7 綾禍のつづき

 次の二時間目、現国の吉川先生は教室に入ると、やる気なさそうに教卓の上に出席簿を放り出した。

 吉川先生にやる気がある日は滅多にないからみんな慣れているけど。

「今日はまた一段とダルそうじゃん、由里子ちゃん」

「あ? ああ。ダルいよねー人生。はーあ」欠伸を噛み殺しつつ。

「どしたん? ヤニが切れたんか?」

「ん? ヤニと……あとオトコ? おとこひでり、ってヤツ?」女子は唖然、呆然、失笑。男子大興奮。

「先生! ワシでよければいつでも」「立候補! 立候補する!」先生のファンの男子たちが騒ぐ。

「ばーか。あーあ、どっかにいい男いないかねー?」と言ってクラスを見渡し、目を伏せて深い溜息を吐いた。

「先生は可愛げが足りんのじゃ。そがいなことじゃけー、恋人いない歴三十年になるんじゃ」

「可愛げとか疲れるじゃん。ってか、まだ二十九だし。それに女性に対してそういうの、セクハラだからね」と凄む先生。どっちかというと自分でまいたタネ感が強い。

「ワシらの顔見て溜息吐くんも立派なパワハラセクハラじゃけえ」

「はいはい。一部不適切な言動があったことを謝罪し訂正します。だからチクるなよ!」

「由里子の不適切な言動を一々チクってたら日が暮れるわ」

「呼び捨てすんな。はい。じゃあ授業始めるよ」

 本日のじゃれあいタイム、いつもより短めだったな。

 やっぱりお疲れ気味なのかも。


「由里子先生これ、こないだも読んだじゃん。いつになったら内容に入るん?」

「いいじゃん、繰り返し味読するのは大切です」

 と断言して、また端の列の人から順番に一段落ずつ朗読させる。今日もまた授業の準備サボったらしい。

 最初のうちは段落ごとに、次の人、次、と呼びかけていた先生は、一々言わなくても次々読んで、と言い出した。それすら面倒なん?

 たどたどしい朗読が続く中、机間巡視していた先生の姿が消えた。あれれ、と思って後ろを振り向くと、欠席してる人の座席に座って、おもいっきり机に顔を伏せている。寝る気満々か。

 彩乃ちゃんもそっちを見て「さすが由里子ちゃん。肝が座ってるよね」

 いやいや、そういう問題じゃないじゃろ。

 案の定、数秒後にはスースーという寝息が。

「先生、寝てません?」

「寝ーてーまーせーんー。ちゃんと聞いてますー」スースー。

「そがいに無防備じゃと寝込みを襲われるでー」と一番襲いたそうな男子が。

「やれるもんならやってみんかいワレ」ぐーぐー。

 呆れる者、笑いをこらえる者、意外に可愛い寝顔に見入る男子たち。

 田中くんまで寝顔に気を取られてるし。ぷーん。

 佐々木先生とのキス事件はあれは綾姫と鷹之丞の仕業だろうけど。

 彩乃ちゃんの脚をガン見してた件だって、まあ不可抗力なんだろうけど(わたしだってふと気づくと見つめてることがあるからね、彩乃ちゃんの綺麗な脚)(まあ、わたしの美脚のほうが勝ってるけどねー)

