第二部 第二章 五 あの夜の話

 走っていることが危険と感じられるほどになった。手近にあったファミリーレストランに車を入れた。二階が店舗で、その下が駐車場になっており、雨に濡れずに店に入ることができた。

 店内はがらがらだった。地方の人は平日の夜にあまり出歩いたりしないし、ましてやこんな天気だった。わたしたちと同じように雨を逃れるように入ったらしい若いカップルがひと組いるだけだった。

「ふたりでファミレスに来るなんて、初めてお父さんにあった日以来だね」はるかは席に着くとつぶやくように言った。その無表情な口調は特に感慨があるのではないらしかった。

「そうだな」

 はるかは遠慮することなくイチゴパフェを注文した。わたしはドリンクバーでコーヒーを飲もうかと思ったが、思い直してはるかと同じものを注文した。はるかは目をくりっとさせて、微笑んだ。

「ねえ、お父さんって、人に影響されやすいの?」

「なんで?」

「だってあのときもわたしと同じチーズハンバーグセットを頼んだじゃない」

「頼んだものまで憶えてるんだ」

「うん。あの日のことは一生忘れないと思う。ぜんぶ覚えていると思う」そう言ってはるかは屈託なく笑った。それから真顔に戻ると、「お父さんは今日のことを忘れられる日が来るといいね」と言った。きれいな瞳でわたしを見つめた。

「ああ、そうだな」

 いつかそんな日が来るのだろうか。

 女性店員が愛想笑いさえ浮かべずにイチゴパフェふたつをわたしたちの前に置いて去っていった。

 はるかはすぐに手を付けずに、わたしをじっと見た。

「ねえ、あの手紙のことを話して」

 はるかの目を見返した。ほとんど森野さんと向き合っているみたいだった。森野さんとはこんな風にこんな明るい場所で向き合ったことなんてなかったのに。

「さっきも言ったけど、この話ははるかにだけできるんだ。そういう風に手紙に書いてあった。もしほかの人に話してしまっても何かが起こるとは書いてはなかった。でも約束だから、守らなくちゃいけない。とても不思議な話なんだ」

 はるかは真剣な目で首を縦に振った。

「そう、もし君に好きな人ができて、その人に自分のすべてを知ってもらいたいと思っても、話してはいけない。いいね?」

「うん、わかった。それにお父さんだって、そうしたんでしょう?」

「ああ、そうだ」

 ベッドの中ではるかのことについて話をしていて、しゃべってしまいたい気持ちに駆られたことが何度もあった。その度に言葉を飲み込んだ。はるみは何か察していたようだが、触れないでいてくれた。たぶん言えないことがあるということくらいはわかっていたのだと思う。でも、そのことと家を出て行ったことは何の関係もないはずだ。

 手紙そのものはPDFにしてまだ保管してあったから、それをそのままはるかに見せることはできた。でもそうすることはこの話にはそぐわないと思えた。それに手紙には「儀式のことを伝えてもいい」という書き方がしてあった。何から何まですべてを、母親の思いのすべてを伝える必要はないと思った。あの手紙は、わたし個人に宛てたメッセージでもあったのだ。

「いただきます」とはるかは言って、イチゴパフェを食べ始めた。苺を口に入れると、にこっと笑った。はるみが出て行ってしまったなんて、嘘みたいだった。こうしてはるかとふたりで向かい合っていると、むしろはるみが幻想だったのではないかとさえ思えてきた。今まで長い幸せな夢を見続けていたみたいだった。

 最後にパフェを食べたのなんていつのことか覚えていないが、パフェを食べるという行為は思いの外、集中力の必要なことだった。特に食べ始めはそうだった。グラスの縁を越えてアイスクリームが盛ってあり、さらにその上に苺と生クリームがこれでもかと載っていた。はるかは難なくおいしそうに食べていたが、こぼさないように食べるのは簡単ではなかった。食べにくそうにしているわたしをはるかはおもしろそうに見ていた。アイスクリームを三分の二くらい片付けたところでようやく、あの日のこと、そしてあの手紙を頭の中で編集し始めることができた。

