第二部 第二章 二 妊娠とカザルスと夢
それから一週間ほどして、はるみに明らかな妊娠の兆候が現れた。順調だった月経は訪れず、あれほど旺盛だった食欲もなくなっていた。家事は今までどおりやっていたが、料理の味は精彩を欠いていた。何をやっても、ぼんやりとしているようだった。
日曜日でわたしが家にいるにもかかわらず、はるみはひとり茶室に籠もっていた。
「ねえ、最近、お母さん、ちょっとおかしいよね」とはるかが言った。
「そうだな。ちょっと体調が悪いみたいだ」
「もしかして、子どもができたのかな」
「うん? どうだろう」
「子どもだったらいいのに。お父さんとお母さん、いつもこんなに愛し合っているんだから、そろそろできてもおかしくないよね」
「えっ? ああ、まあ、そうだな」
はるかの言う、愛し合っているということが、精神的なことなのか、肉体的なことなのか、わかりかねた。たぶんこの子のことだから、両方のことを言っているに違いない。
その日のうちにこっそりネットで周辺の産婦人科や産院を探した。はるみは大きな病院よりも開業医のやっている小さな診療所の方がまだ嫌がらないはずだった。場合によっては白衣を脱いで診察してくれるようお願いしようと思っていた。そして翌日仕事を休んで、気乗りしないはるみを連れて、車で回ってみた。とりあえずは中に入らなくても、通いやすそうなところや見た感じで好きなところを選んでもらおうと思ったのだ。
「やっぱり、行かないと駄目よね」
「ぼくも妊娠のことはよくわからないけど、一応確かめるだけ確かめた方がいいんじゃないのかな。市販の検査薬でもいいんだろうけど。それに本当に妊娠していたら、いずれはどこかにお世話にならなければならないんだろうし」
「うーん、わかってはいるんだけど」
はるみは謝るような感じで少し頭を傾げてわたしを見た。
「わざわざお仕事も休んでもらっちゃったけど、今日じゃなきゃ駄目かな」
「今日じゃなくてもいいよ。はるみの行きたいときに行ったらいいよ」
「ありがとう。ごめんね」
「じゃあ、とりあえず検査薬で調べてみたら」
「うん」
薬屋に寄って妊娠検査薬を購入してから、家に戻った。まだ昼前だった。はるみは疲れたと言って、帰るなりソファに座り込んだ。何か食べられるか聞くと、うどんくらいなら食べられるというので、鰹節たっぷりの出汁を取って、鶏のささみのうどんを作った。はるみはおいしいと言って、最近では珍しく最後まで食べた。でも笑顔にはやっぱり元気がなかった。
食後にお茶を飲みながら、ソファで寛いでいると、はるみが出し抜けに言った。
「ねえ、あの子、もう月のものが始まっているのよ。あなた、知ってた?」
「えっ? そうなの?」
まるで気付いていなかった。はるかももうすぐ六年生だ。始まっていて不思議ではなかった。
「あの子は恥ずかしがって、あなたには教えないでって言うから、黙ってたんだけど。でもそのくらい知っておいた方がいいわよね」
「そうだな。もうそういう年頃なんだな」
「このごろ、ときどき、木乃香さんにそっくりなことがない? わたし、びっくりすることがあるの」
「うん。ぼくもそう思うことがある」
やっぱりはるみもそう感じていたのか。そのことをはるみに言うのをどうしてだかずっとためらっていた。変な引っかかりがあったのだ。このまま成長すると、森野さんとそっくりになってしまうのではないかという気がしていた。あまり残っていない森野さんの幼少期の写真をはるかに見せてもらったことがあるが、その写真もはるかとよく似ていた。親子なのだから当然なのだが、それにしてもよく似ていた。はるみには話すことのできない、特殊な出生が原因なのかもしれなかった。
部屋の中は春の柔らかな日差しで暖かく、心地よかった。まるで、出会ったあの日にあの喫茶店で感じた、はるみのまなざしのようだった。あのときに感じた心地よさが、目の前に形を取って現れたみたいだった。
はるみはわたしの肩にそっと頭を預けてきた。頬に触る髪の毛が気持ちよかった。黒く長い髪の毛をそっと撫でた。
「なんか、ふしぎね」はるみは微笑みかけるような明るい口調で言った。
「なにが?」
「あなたとここでこうしていること」
「そう?」
「うん。わたしが想像していたしあわせよりも、ずっとしあわせ」
