第二部 第二章 四 捜索願い

 三上さんに電話をして、はるみが書き置きだけ残して家を出たことを告げた。

 三上さんは言葉を失い、しばらくして、そんなことになってすまない、と謝った。わたしは、三上さんのせいではないし、仕方のないことなのだと言った。書き置きの内容を伝えると、探すつもりはあるのかと訊かれた。あると答えたが、できるだけはるみの意思を尊重したいと付け加えた。

 はるかに言われたことが胸に突き刺さっていた。それでもせめてもう一度だけでもはるみに会いたかった。わたしたちから去っていかなければならない理由を知りたかった。

 三上さんは、持ち出した物を調べたり、家の中をできるだけ動かさないようにして手掛かりを調べたり、通帳があれば記帳してみたり、そういったことで何かわかるかもしれないとアドバイスをしてくれた。明らかに本人の意志による家出のようだから積極的に捜査してくれるかどうかはわからないが、警察に行方不明者届は出しておいた方がいいと言った。そして、仕事の都合をつけて明日にでも岩山まで行く、と言ってくれた。三上さんを迎える心の余裕もなかったし、遠回しに断った。でも、「太田さんほどあの子とわかり合えていたわけではないけれど、それでもあの子は私の娘なの。だからお願い」とまで言われてしまっては、受け入れざるを得なかった。妊娠に関してはまだはっきりしていなかったし、話さずにおいた。

 三上さんとの電話を切ったとき、はるみはいったいどんな思いでここを去ったのだろう、と思った。そんなことに思い至ることができる程度には冷静になっていた。はるかのお陰かもしれなかった。もう自分でもどこまで本気で探そうとしているのかわからなくなっていた。はるかの言っていたことがたぶん正しいのだ。だからといって、探さないということはわたしにはできそうもなかった。

 警察に電話をして、行方不明者届を提出するのに必要なものを聞いた。最近の写真とか、着ていると思われる服装とか、立ち寄りそうなところ、身体的な特徴、車のナンバーや車体番号など、警察に指示された情報をまとめるのをはるかも手伝ってくれた。

 どうやらはるみは、はるかの送り迎えや日常の買い物に行ったりするような普段着で出て行ったらしかった。今朝着ていた服は二人の記憶が一致していた。ざくっとした編み方の淡いピンクのセーターに、足首まであるベージュのスカートだった。はるみは普段は肌を露出しない服を好んで着ていた。だから暑い季節に、家の中でたまにタンクトップにショートパンツといった格好をしていると、ドキッとした。清々しいほどに若い女の子なんだと言うことを意識させられた。

 雨の日や肌寒い日に着る、家族お揃いで買った色違いのアウトドアジャケットも持って行ったようだった。はるみはオフホワイト、わたしは渋い黄緑、はるかは赤だった。フランスの会社のもので少し高かったが、珍しくはるみが欲しそうにしていたから、去年の誕生日にプレゼントした、あのジャケットだった。そのあと、はるかも欲しがり、結局わたしも買うことになった。それなりにおしゃれは楽しんでいたが、いつもは高くない服を工夫して可愛くしていた。はるかとああだこうだと言いながら買い物をしたり、家でコーディネートを考えているときは、ふたりは姉妹にしか見えなかった。

 それからベッドのヘッドボートの棚に置いてあった写真フレームがなくなっていた。その写真は、東京ではるかを迎えて三人で暮らし始めたころにソファに座ってセルフタイマーで撮った写真だった。撮るたびに誰かが「今、わたし、変な顔だった」とか言って、何度も撮り直した写真だった。そのうち、ゲームのようになってきて、わざと変な顔やポーズをしたりして、三人で一緒に写真に写ること自体を楽しんだ。ゲームの時間が過ぎたころには三人とも自然な表情で笑っていて、それを選んで、長持ちするようにわざわざ写真屋さんで紙焼きしてもらって、フレームに入れたのだ。はるみはわたしが寝てしまったあと、時折その写真を手に取って眺めていたらしかった。

