第二部 第二章 一 震災と新居と梅の花

 すさまじい地震に襲われたのは、それから二か月ほどした、まだ雪の舞う、寒い日の昼過ぎのことだった。

 わたしは大学のキャンパスにいた。はるみは家、はるかは小学校のはずだった。経験したことのない、立っていることさえできない揺れに恐怖を感じた。あの公民館で、雷が落ち、火事に焼け出されたとき以来の恐ろしさだった。自分はこの辺りの土地に呪われているのではないかと思った。

 大学キャンパスでわたしが居候している佐野教授の研究室では、本棚の本は落ち、学生のデスクトップPCの何台かは吹っ飛び、机に重ねていた関連論文や資料の山は床に散らばった。電話はまったくつながらなかった。大学内は停電し、ネットも使えない状況だった。デジタル音楽プレイヤーに付いているラジオで辛うじて情報を得ることができた。震源は海底で、沿岸部は大きな津波に呑まれ甚大な被害が出ているらしかったが、正確な情報はまだつかめていないようだった。比較的内陸にある岩山市周辺では、揺れは相当なものだったが、幸い大きな被害は出ていないらしい。そして東京でもかなり揺れたようだった。

 災害時にははるかの小学校に集合することにしていた。車も動かないだろうし電車も止まっていたので、大学から徒歩ではるかの小学校に向かった。信号も消え、街は混乱気味で、やはり道路もひどく渋滞していたが、見た目にも被害はそれほど大きくはないようだった。これなら、はるみもはるかもきっと大丈夫だろうと、胸を撫で下ろした。でも、まだ、歩いていてもわかるほどの余震がときどき起こっていた。落下物に気をつけながら二時間近く歩いて小学校に着いた。体育館が避難所になっていた。中に入るとすぐにはるみを見つけた。はるかはわたしを見つけると走ってきて、飛びついた。とりあえずはもうそれだけでよかった。このふたりが無事でいてくれれば、それでよかった。ふたりもわたしを見ると安心してくれた。ふたりが笑顔を見せてくれれば、それでよかった。

 どうやら自分が呪われているのではないらしかった。こうして三人とも無事ということはむしろ守られているのかもしれなかった。そうだ、わたしはこの土地に呼ばれたようなものなのだ。

 少し状況が落ち着いてくると、いくつかの家族が家に戻り始め、真っ暗になる前にわたしたちも家に帰ることにした。途中、なんとか店を開けていたコンビニでペットボトルの水を三本とカップ麺を少し買った。

 東京では一人暮らしの時のまま地震対策はいい加減なものだった。こっちに引っ越して家具を据え付けるときには、はるかもいるので、引越業者に地震対策をしっかりやってもらっていた。マンションも免震構造だったし、まだそれほど荷物も多くなかったこともあって、家の中は花瓶が割れ、本が床に散乱したりした程度で、被害は思いのほか少なかった。

 日が暮れても、電気は止まったままだった。水道も出なかった。ガスだけは使うことができた。夕方になると原子力発電所で事故が発生したというニュースがラジオに流れ出した。ここからは二百キロほど離れているはずだが、それが十分な距離なのかどうかはわからなかった。そもそもどの程度の事故なのかもわからなかった。ただ原発周辺の住民には避難勧告が出されていたから、それなりの事故のようだった。

 キャンプ道具の中からランタンを出した。ガスは使えても水が使えないので、簡単な食事ですませた。風呂の残り湯があったので、トイレはそれで流すことにした。まだ時折大きな余震が発生していた。三人で抱き合うようにして夜を過ごし、眠った。

 次の日になっても停電と断水は続いていた。冷凍庫の中身が溶け始めていたので、そこから優先して使った。テフロン加工のフライパンや皿はペーパーで拭き取り、風呂の水を沸かして主な汚れを流し、最後に濡らしたペーパータオルで拭き上げた。こういうときにはアウトドアの知識を生かすことができる。一方、ラジオのニュースは、沿岸部では津波で何千人もの犠牲者が出た模様だと報じ、さらに犠牲者は増える見込みだと言っていた。原発の事故はかなり深刻なものだと伝えていた。聞くたびに被害は大きく、状況は悪くなっているようだった。

 その次の日の夕方になって、ようやく電気が復旧した。夜になって水道も出るようになった。テレビを付けてみて驚いたのは、途轍もない津波の静かな激しさだった。単なる洪水とは似て非なるものだった。海の底から巨大な舌が何本も伸びてきて、地上を根こそぎ海中に引き摺り込んでいるようだった。悪夢のように河川を遡上してきた海水は船を持ち上げ、易々と堤防を乗り越え、住宅地に流れ込んだ。はるかと同じくらいの子どもたちもかなりの数が犠牲になったようだった。以前なら客観的に見ることができたかもしれなかったが、今ではとても他人事とは思えなかった。親を失った子どもたちや愛する妻や夫を亡くした人々も大勢いた。犠牲になった人たちには申し訳ないと思いながらも、はるみとはるかが無事だったことをうれしく思った。

 そしてさらなる衝撃は、原発の建屋が爆発する映像だった。原子炉自体が爆発したのではないらしかったが、それでも放射性物質が大量に大気中に撒き散らされてしまったらしかった。近からず遠からずというこの場所が、どの程度危険で、どの程度安全なのか、そんなことさえわからなかった。さらには原子炉そのものが制御不能になりつつあるというニュースもあった。この国にはもう住めなくなってしまうのではないかとさえ思った。不気味な沈黙に満ちた恐怖が忍び寄ってくるようだった。