その可愛らしい言い方に、わたしは思わずはるみの肩をきゅっと抱き寄せ、おでこにキスをした。
「でも、ちょっと怖いの」はるみが言った。子どもが思わず本音を漏らしたような言い方だった。
「えっ、なにが? 出産のこと?」
「たぶん、違う。妊娠して、子どもを産んだら、何かが変わってしまうような感じかな」
「だけど、はるかだって、それを望んでいるんだろう?」
「はるかのことじゃないの。自分でもわからないけど、わたし自身がその影響を受けるのかもしれない」
「どこかに書いてあったし、常識なのかもしれないけど、妊娠や出産は女性の体や心に大きな変化を与えるらしいもんね。それはそうだろうな、別の命を体の中に宿して、それを新しい生命体として世界に送り出すんだからね」
「うん。そういうのとちょっと近いかもしれない」
どうやらはるみの感じていることは、そのような一般的な話とは少し違うらしかった。
「それから、もう少しはるかにもスキンシップしてあげて」
「それなりにしているつもりだけど」
「わたしのことははるかの前でも構わず抱き締めるでしょう? はるかはちょっとうらやましがっているみたいよ」
「そうなの? でもちょっと照れくさいというか。それにそろそろ年頃の女の子だし、あんまり触れられるのも嫌がるかなと思って」
「まだ父親初心者だから仕方ないのかもしれないけど、頭を撫でるとか、軽く抱き寄せるとかでもいいから、もう少ししてあげて」
「うん。わかった」
わたしはあらためてはるみを抱き寄せた。はるみはすっかりちゃんと母親になっているらしかった。はるかがはるみを信頼しているのは見ていてよくわかった。それに較べると、わたしはいまだに戸惑うことが多かった。出会ってからまだ一年半とか、そろそろ思春期とか、いろいろ言い訳のしようはあるが、はるかがそんな風に感じているのを気付いてやれなかったことを反省した。生理のことはともかく、犬を飼いたいという話もそうだった。全然知らなかった。一緒にいてあげられる時間が短いことは確かだが、もっとよく観察して、話をして、気遣ってやる必要があるみたいだった。逆にわたしの方がはるかから気を遣ってもらっているらしい。わたしがはるかに甘えていたのかもしれなかった。
「ねえ、はるかが採光園であなたに踊ったときの曲があったでしょう? 今、聴ける? あなたとふたりであのコンサートのCDをゆっくり聴いてみたかったんだ」
「そうだったんだ。すぐ、持ってくるよ」
書斎のCDラックからパブロ・カザルスの『ホワイトハウス・コンサート』を取り出して戻ってくると、部屋はカーテンが閉じられて暗くなっていた。
「どうしたの? せっかく天気がいいのに」
「なんか暗いところで聴きたくて」
「うん、まあ、いいけど。その方がコンサートっぽいしね」
それからはるみがコーヒーを淹れてくれ、その間にわたしは薪ストーブに火を入れた。部屋に陽が射さないとまだ寒かった。それに薪のストックにはまだだいぶゆとりがあった。
テレビの横にセットしてあるオーディオにCDを挿入した。独身の時に、専門店で組み合わせを変えながら聴き較べたりして揃えたオーディオセットだった。中古で買った新品同様のB&Wはずっしりとした鋼鉄のスピーカースタンドに載せてあった。でも、こっちに引っ越してきてからは、すっかり映画鑑賞用の音響装置となっていた。音楽をゆっくり聴くなんて、久し振りだった。そしてこのCDを聴くのも、はるかと出会い、森野さんの手紙を読んだ、あの晩以来だった。
近所を気にする必要もないので、音量は大きめにした。一曲目はメンデルスゾーンの『ピアノ三重奏第一番ニ短調 作品四九』。チェロとピアノとバイオリンの三重奏だ。低く重いカザルスのチェロで始まり、ピアノが重なり、バイオリンが後を追う。第一楽章はちょっと悲しげな調べで、最後に演奏される『鳥の歌』と通底しているようでもある。第二楽章になると悲しげな感じは薄まり、ほのかな希望の光が射してきたような優しいメロディになる。
こうしてはるみと聴いていると、ほんとうにコンサートに来ている気分になれた。はるみはソファに浅く座り、膝の上に手を置いて身を乗り出すような姿勢だった。わたしはゆったりとソファに沈み込んでいた。斜め後ろから見えるはるみの表情は真剣なものだった。すっきりとした背中の上を流れる黒い髪。締まったウエストに丸みを帯びてきた腰。幻影でも見ているのではないかと思うことがあった。まるで神様がわたしのためだけに用意してくれた女性だった。