 結局、パフェを食べ終え、ドリンクバーを追加で二人分注文して、コーヒーとミルクティが揃ったところでようやく頭の中がまとまった。

「手紙のことを話す前に、まずあの日のことを話そう」

「あの日?」

「そう。木乃香ママとぼくが出会った日のことだ。確かはるかには、木乃香ママとは付き合いは短かったけど、とても仲の良い友だちだった、と言ったと思う。でも本当は、ほんの半日だけの友だちだった。だからといって君に言ったことは嘘じゃない。本当に短い時間だったけど、それはすごく密度の濃い時間で、ぼくはほかのどの友だちよりも木乃香ママのことよく知っていると感じるんだ。まあもっともぼくは友だちと呼べる人間なんてほとんどいないんだけどね」

 はるかは黙って、まるでわたしに友だちがほとんどいないのが自分のせいであるかのような申し訳なさそうな顔をして頷いた。

「こっちに引っ越す前に三人で来たときに少し話したかもしれないけど、今の職場に大学の先生を訪ねてきたとき、あの山の中の研究所で最終バスに乗りそびれて、木乃香ママの車で駅まで送ってもらった。でもその日最後の電車は行ってしまった。木乃香ママは車で宿を予約してあったこの岩山市内まで送ってくれると言ったんだけど、電話してみたらホテルはキャンセルされていた。到着予定の時間を随分すぎてしまっていたんだ。ちょうど四年に一度の祭りの時で、宿はどこも満室だった。あの里山中地区交流センターがあったところに、前は古い木造の公民館が建っていて、それで木乃香ママはそこの宿直室に泊まれるように、山田さんっていう館長さんに交渉してくれたんだ。すごく古い建物でお化けが出そうだったからちょっと怖かったんだけど、それは言わずに我慢した。格好悪いからね。その時はまだ知らなかったけど、昔は里山中村の小学校の建物で、人が減って、廃校になって、村の仲間で公民館に改装したんだそうだ。だからまあ中は結構きれいだった。それで、ちょうど雨が降り始めて、木乃香ママは館長の山田さんを家まで車で送っていった。夕飯もまだだったから、何か食べるものをあとで持ってきてくれるって言ってね。

「宿直室の隣にあった図書室が気になっていて、一人になったとき、覗いてみたんだ。自分が子どもの頃読んだ本がないかなと思って。それにあとで少し仕事もしようと考えていたから、パソコンの電源がちゃんと取れるかも見ておこうと思った。そうしたら図書室に、小学校の低学年くらいの女の子がいたんだ。そう、ちょうど君がぼくを初めて訪ねて来た時と、同じくらいの歳の子だった。驚いたよ。もう閉館時間が近かったし、館長の山田さんも誰もいないからって、早めに閉めたはずだったんだ。最初は幽霊か何かかと思って、びっくりした。でもあらためて見たら、にこって笑ったんだ。はるかにも負けないくらい、可愛らしい笑顔だった。それでなんだか急にホッとして話しかけたんだ。いや、女の子から話しかけてきたんだ、おじさんも勉強しに来たの? ってね。そうしたらその女の子に急に親しみを感じて、実はぼくは子どもがあまり好きじゃなかったんだけど、どういうわけかその子とはもう少し話をしたいと思った。でも女の子は宿題に戻ってしまった。だからぼくの方から話しかけた。それで女の子が勉強を教えてくれと言って、高学年の算数の問題を取り出した。結構難しかったけど、ぼくは算数が得意だったし、しばらく考えたら解答の道筋が見えてきた。そんなときに宿直室に木乃香ママから電話が入った。ほんの二、三分だったのに、図書室に戻ったらもう女の子はいなかった。おじさん、ありがとう、と書いた紙だけが残っていた。なんか、すごくがっかりしたんだ。女の子がいなくなっちゃったことにね。