 昨日買った妊娠検査薬は薬の棚に未開封のまま置かれていた。十中八九は妊娠していたはずだし、子どもをどうするつもりなのだろう。堕ろしたりすることはないと思うが、わたしにはわからない事情で出て行ったとなると確信が持てないような気もした。頭で考えるとそうだった。でも、それはないと感じた。そうだ、絶対にない。はるみは絶対にそんなことはしない。そう思えたとたん、わずかでも力が湧いてくるのを感じた。

 携帯電話はなかったが、充電器はコンセントに差しっぱなしになっていた。通帳ははるみの分も含めてすべて残っていた。最後の記帳は先週の金曜日に引き出した一万円で、残金は二十万円ほどだった。これまでも十日に一回くらいの割合で生活費として一万円か二万円程度引き出されていて、金曜日に引き出したお金はそのサイクルのようだった。食料品はほとんど宅配の生協で購入していたから、あまり現金で買い物をすることはなかったのだ。自分やはるかの本や洋服を買ったり、ちょっと外食したときに払ったりするくらいだった。

 自動車の車体番号などは任意保険の証書から書き写した。写真はどれにしようか迷ったが、梅の花を見に行ったときにわたしが撮った写真をプリントアウトした。はるかの撮った写真がほとんどだったが、大抵はわたしと二人で写っていたし、一人のものはやけに少女っぽかった。いずれにせよはるみの写真が交番などに張り出されることには抵抗があった。

 わたしもはるかも、はるみとお揃いのアウトドアジャケットを着て、家を出た。停車していてもワイパーを掛けていないとすぐに前が見えなくなるほどの雨が降り続いていた。警察署に向かう途中、銀行に寄った。金曜日以来、利用はなかった。

 岩山警察署では生活安全課に行くように言われ、二階の生活安全課に行くと若い警察官が対応に出て来た。妻が出て行ったと事情を話し、書き置きを見せた。その男性警官は、ちょっと特殊なケースみたいだなぁ、と幾分訛りの混じったイントネーションで独り言のように言い、山脇さんという五十代後半と思われる警官を連れてきた。

 パーティションで区切られた机に案内され、行方不明者届出書の用紙を渡された。住所、職業、氏名、生年月日、年齢、性別を書き入れるだけの簡単なものだった。

 はるかがはるみの写真を渡すと、山脇さんは写真とわたしとはるかを順番に見た。はるみはどう見てもせいぜい二十四、五歳にしかみえなかったし、素直に見れば年齢相応の二十歳前後にしか見えない。普段は夫婦としてそれほど違和感なく見られることが多かったが、出がけに鏡を見たらひどい顔をしていたので、山脇さんには年齢の差がはっきりと見えたはずだった。

 写真は最近のものなのかと疑問の声で訊かれた。そうだと答えると、山脇さんは届出書をのぞき込み、年齢欄を見て納得したようだった。今度は子連れで再婚したのかと訊かれた。二十歳だった妻と一年半前に結婚して、亡くなった知人の娘を養女として引き取ったと説明した。妻との出会いは娘が取り持ってくれたのだとはるかの肩を抱きながら加えた。はるかは肩をすくめながらちょっと照れた嬉しそうな顔でわたしを見上げた。山脇さんは一瞬驚き、「そうですか」と一言つぶやくと、ようやく安心したような顔に落ち着いた。仕事ができるという感じではなかったが、少なくとも親身になって話を聞いてくれそうだった。

 それから、身長、体重に始まって、歩き方の癖、着ていた服や下着、同伴者があったかどうかなど、事細かに質問された。どうやら受理票というものに基づいて訊いているらしかった。山脇さんは子どもがいると質問しにくいこともあると言って、途中で女性警察官を呼んで、はるかを別の場所に連れて行かせた。

 わたしひとりになると、はるみの性格やら男性関係などについて根掘り葉掘り聞かれた。

 はるみの性格は、警察の分類方法では、真面目で温和で明朗で理性的で几帳面で辛抱強く慎重で素直で内向的で大胆、ということになるらしかった。健康に関しては、記憶喪失と妊娠の可能性が記入された。立ち寄る可能性のありそうな場所としては、東京の三上さんの家と沢田さんの事務所、それからはるみが発見され、わたしたちの結婚式を挙げた神社の三ヵ所を告げた。それ以外に思い当たらなかった。行方不明前後の状況については妊娠や出産に対してやや不安を感じていたこと、居室等の状況では、家族の写ったお気に入りの写真がフレームごと持ち出されていたこと、そして書き置きのあったことが書き入れられた。