メンデルスゾーンの曲は第三楽章になるとテンポが上がり、活発になる。恋に華やいでいるような楽しいリズムだ。最後の第四楽章は速いテンポを保ったまま、何かが起こりそうな、期待と不安が入り混じったような曲調に変わる。そして最後は生き生きとした、楽しげな感じで終わる。どうやらハッピーエンドになったらしい。
盛大な拍手が起こると、はるみはわたしの方を向いて、子どもっぽくにこりとした。わたしが笑い返すと、体を起こし、伸びをするようにしてゆっくりと背もたれに背中を預けた。そして、はるかが甘えるときにするみたいに、ちょっと体を丸めてわたしの腕に抱きついてきた。春の土のような爽やかで温かい匂いに包まれた。
二曲目のクープランの『チェロとピアノのための演奏会用小品』は五つのパートで構成され、不安定な気分の〝前奏曲〟で始まる。この間梅の花を見に行ったときみたいに、冬から春に移り変わるときのような、天気も気持ちも安定しない感じだ。続く〝シシリエンヌ〟は、せっかく咲き始めた花が、寒の戻りに耐えているみたいな曲だ。その次の〝ラッパ〟は勇ましくて単純なリズム。春の訪れを宣言するかのように元気で明るい。あの夜、森野さんが最初に踊ってくれた〝嘆き〟がそれに続く。まるで今日のような物憂げな春の午後に、冷たい驟雨が悲しい知らせを告げに来る、そんな雰囲気だ。最後の〝悪魔の歌〟は森野さんらしいと思った元気のある曲。生命感溢れるダイナミックな動きにわたしは魅了された。はるかが踊ってくれた曲でもある。訊こうと思って訊かないままになっていたが、たぶんあれは母親と一緒に考えた振り付けだったのだと思う。
そしてまた大きな拍手。はるみはまるでわたしが演奏していたかのように、わたしの手を取ると、その甲にキスをしてくれた。顔を上げ、少女のような顔で笑った。わたしははるみに口づけをした。
シューマンの『アダージョとアレグロ 変イ長調 作品七〇』が始まる。カザルスの想いや祈りのすべてがこめられたようなチェロの音だ。思わずはるみをぎゅっと抱き寄せる。はるみと一体になってこの音の世界に入っていきたかった。目を閉じる。はるみの存在を強く感じる。はるみもまたわたしの身体に腕を回し、抱き締めてくれる。はるかがいたら絶対にカメラを向けたはずだ。ゆったりとした波のようなカザルスのチェロに身を委ねる。唸るような彼の歌声が時々聞こえてくる。森野さんは手紙で、わたしのことをまるでカザルスのチェロのようだと言ってくれていた。図書室の女の子には褒めてもらいそびれてしまったが、十年後に森野さんが代わりに褒めてくれたみたいだ。そして、はるみがいた。なんだか魂が溶け合ってしまいそうな気さえした。こんな女性と巡り会えるなんて、夢にさえ思っていなかった。人生はわたしの想像力を遥かに超えていた。
後半のテンポが上がるパートに入ると、あの晩の踊りを思い出した。でも、頭に浮かんでくるのは、はるみの姿だった。森野さんではなく、はるみと踊っていた。夢の中のように入れ替わっていた。それでよかった。はるみとずっと踊り続けることがわたしの願いだった。
カザルスとホルショフスキーが最後の音を響かせる。前の二曲とは違う、聴衆の感動が直接伝わってくるような拍手が鳴り響く。そして、『鳥の歌』。小さく転がるようなピアノ。物思いにふけるようなチェロが続く。哀しみの糸を引いたような音色だ。はるみが覆い被さるようにわたしに抱きついてくる。唇をそっと合わせる。あの夜のことが、再び脳裏をかすめる。するっと舌が入ってくる。記憶は追い払われる。もう目の前のはるみだけだ。わたしははるみに応える。はるみのすべてが愛おしかった。
『鳥の歌』が消え入るようなチェロで終わる。まるで悲しみの中、眠りにつくように。聴衆の最後の拍手が沸き起こり、フェードアウトしていく。
はるみはわたしの髪に指を入れ、耳にキスをし、それからわたしの身体を丁寧に撫で始めた。
わたしの準備が整うとはるみはロングスカートの中の下着を器用に脱ぎ捨てまたがってきた。少しずつはるみの中に吸い込まれていく。はるかも一緒に住むようになってからはこんな場所ですることはなかったし、服を着たままこんな風にするのも初めてだった。