「それからしばらくして木乃香ママが夕飯を持って来てくれた。そしてぼくはまたびっくりした。というのは、研究所の前で会ったときは全然おしゃれじゃない格好をしていたんだけど、そのときはなんだかすごく女らしい感じになっていて、ぼくはドキドキしてしまった。すごくいい匂いもした。その日が自分の誕生日だということを思い出して、少しはましな格好をしようと思ったと言ったんだ。でも木乃香ママはなんだか元気がない感じだった。それでぼくは少しでも元気づけようと思って、ちょっとした演出をして誕生日のお祝いをしたんだ。木乃香ママはすごく喜んでくれた。ぼくもうれしかった。木乃香ママがぼくの研究の話をしてくれというので、食事をしながら話をしたら、真剣に聞いてくれた。木乃香ママも割と近い分野で大学院に行っていたというからまた驚かされた。そこからは木乃香ママの話になった。木乃香ママの話は長かったな。子ども時代から始まって、高校時代のちょっとした恋の話、大学入学に当たって父親と揉めたこと、大学での研究や彼氏の話、大学院での研究の悩み、そしてお父さんの、つまり君のおじいさんの会社の話、そんなことを話した。長いという前置きがあったけど、ほんとうに長かった。でも話を聞くこと自体はちっとも苦痛じゃなかった。話もなかなか面白かったし、なにより木乃香ママと一緒にいることが楽しかったんだ。

「そうだ、木乃香ママはずいぶんお酒を飲んでいて、大丈夫かなと思ったけど、それほど酔っぱらってはいないようだった。でもあるとき、突然、泣き出したんだ。そして、腕の傷を見せて、その理由を話し始めた。元の夫から暴力を受けて、流産して、子どももできない体になったのだと言った。その人はすごく嫉妬深い人で、木乃香ママが浮気をしていると勝手に思い込んでいたんだ。まったくそんなことはなかったのに。それで長ーい話を聞き終えると、聞いてくれたお礼にと言って、踊りを披露してくれたんだ。あのカザルスの曲でね。はるかが踊ってくれた曲のひとつ前のと、はるかが踊ってくれた曲だ。すっごく上手で、迫力があって、そしてすごく魅力的だった。その時点でぼくは木乃香ママの虜になっていたんだと思う。初めはきれいな人だとは思ったけど、好みのタイプというわけでもなかったんだ。でもその時には完全に好きになっていた。そうだ、採光園で君がぼくに踊ってくれた踊りの振り付けは自分一人で考えたの?」

 はるかは笑顔で首を横に振った。そして真面目な顔になって、「木乃香ママとふたりで考えた。そのあとわたしが自分で少しアレンジしたの」と言った。

「やっぱり。そういう気がしていた。なんとなく木乃香ママがぼくに踊ってくれたときと感じが似ていたからね。そう、それから木乃香ママは次のシューマンの曲で、一緒に踊ろう、って言ったんだ。ぼくは踊りなんてできないから、無理だって言った。でも、どうせ誰が見ているわけでもないし、木乃香ママに触れていられるからという下心のある理由で踊り始めた。木乃香ママも強引だったしね。そうしたら驚いたことに体が自由に動くんだ。自分のイメージしたとおりに。そして木乃香ママが次にどう動くかも手に取るようにわかってきた。まるで気持ちと気持ちが直接つながったみたいに。曲が終わってしまう頃になったら、もっとずっと踊っていたいと思ったほどだった。踊ることがあんなに気持ちいいことなんてしらなかった。もっともその後で、そんな風には体が自由に動いたことはなかったけど。それから、ぼくと木乃香ママは一夜を共にした。ほんとうに木乃香ママと付き合いたいと思ったんだ。それでコクったけど、即振られてしまった。気持ちはうれしいけど、駄目だと言われた。それからいつの間にか寝てしまっていて、なんかすごい音がして目を覚ました。雷が建物のすぐ横の木に落ちたんだ。木乃香ママはもういなかった。すぐに焦げ臭い匂いがしてきた。その木が建物の方に倒れて、燃え移ったらしかった。慌てて服やパソコンの入ったバッグなんかを持って、建物から飛び出したんだ。今みたいなすごい雨が降っていて、公民館の裏手にあった物置小屋みたいなところに避難したんだ」