 警察の尺度で見ても、はるみの記憶喪失とはるかが養女であること、夫婦と母子の年齢差が不自然であることを除けば、申し分のない家庭のように思われたらしかった。山脇さんは「お気の毒です」はつぶやくように言った。少なくともわたしにとっては完璧な家庭だった。はるみにとっても同様だったはずだ。はるかだって悪くないと思っていたはずだ。せっかく築き上げた特別な形態の家庭が特殊な事情で突然壊れたことに対して山脇さんも深く同情してくれているらしかった。質問の仕方が徐々に丁寧に、そして回りくどくなっていった。

 最後に、今後警察で判断することになるが特異行方不明者に該当するかどうかは微妙だと告げられた。犯罪が関係していそうだったり、自殺する恐れのあったりするときには、特異行方不明者として捜査に乗り出すのだという。三上さんの言っていたのはこのことらしかった。それ以外の一般行方不明者は、警察の情報管理システムに登録して、まずは警らや交通取り締まりなど普段の警察活動の中で探すことになるらしい。事情ははっきりしないけれども本人の意志で出て行ったのだし、捜査とか張り紙みたいなものは遠慮したい、と告げ、ただせめてもう一度話がしたいから、もし見つかることがあったら連絡するように伝えて欲しい、とお願いした。


 警察署を出たときにはもう八時を過ぎていた。雨は強くなったり、弱くなったりを繰り返していた。山の方では激しく雷が鳴り続いていた。

 お腹が空いたか聞いてみたが、はるかは空いていないと答えた。それでも何か食べさせなくてはいけないと思って、ファストフードでははるかの一番好きなケンタッキー・フライドチキンに寄った。なんでもいいというので、チキンフィレサンドのセットとオリジナルチキンを二人分頼んだ。はるかもわたしも黙々と食べた。ふたりとも意地になって食べているみたいだった。普段よりも多い量をはるかも全部食べ切った。

「ねえ、これからどこを探すの?」

 食べるものがなくなって、ようやくはるかが口を開いた。

「わからない。どこも当てがない」

 食べながらどこへ行こうか考えていたが、本当にどこも思い当たらなかった。思い当たるくらいならさっさとそこへ行っていた。それにはるかの言うとおり本当に姿を消すつもりなら、はるみはわたしが思い当たるようなところに行くはずもなかった。

 当てのないまま店を出た。大きめの雨粒が根気よく地面に打ち付けていた。ふたりでフードを被って、車に乗り込んだ。

「全然やまないね」はるかが雨粒を載せたフードを脱ぎながら言った。

「そうだな」

 とりあえず、町の中を車で流してみることにした。どこかでアルファ・ロメオとすれ違うかもしれないし、どこかに停まっているかもしれない。

「悪いけど、アルファがいないか見ていてくれないか?」

「うん、いいけど。でも、暗いし、雨も降ってるし、よく見えない」

「まあ、そうだな。それでも頼む」

「わかった」はるかはちらっとだけわたしの方を見て、頷いた。

 ショッピングセンターに行って駐車場の中をぐるぐる走ったり、はるみと行ったことのある場所を回ってみた。駅に行って、JRの駅員やお店の店員に写真を見せて、見かけなかったか聞いたりもした。それからまた駅の周囲を回ったり、幹線道路を流したりした。

 でも走れば走るほど無駄なことをしているという思いが強くなってきた。そして雨は、ワイパーを速く動かしてようやく前が見えるほどにまで強くなってきた。屋根や窓を打つ音もやかましいほどだった。道の至る所にひどい水たまりができていた。

 それまで黙って協力してくれていたはるかがあきらめ顔でわたしを見た。

「ねえ、お父さん、もう外が見えない」

「そうだな」

 もう九時半を回っていた。山の方ではますます雷がひどくなっているようだった。不思議なことに市街地ではまったく落雷がなかった。ただひたすらに雨が街を包んでいた。この季節としては異常とも思える雨の量だった。まるで空が大泣きしているみたいだった。

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