はるみはわたしの上で静かにゆっくりと動いた。ときどき甘い吐息を漏らした。切なげな目でわたしを見つめ、キスを求めた。その瞳は『鳥の歌』のカザルスの音色を思わせた。わたしははるみが後ろに倒れてしまわないように身体を支えながら、タートルネックセーターの薄い生地を通して背中や腰を愛撫した。もどかしくなって服の中に手を滑り込ませると肌はうっすら汗ばんでいた。手のひらに吸い付いてくるようだった。
どれだけ経ったのだろうか。やがてはるみの動きは少し大きく速くなり、それに合わせて刺激を与えると、普段よりも小さな声を上げた。美しい鳥が飛行中に胸を打ち抜かれ、落下直前に空中で一瞬静止したみたいだった。はるみは羽が舞い降りるようにわたしに身体を預けてきた。呼吸が整うまでの間、じっとしていた。息が落ち着き上体を起こすと、はるみは涙を流していた。
「どうしたの」驚いてわたしは聞いた。
「大丈夫。泣いているんじゃない」
「ただ涙が流れるだけ、ってやつ?」
「うん。そう。大丈夫、心配しないで」
それはあのとき以来だった。はるかがわたしに踊ってくれて、子どもになってくれると言ったとき以来、二度目だった。
はるみはソファに座り直すと、美味しいものを食べたあとのように可愛らしくふぅーと小さく長い息を吐き出した。「ちょっと疲れちゃった」と笑いながら言って立ち上がり、脱ぎ捨てた下着を拾い上げ、くるっと小さくまとめて手の中に隠した。
「一時間くらいベッドで横になってくる。もし、はるかから連絡が入って、まだわたしが起きてこなかったら、あなた、迎えに行ってくれる? たぶん、四時か、おそくても五時くらい」
「ああ、それはいいけど、本当に大丈夫?」
「うん」はるみは笑顔で答えると、体を屈めて、座ったままのわたしに軽い口づけをした。一度洗面所に入り、それから階段のところで小さく笑顔を作ると静かに二階へ上がっていった。
こっちに越してきてからはるかをバレエ教室に通わせようと思っていたが、忙しかったり震災があったりで、しそびれた。そのうちはるかは自分で学校にダンス部を立ち上げていた。それで放課後に一、二時間、部活動として友だち何人かとダンスの練習をしているのだ。校長先生の姪御さんがクラッシック・バレエをやっていて、時間のあるときにボランティアで教えに来てくれるらしかった。
まだ二時過ぎだったが、仕事を始めるには中途半端な時間だった。はるみも疲れていることだし夕飯の準備をしておこうと思い、冷蔵庫の中を覗いて適当な献立を立て、準備に取りかかった。昼食の後片付けをして、米を磨いで、シーフードサラダを作った。ジャガイモや玉ねぎといったスープの材料を鍋に入れ、薪ストーブの上にのせた。
三時半になってもはるみは起きてこなかった。足を忍ばせて二階に上がり、扉を開けたままの寝室をそっと覗いてみると、はるみは目を閉じて横になっていた。胸が小さく上下していた。まるで本当に寝ているみたいだった。はるみにしては深く休んでいるようだったので、起こさないように気をつけて下に降りた。テーブルに置いてあるはるみの携帯をマナーモードに変え、はるかからの連絡を待った。いつでも出掛けられるように、薪ストーブの火は落としておいた。
四時少し過ぎにはるかから電話が入った。はるかはわたしが電話に出たことに驚き、母親を心配したが、疲れて休んでいるだけだと言うと安堵のため息をもらした。
はるみ宛に一応メモを残し、アルファ・ロメオに乗って、学校にはるかを迎えに行った。デミオに乗るのは仕事に行くときだけで、家族で乗るときはいつもアルファ・ロメオだった。さきほどはるみから言われたことを思いだし、車から降りて、はるかを迎えた。友だちに別れを告げると、はるかは走って、わたしに飛び込んできた。頭を撫でて、お帰りと言った。はるかはちょっと照れた顔で嬉しそうにした。助手席のドアを開けてやり、車に乗せた。
「お母さん、また調子悪いの?」
「いや、それほどでもないけど、疲れて横になっていたからぼくが代わりに迎えに来た」
「うん、ありがとう。でも、こうしてお父さんに迎えに来てもらうのも、悪くないよ」
「悪くない?」