 カップに残っていたコーヒーを飲み干した。最初から最後まで腑抜けた味だった。

「ぼくの目から見た木乃香ママとの話はそんなところだ。東京に帰ってからも、木乃香ママのことを何度も想った。ある日、赤ちゃんを抱いてやってきて、それから三人で一緒に幸せに暮らす、なんてことも想像した。でも木乃香ママからはあの晩のことはそのときだけのことにしてほしいと言われていたから、電話もしなかった。それにその大学の先生から木乃香ママはしばらくして里山中を離れたと聞いた。ぼくは研究に没頭して、それから一年ほどして海外に行くことになった。結構、長くいたな。八年くらいかな。それで日本に戻って、二年ほどして、君が突然現れたというわけだ」

 はるかはなんだか満足げな顔で頷いた。自分の位置をわずかにでも確認できたからなのか、あるいは森野さんが赤ちゃんを抱いてやってくるという部分が気に入ったのかもしれない。

「お父さん、コーヒーを入れてきてあげようか?」

「ああ、頼む」

「どれがいいの?」

「そうだな。じゃあ、エスプレッソのダブルで」

「わかった。エスプレッソを二回分入れればいいんでしょう?」

「ああ」

 ベンチシートからすたっと降りて、立ち上がると、はるかはわたしのカップを持って、ドリンクバーへ行った。まだ足が床に届かないのだ。でもそれもほんのしばらくのうちなのだろう。森野さんも割と背丈があったから、はるかは一七〇センチ近くまで伸びるかもしれない。ハイヒールを履いたら見下ろされるような日が来るのかもしれない。

 わたしのコーヒーを入れてくると、はるかはもう一度ドリンクバーに行って、今度はグレープフルーツジュースを持って戻ってきた。

「人と人とのつながりって時間じゃないんだね」シートに座り直して顔を上げると、はるかはつぶやくように言った。

「そうだな」

「ねえ、お父さんのしゃべり方って、見た目は全然そんなんじゃないのに、ときどきハードボイルドっぽいよね」

「そうか? どんなところが?」

「ああ、とか、そうだな、とか、頼む、とか、必要最小限みたいな」

「そんなことを言われるのは初めてだけど、言われてみれば、まあ、そうだな。そうかもしれない」

「あっ、だけど、初めて会ったときとくらべると、全然男らしくなったよ。春美ママのせいか、山仕事のせいか、わからないけど」

 その時、外が激しく光った。天と地をつなぐ神経のような稲妻がくっきりと見え、大きな雷鳴に窓がびりびりと震えた。結構近くに落ちたようだった。さっきまでは街の方ではまったく雷の気配はなかったのに。はるかは体をびくっとさせた。わたしもびっくりした。遠くの席に座るカップルの男の方は「うわ、すげー」とか言って、立ち上がって窓の向こうを覗いていた。

 その衝撃はわたしにある種の決心を促した。

「やっぱり、はるかの言ったことが正しいんだろうな」

「なんのこと?」

「はるみは探しても見つからないだろう、ってこと」

 はるかは一瞬わたしの目を見つめ、すまなそうな表情を浮かべて頷いた。

「別にはるかがそんな顔をすることないさ。君が悪いわけじゃないんだから」

「うん」

 まるで今の雷がスイッチになったみたいに、外の雨は急速に弱くなっていった。バタバタと窓を打っていた雨の音は、パタパタと弱くなり、すぐに音もしなくなった。それからまたポツポツと窓を叩き始めたが、それ以上強くなることはなかった。

「変な雨だね」とはるかが言った。

「ああ、変な雨だ」

「ねえ、なんでそのとき、お父さんはお母さんと踊れたの? 踊りなんてできないはずなのにそのときだけ体が動いたんでしょう?」

「その話はこれからする手紙の話とかかわってくることなんだ」

「ふぅん」

「そう、手紙の話をしよう」

 エスプレッソとは思えない水っぽいコーヒーを一口流し込んだ。

「手紙にはあの夜の秘密が書かれていた。図書室に女の子がいたっていう話をしただろう?」

 はるかは黙って頷いた。

「その女の子は人間ではなかったらしいんだ」

 今度は半分しかわからないといった顔で頷いた。ほとんど驚いた様子はなかった。たぶん、実はさっきケンタッキーで食べたのはチキンではなくてターキーだったんだよ、と告げた場合と同じ程度の驚き方と表情だった。

