口にするであろうことを察し、彼女と向き合った。

 一つ、彼女は深呼吸をして。その言葉を口にした。


「ねえ、おにいさん。私を外の世界へ連れていって?」


***


「旦那、着きましたよ」

「…ん?」

 御者の声に、読んでいた本から目を上げる。ついつい熱中してしまっていたが、いつの間にか目的の街についていたようだ。

 石畳を馬車が進む振動で揺れる視界の中、御者台越しに街を眺める。そこから見えた光景に、思わずハッと息をのんだ。

 雲を突く山と深い霧に覆われた森に四方を囲われた秘境、”宝石の街”エルメライト。たどり着くためには険しい峰を超えるか惑いの森を進むしかないこの街は、他の街との交流はほとんどない。汽車の発展に合わせて整備された鉄道網によってだいぶ旅がしやすくなった現在であっても、この街を訪れたことがある人間はほとんど見たことがない。いまだにおとぎ話の産物だと信じている人間も多いのは無理もない話だ。

「というか、これは本当におとぎ話の街だねえ…」

 漆喰塗の石造りの壁にかやぶきの屋根、白い石畳の道路、街の中央を流れる大きな川。さらに、街並みの半分以上を占める木々や草花によって、森に囲まれた街、というよりは森の中に街が作られているといった風情だ。穏やかな春の陽気も相まって、その辺の藪をつつけば妖精の一人や二人飛び出してくるかもしれない、そんなバカげた妄想まで湧いてくるような、のどかな風景だった。

 少し前まで鉄と煙に覆われた王都に住んでいたためか、なおさらにこの街の美しさに心打たれてしまう。日々時間に追われる息苦しいあの町と比べると、ここは本当に別世界のようだ。

「何と言うか、綺麗な街ですね」

「はは、そうだろう、旦那?俺も初めてこの街に来たときは驚いたもんさ」

「でしょうね…」

 御者のおっさん――ロバートさんの言葉に、それはそうだろうと頷く。この景色を見て驚かない人間は、同じような街を見慣れているか感受性が死んでいるかのどちらかだ。


 しばらく街並みを眺めながら、エルメライトの街を進んでいく。

 途中、街の中心を流れる川にかかった橋を通る。橋の上から川を眺めると、川の浅瀬で魚を追いかけて遊ぶ子供たちや釣り竿を掛けて魚釣りに興じる男たちの姿が見えた。川の水はとても澄んでいて、コバルトブルーの水面越しに泳ぐ魚のみならず川底までしっかりと見える。確かにこれは、中に入りたくなったり釣りをしたくなったりするかもしれない。

――特に、これからの季節は暑くなるから、あの川に入ると気持ちいいかも。

 そんな夢想に耽ることしばし。

 そういえばこの馬車はどこに向かっているのだろうと思い始めたころ。

「旦那、このまま宿まで向かっても構いませんかい?」

 ふと、ロバートさんがそう聞いてくる。

「ええ、構いませんが…」

 観光目的の旅ではあるが、急いでいるわけでもない。

 この街のことは何も知らず、もちろん宿の場所も分からない僕にとっては渡りに船な提案ではあったが、一つ気になる点はあった。

「でも、商館なんかには向かわないでいいんですか?」

 今回のこの旅では、ロバートさんの馬車が単独でエルメライトに来たわけではない。というか、いくら山道が整備されているからといって、エルメライトの半分を囲むあの雲隠れの山を単独で超えようとするのは自殺行為だ。

 山賊による略奪行為や野生動物の襲撃などの危険をすべて撥ね退けるには、個人が雇える程度の護衛では心もとない。それに加え、山道の案内人や怪我をした時の処置ができる人間など、すべてを個人で用意することは到底できない。そんなわけで、エルメライトに向かうキャラバンが定期的に編成され、多くの商人たちがそれに参加しているというわけだ。

 僕が今回馬車に乗せてもらったロバートさんもそんな商人の一人である。だから、キャラバンの商人たちが向かうような商館でもあるんじゃないかと思っていたのだが…

「いやあ、商館に向かうような人達は大きな商店のオーナーくらいで、私たちのようなしがない行商人は適当に宿をとって終わりですよ」

 なるほど。


 さて、宿とはいったがあまり他の街との交流もないこのエルメライトでは本格的な宿は必要とされていない。今回泊まる場所も、単に酒場の空き部屋を改装したもので、普段は動けなくなるまで飲んだ酔っぱらいを一晩泊めるような使い方をする程度の物らしい。

 ロバートさんからそう聞いていたので大して期待してはいなかったのだが、いざ着いて部屋に入ってみると意外と悪くなかった。部屋こそ狭くてベッドを除けば荷物を置くスペースくらいしかないものの、よく掃除されていてベッドも清潔感がある。

 安宿だと部屋の中が虫だらけになっているくらいは当たり前なので、むしろかなり上等だ。酒場の主人も言及していなかったから何かしらのサービスという訳ではないだろうが。普段の掃除しているであろう酒場の奥さんの性分によるものかもしれない。