「だから、う・れ・し・い」
はるかは照れ隠しのようにちょっとひねた顔で言い、真顔に戻って続けた。
「ねえ、この間の犬のことだけど」
「ああ」
「駄目かな」
「そうだな、もう少しだけ考えさせてくれないか」
「うん、わかった」
はるかは少しうなだれた感じでわたしを見た。
「どうしてだか聞かないの?」
「うん。だいたいわかっているから」
「そうか」
会話が途切れた。黙り込むはるかを見た。見れば見るほど、森野さんに似てきていた。今の表情は、ちょうどあの日電車に乗りそびれ、公民館に送ってもらう途中の森野さんに似ていた。何かわたしにはわからないことを考えているような表情だった。そうか、あのとき森野さんは、人生の決断をかけてものすごくいろいろなことを考えていたはずなのだ。今頃になってそんなことに気が付いた。
「そうだ。ディズニーランドのことだけどさ、春休みは無理そうだから、夏休みでもいいかな」
はるかは無言でわたしを見た。非難しているわけでもない、受け入れているわけでもない、ニュートラルな視線だった。
「うん、いいよ」無表情のまま、はるかは答えた。
「ねえ、もうちょっとわがままを言ってもいいんだよ」
はるかは少し驚いたような顔でこちらを見た。なんだか出会った日に逆戻りしたようだった。
「うん。でも、お母さん、妊娠したかもしれないんでしょう?」
「ああ。まだはっきりしたわけじゃないけどね」
そこまで分かっているのなら、もうはるかにも隠しておかない方がいいと思った。
「今日、病院に行ったんじゃないの?」
「結局行かなかった。検査薬は買ったけど、それもまだ使っていない」
「ふぅん。わたしだって兄弟ができるのを望んでいるのに、なんでお母さんは憂鬱そうなんだろう」
「どうしてなんだろう。ぼくにもよくわからない。何かが変わるのが怖い、って言ってた。はるかに教えなかったのは、もし違っていてがっかりさせたら悪いからだって言ってた」
「ふぅん」
はるかはまた口を閉じた。真剣に何か考えているようだったので、話しかけなかった。
家に着く直前になって、はるかが口を開いた。
「ねえ、もし妊娠じゃなかったら、犬を飼ってもいい?」
「ああ、いいよ。約束する」
「やっぱりね。だから少し考えさせてくれ、って言ってたんだ」
「わかってたんだ?」
「最初は分からなかったけど、お母さんが子どもができたっぽかったからそういうことかなって思ってた」
はるみはもう起きて、わたしたちが戻るとガレージのところまで迎えに出て来た。はるかが走って、飛びついた。まるで本人が子犬みたいだった。はるみは休んだせいかさっきよりも元気そうではあったが、笑顔の奥には不安が控えているように感じられた。何かが変わってしまう感じがするというはるみの言葉に影響されているだけだ、とわたしは自分に言い聞かせた。
その晩、ベッドに入ってから、車の中でのはるかとの会話をはるみに伝えた。
「そろそろ気付かれていると思ってたけど、やっぱり。あの子に隠しごとするのは難しいわね」
「ああ。気遣ってくれるのは助かるけど、ちょっと負担をかけすぎているのかな」
「そうね。もう少し子どもらしくさせてあげないといけないわよね」
「でもはるみも三上さんの家では子どもらしくはしゃいだりすることはなかったんだろう?」
「わたしは別よ。なんていうか、楽しいってことがよくわかんなかったから」
「へえ、そうか」
「ねえ、それより」
はるみはもぞもぞと動いて、わたしに体を寄せた。その日に起きた興味深いことを伝えたいときのはるみの癖だった。
「今日、わたし、ついに夢を見たの」
「えっ? ゆめ?」
「そう、夢。どうやら、眠ったらしいの」
「そういえば、ちょっと覗いたとき、本当に寝ているみたいだった」
「そうなの? 全然知らなかった。やっぱり、わたし、寝ていたんだ」
「それで、どんな夢を見たの?」
「うーん、それが、あんまりいい夢とは言えなかったな」
「だったら、話した方がいい」
「そうなの?」
「うん。何かで読んだのかもしれないけど、いい夢は人に話さず心にしまっておいて、悪い夢は人に話してしまった方がいいらしい。たぶんしまっておくと膨らんで、外に出すと霧が晴れるみたく消えてなくなるんだと思う。ぼくはそう感じる」
「そうなんだ」