「村の人たちからは座敷わらしとか森の妖精とか呼ばれていた、とその女の子は言っていたそうだ。座敷わらしってわかる?」

 はるかは首を横に振った。

「ぼくも詳しくはわからないけど、人の家に住み着いている子どもの格好をした妖怪で、その子がいる家は繁栄して、その子がいなくなるとその家は廃れていくという話があるみたいだ。でも、それに近いというだけで、座敷わらしとは違う存在らしい。どうしてかわからないけど、ぼくには、森の妖精の方がイメージとしてぴったりとくる。ぼくにはなんだかすごくきれいなものに感じられた。だから妖怪とかいうのとはちょっと違うと思うんだ。まあ、座敷わらしは妖怪だとしても、人間に危害を加えるようなタイプではないみたいけどね」

「そういうのって、人間が勝手に分類して、名前をつけているだけってこと?」

「そうかもしれない。ぼくは科学者のくせにそういうものを信じてしまうけど、そういう存在を一切否定する人もいる。幽霊の話とかはただ単に何かを見間違えたということもあるだろうし、本当にいるけど、現代の科学ではわからないだけかもしれない。少なくともぼくはその女の子と話をしたし、ありがとうと書かれた紙もどこかに取ってあるはずだ。急にいなくなってしまったこともほんとうだ。でもそれは女の子が人間以外の存在という証拠にはならない。だけど人間だとしたら、現れ方もいなくなり方も不自然だと言える」

 はるかはさきほどよりも少し理解が進んだという顔で頷いた。一体どうやったらこんな複雑で、微妙な変化がわかるような表情をできるんだろう。たぶん、はるかは知性と感情のバランスがいいのだ。

「それで、その女の子がどう関係しているの?」

「そうだ。君のお母さん、木乃香ママは、沢田さんも言っていたし、ほんとうに子どものできない体だったらしい。その女の子はそのことを知っていたそうだ。女の子はときどき木乃香ママのところに現れて、話し相手になっていた。あそこでの孤独な生活になくてはならない存在になっていた、と手紙に書いていた。そうしているうちに木乃香ママは、こんな可愛い女の子を産んでみたいという気持ちがどんどん強くなっていった。それからその女の子は、木乃香ママのことだけではなく、なんでも知っていた。その公民館に住んでいたらしいんだけど、あそこが取り壊される件も市役所の内部で話し始められたときから知っていた。そこが取り壊されると女の子も困ってしまうそうなんだ。生き延びるためには生まれ変わらなければならなかった。それには誰かに子どもを作ってもらう必要があって、それで木乃香ママに取引を申し入れたということだった」

 遠くに消防車のサイレンが鳴っていた。さきほどの落雷で火災が発生したのだろう。

「なんだか、話がぐちゃぐちゃになってきたな。実際、ぼくもよくわかっているわけじゃないからね。木乃香ママもよくわからなくて、上手く手紙に書けないって書いてあった。こうやって人に伝えようとすると、その気持ちがよくわかる」

「うん。でも、なんとなくわかってきた」

「要は、女の子が生まれ変わるためには誰かにあの村で子どもを作ってもらう――というか、ある手順を踏んで、そういう行為をしてもらう――必要があったらしいんだ。もしかすると普通の女性では駄目だったのかもしれない。それでその女の子が木乃香ママに子どもを産めるようにしてくれた。ギブ・アンド・テイクってやつだ。何かを与えて、何かを得る。でもそのためには木乃香ママが実際にあそこで子作りをする儀式が必要だった。それでその相手として、偶然あの村を訪れたぼくに白羽の矢が立った。そして知らぬうちに、ぼくも儀式に参加させられていた。そして、木乃香ママは君を産んだ。そういうことらしい」