――後でお礼の一つでも言っておこうかね。

 部屋の清潔さにお礼というのも変な感じがするが、それくらいはしておきたい気分だ。


 荷物を置いて人心地着いたところで、さあ読書の時間だと思っていたら、ぐうという腹の音で自分のお腹が減っていることに気付いた。

 読書の時間は大切であるが、食事も大切だ。特に、この旅の最中は保存食ばかり食べていたので、温かい食事が恋しい。

 というわけで、階下に降りて酒場で食事をすることにした。時間としてはまだ夜の食事時には早いので、酒場には人影はほとんどない。静かに食事をとりたいところだったのでちょうどいい。

「主人、適当に食べるものを頼む」

「おう、若いの。ここの名物は鹿肉と芋のスープだ。どうだ?」

 酒場の主人がスープを煮込んでいる鍋を指さしてそう言う。どうだもなにも、ここの食事がどの程度の物かを知らない自分にとってはオススメを出されようが間に合わせを出されようが分かりもしないが。ただ、主人はそのスープに相当自信があるようなので、その勧めに従っておく。

「じゃあ、黒パンとそのスープ、あとは適当にチーズでも」

「あいよ」

 主人から皿を受け取り、適当な席に座る。主人が自信をもって進めるだけあって、スープは結構よくできていた。変わった具材は使われていないが、丁寧な下処理をしてあるし、煮込み過ぎてもいない。試しにひと口食べてみると、ちょっと濃いめの味付けながらもコショウも効いたなかなかの味だった。いや、旅で疲れた体には、むしろこのくらいの塩気が嬉しい。

――これは、意外に当たりを引いたかな?

 もしかしたら、ロバートさんはこの辺を承知でここを選んだのかもしれない。


 料理の味に満足した僕は、先ほど読もうとしていた本を取り出して念動魔術で目の前に浮かせる。食事と同時に本を読めるこの方法は、魔導学院時代に編み出したものだ。

 奇人変人も多い魔導学院ではこれくらいはなんてことはなかったはずだが、よく一緒にいた貴族出身の後輩には大変不評だった。不評というか、全面否定された。

『食事中にそんなことをする先輩の気が知れない!最低!!』

 初めて彼女の前で見せた瞬間にらしくもない剣幕で怒鳴りつけられ、抗議を一つ逃すほどに滔々と説教され、終いには彼女といるときは絶対にやらないと誓わされた。そこまでするほどかと思ったが、普段のんきな彼女が怒ったさまが恐ろしく、流石に反論できなかった。

――いつでもどこでも読書ができる、画期的な方策だと思うんだけど…


 そんなことを思い出しつつも、本を読み続ける、もとい食事を続ける。

 今読んでいる本は、とある小さな村に伝わる伝承をまとめたもので、歴史書に近い童話集といった感じだ。

 スープはチーズと一緒に食べてもおいしい。

 割と具体的な人名地名が出てくるが、その人物の来歴や子孫はあまり書かれておらず、今に続く歴史を紐解くには不十分な感じではある。

 黒パンは堅いが、スープに浸すといい感じにふやけて食べやすい。

 話の内容は、教訓を前面に出したものではないが、若干のホラー要素もあり子供に言って聞かせるための逸話という感じがある。

 スープには思っていたよりも具材が多く入っていて、なかなかの食べ応えが……


「…えっと、さすがにそれはお行儀が悪いですよ?」


 不意にかけられた言葉に、心臓が跳ね上がる。叫び出さなかった自分をほめてやりたいくらいだ。『飯と酒があれば満足』な客が多い酒場で礼儀を説かれたのも驚きの一つではある。だが、何よりも驚いたのは――

――外で警戒を解くほど平和ボケしてないつもりだが……

 食事の最中とはいえ、いや、だからこそ周囲には注意を払っていたはず。それにも関わらず、声をかけられるまで”彼女”の存在に気が付かなかった。

 読んできた本から視線を外し、声の主に目を向ける。


 紗のような柔らかな金髪に、エメラルドのような碧眼。絵画から飛び出してきたかのような可憐な少女が、そこにいた。

「……は?」

 思わず、疑念が口から漏れ出す。なにせ、目の前の少女は見たこともない。そもそも、初めて訪れたこの街に会ったことがある人間が――ロバートさんは除いて――いるとは思えない。

 では、なぜこの少女は知り合いでもない僕に話しかけてきたのだろうか。

 少女の顔を見つめる。

 薄い水色のドレスを身にまとい、肩に薄手のショールをかけたその少女は、僕と目が合ったことに気づいて二コリと微笑みかけてくる。童女のような、邪気のない笑顔。警戒しなければと思いつつも、その可愛らしい笑顔に毒気を抜かれてしまう。

 そんな僕の内心の葛藤も知らず、朗らかな笑顔でその少女はこう切り出した。


「ねえ、おにいさん。私と、少しお話しませんか?」

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