 そんなもやもやを抱えながら、やる気が限りなくゼロに近づきつつある朗読を聞き流していると、唐突に、吉川先生が大声で寝言を言った。

「鷹之丞さまぁ」なんか、くねくねした口調がエロい。

 みんなが顔を見合わせる。

「いま鷹之丞って言った?」

「ってことは綾姫か?」

「とうとう吉川先生にまで綾姫汚染が」

「綾禍パート2か」

 面白がってる場合じゃないでしょ。

 でも、綾姫の件に深く関わっていない人たちにはとっては面白い以外の何ものでもない。喜び勇んで揺り起こしにかかる。

「綾姫、綾姫、大変でござるよー」

「うるさいのう、せっかくいい夢を見ておったというに」

「寝言がダダ漏れでござるよ『鷹之丞さまぁアハーン』って」アハーンは余計じゃろ。

 ガバッと飛び起きる吉川先生。

「わ、妾はさような破廉恥なことは申しておらぬぞえ」

「いやたしかに言うとった」

「ヨダレも垂れとる」

 慌てて手の甲でヨダレを拭いながら、

「ふん鷹之丞などなんじゃ。この浮気者め!」

 と田中くんを睨みつける。そして、

「妾は清志丸がよいわ! 清志丸、清志丸ぅ」

 と呼びながら、高橋くんに目をつけ、駆け寄った。

「清志丸ぅ」くねくねした口調がエロい、というかイヤラシイ。

「いや、清志丸、今ここにはおらん」ビビりながら高橋くんが答える。

「おらんのけえ。ほんじゃあ誰でもいいかのう、鷹之丞でさえなければ」綾姫(吉川先生)は、そういってクラスを見渡し、目を閉じて何かを念じた。

 次の瞬間、女子はみんな綾姫化していた。していないのは、わたし、彩乃ちゃん、なっぴだけ。

 綾姫たちが一斉に手近な男子に迫りだした。膝に乗ったり、抱きついたり、キスを迫ったり。なんだこれ、そういうお店か。女子たちの普段おしとやかな態度に秘めている色気、制服の中で暴発しそうになっている雌の本能、思春期の熱病みたいなエロスのマグマが、綾姫がパンドラの箱を開けた途端に教室中に溢れかえった。

 最初は戸惑い怯えていた男子たちも次第に熱に浮かされ、

「おおー今日は何の祭りじゃ」

「ラオコー春のチュー祭じゃ」

「綾姫さんありがとう」

 女子に迫られて鼻の下を伸ばさない男子はいないという情けない現実。

 阿鼻叫喚のエロ地獄絵図を呆然と眺めていた田中くんが、すがりつくような目でわたしを見た。彩乃ちゃんと、なっぴとも目が合った。みんな(どうしよう)って焦っている。

 わたしだってどうしていいか分かんない。

 ヘソを曲げた綾姫の鷹之丞への当てつけ、あきらかに行き過ぎだ。このまま綾姫の暴走を許していては、取り返しのつかないことになりかねない。

 胸がカッと熱くなり、わたしは自分でも予想もつかない暴挙に出ていた。

「鷹之丞さま!」

 そう叫ぶなり田中くんに駆け寄る。

「え、いま鷹之丞は」

 と言いよどむ田中くん。それを無視して、

「綾はずっとずっとこのときを待っておりました」

 わたしは田中くんに抱きつき、その唇にキスをする。それを綾姫に見せつける。目を白黒させる田中くん。

「な、なにをする樫飯殿!」綾姫たち全員が驚いてこっちを見た。

「妾は綾姫じゃ!」

 わたしはそう言って、傲然と綾姫たちに挑発的な流し目をくれる。次の瞬間、

「おのれ! 我が名を騙るとは卑怯千万!」

 そう叫んだかと思うと、綾姫たちがキスを求めて田中くんに殺到した。

 え、そうなるの?

 わたしは誰かに突き飛ばされて、田中くんと引き離される。

 群がる綾姫たちの中心で、田中くんはもみくちゃになっていた。ってか、喜ぶな! ニヤけてんじゃないよ!

 わたし、火に油を注いじゃっただけ?



      * * * 



 昼休み。

 あまりのことに動転し、仮病をつかって保健室に逃げ込んだオレはベッドで横になっていた。

 樫飯さんの唐突なキス。なんだアレは。極楽か。

 事態を打開するための奇襲作戦。にしてもやりすぎじゃろ。

 それにしたって、やっぱりオレのことが好きじゃないとキスなんてできんよな。なーんて。

 それにしても、女子たちが大挙して群がってきたあのミラクル。綾姫の仕組んだイタズラとはいえ。ああいうの、意外に悪くないかも。気分がアガるし(こんなこと思ってるオレ、サイテーか)

 モテモテのイケメンってのは普段からこんな気分なのか。それともそんなの普通すぎて飽き飽きしてるのか。いずれにしても非モテの恵まれない男のために一刻も早く絶滅してくれイケメン。