「それが踊れることとどう関係するの?」

「それについては手紙に書いてなかった。ぼくの推測だ。そうだ、あのとき木乃香ママは、〝特別な夜〟という言い方をしていた。そうなんだ、あの晩、ぼくもなにか不可能だったことが可能になるような、魔法にかかったような、そんな気がしたんだ。でもそんな感じは夜が明けるとともにすっかり消えてしまった。儀式の中で女の子がお酒の中に消えて、それを木乃香ママが飲み、ぼくもあとでそれを飲んだ。いや、ぼくは普通のお酒だと思って飲んだわけだから、この場合はむしろ飲まされたと言った方がいいだろうけどね。そのことが関係しているのかもしれない。もちろん女の子がお酒に消えたことも手紙に書いてあったことで、ぼくが実際に見たわけじゃない。それに木乃香ママも女の子からすべてを教えてもらったわけではなかった。だからぼくがすべてを説明できるはずはないんだ。ただ手紙の内容と自分の体験を合わせて考えると、なんとなく理解できる。その程度に過ぎない」

「お母さんが死んでしまったことと、そのこととは関係しているの?」

 それは話すのを避けようと思っていたことだった。はるかが自分を産んだことで森野さんが早く死んでしまったと考えるだろうと思ったからだ。でも正直に伝えた方がよさそうだった。

「そうだな。無関係とはいえないみたいだ。そういうシステムになっているらしいんだ。木乃香ママもそれを承知した上で子どもを産めるようにしてもらった。だけど、君を産んで、育てて、君と一緒に生きて、すごく幸せで充実した人生を送れた、って書いてあった。思っていたよりも早かったらしいけど、後悔はしていなかった。その女の子にもどのくらい命が短くなるかはわからなかったそうだ。だから、木乃香ママが自分で選択して君を産み、そして予想していたよりも早く時間が来てしまった、ということらしい」

「だから、何の病気か分からなかったの?」

「たぶん、そうだと思う」

「ふぅーん」

 何と言おうとも、結果的に森野さんが自分の命と引き換えにこの子を産んだことは間違いなかった。はるかもそういう風に感じたらしかった。でもそれだけではないこともわかっているようだった。そういう顔をしていた。たぶん人生の意味みたいなことを考えているのだろう。

 若いカップルが立ち上がった。雨も小降りになったし、店を出ることにしたようだ。彼らがこれからどうするのかなんて、もちろんわたしにはわからない。どちらかの家に行くのかもしれないし、彼女を送っていくだけなのかもしれない。あるいはカラオケにでも行くのかもしれない。それとも火事を見物しに行くのだろうか。まだ付き合って間もないか、そこまでも至っていないか、微妙な関係のように感じられた。もちろんそんなことはわたしには何の関係もなかった。ただ、車も運転できないほどの凄まじく降った割にはあっさりと降り止んだあの雨が、二人の関係にきっとなんらかの影響を及ぼしたに違いない。あの雨は、あの日の、あの明け方の雨を、わたしに思い起こさせた。

「お父さんはお母さんのことを好きになったけど、お母さんは、木乃香ママはお父さんのことを好きにならなかったの? ただ、わたしを産むために、お父さんとセックスしたの?」

「ねえ、あんまり露骨にセックスって言わない方がいいと思うよ。関係を持った、とかそういう言い方の方がいい」

「うん、わかった。木乃香ママはわたしを産むためだけにお父さんと関係したの?」

「最初はそういうつもりだったらしい。ぼくとしてはちょっと寂しいけどね。出会ったときは、いい人だとは思ったけど、男として魅力は感じなかったらしい。でもぼくが誕生日を祝ったり、話を聞いているうちに、徐々に心は動いたみたいだ。告白したときはあっさり振られたんだけど、実は手紙には、子どもをぼくが受け入れて一緒に育てられたらどんなに幸せだろうとそのとき思った、って書いてあった。でも女の子との約束で、君を一人で育てなければならなかったそうなんだ。だからその約束、一種の契約みたいなものだろうけど、それがなければまったく違った展開になっていたかもしれない。君とぼくは普通の親子として生活していたかもしれない」

「そうなんだ」

 はるかはわたしの目を見ながらそうつぶやいて、それから視線を逸らし、ぼんやりとテーブルの上を見た。

「それから手紙では、ぼくのことをカザルスのチェロのように強さと優しさを持ち合わせていると褒めてもくれていた」

「へぇー、じゃあ、木乃香ママは結局はお父さんのことを好きになったんだ」はるかは明るい目で見上げて言った。

「どうしてそう思う?」

「だって、お母さんは、木乃香ママは、あのCDを聞きながら、このチェロの音みたいな人が理想だって言っていたもん。そのときはなんのことかよくわからなかったけど、そういうことだったんだ」