はるみは一度仰向けになって、夢を頭の中に再現するように短い間まぶたを閉じた。それからまた体を横にしてわたしの方を向いた。
「あのね、誰かがわたしを呼んでいるの。そろそろ帰っておいで、って。もう帰るときだよ、って」
嫌な感じが心をよぎった。
「それって、記憶が戻ってきているってこと?」
「わからない。呼んでいたのが誰なのかもわからないし」
「そうか」
「でも、なんだか、威厳のある父親とか、偉い人とか、そんな感じのイメージだった。まあ、すごくぼんやりしたものだったから、ただそんな感じだったとしか言えないんだけど」
「記憶を取り戻すのははるみにとっていいことじゃないの?」
「どうなんだろう。わたしは今の自分にとっても満足しているし、記憶が戻らなくてもいいと思ってる」
「でも記憶を取り戻しても、記憶をなくしてからの記憶が消えちゃうわけじゃないだろう?」
「うん、まあそうだろうけど」
「眠ったことと妊娠したかもしれないってことは何か関係しているのかな」
「そうかな? そうかもしれないし、そうではないかもしれないし、わかんない。あっ、そうだ。今日買った検査薬は明日にでも使ってみるね」
「ああ。でも無理にじゃなくていいよ」
「うん。ありがとう」
それからはるみはしばらくわたしの手を握りしめていたが、じきにわたしのパジャマのボタンをはずし始めた。妙に今晩はわたしもいつも以上に思い切りはるみを抱き締めたい気分だった。それに明日は春分の日で休みだから、遅く寝ても大丈夫だ。喜んではるみに協力した。
次の日はゆっくり起きて、午後からはるかと二人で出掛けた。はるみの誕生日プレゼントを買うためだった。もちろんはるみはそのことを知っていたが、知らない振りをしてくれていた。体調はだいぶいいらしく、朝から掃除や料理にいそしんでいた。帰ってくると、クッキーをいっぱい焼き上げていた。早めに夕食を済ませ、いつもより早い時間にベッドに入って、体のことを考えて静かに、でもたっぷりと愛し合った。
翌朝、はるみは普段どおり早く起きて、通学路の途中にある友だちの家まではるかを車で送って、戻ってきていた。
「おはよう。夜は眠ったの?」
昨日も聞こうと思ったのだが、遅く起きたし、はるかもいたので聞きそびれた。
「うんうん。いつもと同じ。ただ横になっていただけ」
「へえ、そうなんだ」
はるみが眠らなかったことに安堵した。これまで眠らなくても健康そのものだったが、それでもやっぱりちゃんと寝られた方がはるみにとってはいいはずだった。妊娠の可能性を考えればなおさらだ。でもはるみがまた変な夢を見るのが嫌だったのだ。帰っておいでとか、帰るときとか、何を意味しているのだろう。もし記憶を失ったのがそれなりの年齢だったなら、実は夫がいたとかいうこともあるだろう。でもはるみが発見されたときはまだ中学生くらいだった。呼んでいるとしたらおそらく肉親のはずだ。だからといって、わたしたちはもうこうして愛し合って結婚もしているのだから、いまさら引き裂くことはできない。子どもができていたとしたらなおさらだ。それに三上さんが警察のコネまで使って探したにもかかわらず、手掛かりはなかったのだ。親がいたとしても捜索願は出されていないはずだった。ということは特殊な状況ではるみは放り出されたということになる。例えば、親が殺されて、はるみは無事に逃げ出したけれども、ショックで記憶をなくしてしまったとか。でもそれならそれで、警察にははるみの存在がわかるはずだ。だったらそのうえ無戸籍だったとか? 可能性としてはなくはないだろうが、そんなことをいくら想像しても無意味であることは、今までも何度も考えてみたから、わかっていた。
はるみの記憶が戻ることを恐れていた。これ以上はないだろうという今の状況が壊れてしまう可能性を恐れていた。自分勝手と言われればその通りだが、それが正直な気持ちだった。はるみも同じような思いらしいことが、そう考えてしまう自分への慰めだった。
はるみが出産を機に何かが変わってしまうと感じ、それを怖いと思っていることを、軽く受け取ることはできなかった。妊娠と睡眠と夢。それらが無関係だと簡単に切り捨ててしまうことは難しかった。
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