 愚にもつかない事をつらつら考えていると、樫飯さん、大木さん、権藤、それに高橋が見舞いに来てくれた。仮病なのに申し訳ない。

 同時に、本当に具合が悪いらしい下級生も担ぎ込まれてきた。

 オレたちは密談のために保健室をあとにし、誰もいない郷土史研究会の部室に移動した。

 大木さんはスマホでニュースを観た。

『安芸文化放送、お昼のニュースの時間です』

 ニュースによると、この学校から姿を消した綾姫、今は廿日市の繁華街に出没しているらしい。まずいわこれは。

『今後、この怪現象「綾禍」はさらなる拡大を見せるのでしょうか?』

「激甚災害だよ既に」と権藤。たしかに。

『予断を許しませんね』と他人事のようなキャスターのコメント。

『付近にお住まいの視聴者の皆様、くれぐれも綾姫の出没に警戒してください』

「出没て、熊か」

「熊じゃのうて不審者じゃろ」

「ねえ、やっぱり綾姫にきちんと成仏してもらわないとまずいよ」と樫飯さん。ああ、樫飯さんの唇の感触が蘇る。柔らかく潤んだ唇、あああ。

「綾姫だけじゃなくて、鷹之丞と清志丸にもね」と権藤「田中、ちゃんと聞いてる?」

「聞いてますよ」

「瑠香ちゃんの感触を脳内でヘビロテしてんじゃないの?」

「そそそそそんなことはなななないから」

「脳味噌とろけてんじゃないのー」ニヤニヤと悪ノリする権藤。

「お、オレは至って冷静です」嘘です。

 樫飯さんが厳しい目付きでオレを見る。

「あれ、ノーカウントだから」へ?

「あれ、あくまで綾姫だから」そうでしたっけ?

「わかった?」念を押す樫飯さん、怖いです。

「分かった。分かってますよ、もちろん」胸を張るオレ。

 あのキスがなかったことになるのは正直悲しい。

 でもいいんだ。オレはあの柔らかい唇の感触を胸に、強く生きていくんだ!

「で、綾姫を成仏させるには?」と真面目に議論する体でオレが問いかける「これ以上、綾姫に翻弄される訳にはいかないからね!」

 眉を八の字に寄せて考えていた大木さんが、

「やっぱさあ、綾姫さんのご機嫌をとってー、で、鷹之丞とちゃんと結ばれないと成仏しないんじゃね?」

「だよねえ」と頷く権藤「でもどうやって機嫌を取る? まず出てきてくれないと話になんないし」

「出てきたとしてもさっきみたいな調子じゃあなー」と高橋。

「おびき寄せるとして、餌は?」と権藤。

 みんながオレを見る。

「鷹之丞はコイツにしか憑依しないから」

「やっぱりコイツを餌にするしかあるまい」

 樫飯さんが不安げに割って入る。

「あのさあ、綾姫と鷹之丞が結ばれるように、って、二人をくっつけるってことだよね」

「うん」

「それは、リアルに、その」言いよどむ樫飯さん。無理に言わなくていいよ。

「そう、リアルに合体」と権藤。無神経か。

「でなきゃ納得して成仏しないでしょ」

 樫飯さんが赤面しながら、

「それ、わたしたちが体を貸すってことでしょ」(お?)

「そうなるね」頷く権藤。

「わたしたちにガチでHしろ、ってこと?」(来ました待望の展開が)

「そうなるね」深く頷く権藤。

「冷静に答えないで。それ無理っしょ」(無理じゃない! 全然無理じゃない!)

「ええ? いいじゃん、どうせ相思相愛の仲なんでしょ」

「そういう問題じゃないし。てか相思相愛って、いつ誰が決めたん?」むくれる樫飯さん。可愛い。

「いやいや誰が見たって」と権藤。デリカシーないけど、正しいぞ権藤。

「でも、ちゃんと告白もされてないし」と樫飯さん。

「まあまあ。素直になりなよ瑠香ちゃん」大木さんまで悪乗りして、樫飯さんの背中をバシバシ叩く。そうだ、素直になるんだ樫飯さん、と心の中で叫ぶオレ。

「素直に? どうせわたしはひねくれてますよ」

 即座に立ち去る勢いで樫飯さんが立ち上がった時、チャイムが鳴った。昼休み終了。

 嫌な感じを残しつつ、話は放課後に持ち越しとなった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る