「そうか。そんな風に思っていてくれたなんて、嬉しいよ。そしてこうして君の父親になれたわけだし」

「うん」

 はるかは力強く頷いた。でも、表情はすぐに曇った。

「どうした?」

「なんでもない」

 思い詰めた表情で黙り込んでしまった。初めて会った晩はこんな感じになって、いきなり泣き出した。母親に似て頭がいいと褒めて、喜ぶかと思ったら、大泣きしたのだった。今は泣く気配はないようだった。もうあのときのはるかとは違うし、わたしたちの関係もまったく別のものだ。ただ、何か複雑な感情を呼び起こしてしまったことは確かなようだった。自分にまつわるこんな話を聞かされれば当然のことかもしれない。

「言いたいことがあったら、気にしないで言ってごらん」

 どう触れていいかわからなかったが、思い切って声を掛けてみた。

 それから数秒してはるかは顔を上げ、わたしを強い目で見た。睨んでいるのとは違ったが、気圧される感じがした。本当に言っていいのかと、問われているようだった。出会ったあの日に、母親とはどんな友だちだったのかと問われた時を思い出した。

 はるかは一度目を伏せ、それからふたたびわたしを見据えて、口を開いた。

「もし、お父さんと木乃香ママとわたしが三人で暮らしていて、そこに春美ママが現れたら、お父さんはどうしたの?」

「えっ?」

 まさかそんなことを考えているとは思いもしなかった。

「仮定の話には答えられないなんて言わないでね」はるかはわたしの退路を封じた。

「そうだな」時間を稼ごうと思ったが、もう答えは自分でわかっていた。あとは正直に言うかどうかだけだ。

 はるかの目を見た。嘘は許さないという目をしていた。わたしもごまかすつもりはなかった。

「はるみのことを好きになったと思う。それからどうするかはわからないけど、間違いなく好きになったと思う。ごめん、もしかしたら、君と木乃香ママを捨てたかもしれない」

 それを聞いて、はるかは大きく笑みを浮かべた。満面の笑みだった。作り笑いではなかったし、その裏に何かを考えた笑顔でもなかった。幸福感に満ちた笑顔といってよかった。やっぱり不思議な子だ。

「うん、きっとそうなったよね。春美ママのことを好きになったよね。だからこんな展開になってよかったのかもしれないね。誰のことも嫌いにならないですんだし」

 無垢な笑顔が少し歪んだ。

「最後に残ったのは、お父さんとわたしのふたりか。変な娘ですみませんけど、これからもよろしくお願いします」

 はるかは大人びた口調でわたしを見つめながら言うと、小さく頭を下げた。出会ったときの大人っぽい言い方はいかにも教えられた言葉遣いだったが、今はもうしっかり自分の言葉だった。

「君は変な娘なんかじゃない。ぼくは君を誇りに思っている。すっごく、すてきな娘だと思ってる。確かに生まれ方はちょっと人とは違うかもしれないけど、そんなのは関係ない」

 はるかの顔から感情が消え、ただわたしを観察しているような、冷静に判断しているような目で見上げた。そして、「うん」と小さな声で言った。

 もう雨は完全に上がったようだった。遠くの雷鳴も聞こえなくなっていた。

「そろそろ帰ろうか?」

 しばらくしてわたしが言うと、はるかは答えずにすとっとベンチシートから降り、わたしの方に来て、手を伸ばした。真剣な表情だった。その姿は、わたしを踊りに誘った時の森野さんを思い起こさせた。わたしは微笑みかけ、差し出された手を取った。小さくて温かかった。出会った頃よりは大きくなっているのだろうが、その違いはわからなかった。はるみの手の感触を思い出した。でも無理に頭から追い払った。腰をずらして、立ち上がった。この子のためにも前を向いて生きていかなければならないのだと思った。はるかの手を握り直した。はるかと目が合った。笑うわけでもなく、ただお互いを見た。

 たぶん、わたしたちは新しい一歩を踏み出したのだ。


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