 放射性物質の人体に対する影響がどの程度なのかさえ、まだ明確になっていないという事実も驚きだった。でもかつてのチェルノブイリの惨事は広い範囲の住民に被害を与えていた。わたしたちは、怪物のように肥大化した正体不明の科学技術の、恩恵と恐怖の世界に生きているらしかった。

 それでも数日すると、そんな状況に徐々に慣れて始めてきていた。麻痺してきたと言ってもいいのかもしれない。それは精神を保って生きていくために必要なことなのかもしれなかったが、恐ろしいことでもあった。少し前に読んだ、コーク・マッカーシーの『ザ・ロード』という小説を思い出した。核の冬のような死の世界を、なんとか生き延びようと旅を続ける父と子の物語。なぜそんな世界になってしまったのかさえ、彼らは知らなかった。それに較べればずっとましとはいえ、そんなことを身近に感じる事態になるとは思ってもみなかった。

 地震や津波の恐怖は薄まった。でも原発はまだ予断を許さない状態だった。水や食料、そして周辺環境の放射性物質による汚染に対する不安だけは消えなかった。そしてそれは長く続きそうだった。わたしはよかった。でも、はるかやはるみにはせめて安全なものを食べさせてやりたかった。一部の生協や共同購入組織では原発事故の影響のほとんどない地域から野菜を取り寄せたり、独自に放射線量をチェックしているということを聞いて、急いで加入した。政府の発表は二転三転して鵜呑みにはできず、それに安全基準はその根拠さえあいまいなのだ。

 はるかは怖がって、テレビはほとんど見なかった。好きな番組だけを録画して見るようにした。震災に関する番組ははるかが寝てから、二人で寄り添って見た。まるで遭難して身を寄せ合っているみたいな気分だった。どの番組もコマーシャルはACジャパンというかつての公共広告機構のものだった。同じコマーシャルをうんざりするほど何度も見せられた。

 はるみは、意外にも怯えるということはなかった。目をつぶって何かに集中していることが多かった。何をしているのか訊いてみると、心を落ち着けているのだと言った。どうやら彼女なりに睡眠不足になっているらしかった。

 震災の発生した日から二週間ほどして、はるみの誕生日を迎えた。もちろん本当に生まれた日はわからないから、神社で発見された日を誕生日にしていた。わたしとはるかでケーキと料理を作って、ささやかに誕生日を祝った。プレゼントは、はるかと相談して、はるみが前から欲しそうにしていたオフホワイトのアウトドア・ジャケットを贈った。 

 研究の仕事をする気にはなかなかなれなかった。大学の何人かと一緒に研究所と観測施設の被害状況を見に行った。耐震補強の済んでいた研究所の方は自分の家と同程度の被害で済んだ。山の中の観測タワーは耐震の想定を超えていなかったようで本体は無事だったが、観測機器を取り付けているアームは歪んでしまっていた。修理するまではまともなデータが取れないが、復旧には時間がかかりそうだった。それでも本体が無事なのは助かった。観測タワーは建設費用が驚くほど高いらしいのだ。

 家の基礎工事に取りかかろうという矢先の震災だった。工事の開始前という点では運が良かった。考え直すことができる。原発事故による汚染の問題が現実にも心理的にも尾を引いていた。東京周辺と同じようなレベルとはいえ、この辺りの土壌からも低レベルの放射性物質は検出されていた。安心とはいえないが、それでも食べ物や水などによる内部被爆に気をつければ生活できないということはなさそうではあった。

 今ならまだ建築を取りやめることは可能なはずだ。被災地の復興に建築資材が必要だろうということもあったが、それよりもここに落ち着いてしまっていいのか迷いが生じていた。工務店に相談すると、もう冬の間に設計図に合わせて木材を切り出してしまっていて、今やめるとかなり無駄が出てしまうということだった。事実上のスポンサーのはるかは、ここで家を建てたいと言った。はるみもここは大丈夫と言った。根拠のないはるみの発言にわたしは少しむっときた。これまではるみと喧嘩なんてしたことがなかったが、初めてそれらしいことになった。原発の事故がまだ収束していないのになぜ大丈夫だと言えるのだとわたしははるみに突っかかった。はるみは大丈夫と感じるのだから大丈夫だと言い張った。子どもの前でまずいなと思ってはるかに目を向けると、どういうわけかはるかは真剣に興味深く観察しているようだった。そんなはるかを見たら、急に冷静な気持ちになった。

「ごめん。はるかやはるみのことが心配で、つい、ムキになった」

「いいの。わたしだって、あなたの言うように根拠があるわけじゃないんだから。あなたの言うこともよくわかる。わたしだって頭で考えれば心配だけど、九州とかまで行くならともかく、東京に戻っても大差ないみたいだし。それに科学的根拠はなくても、大丈夫だと感じるの。研究者のたかふみさんに言うのもあれだけど、どのくらいの放射性物質がどの程度人体に影響を与えるのかもはっきりしていないんでしょう? 影響を受けないに越したことはないけど、ここなら水とか食べ物とかから不用意に取り込まないように気をつければ、はるかもあなたも大丈夫だと思うの。それに原発がこれ以上ひどいことになったら、もう海外にでも行くしかないと思う」

 考えていることはわたしとほとんど同じだった。はるみの方がよほど腹が据わっているらしかった。ふたりが定期的に甲状腺の検査を受けるという約束で、ここに居続けることに同意した。病院嫌いのはるみは渋ったが、はるかのためということで折れてくれた。この機会にと思って、これまでずっと聞きそびれていたはるかの血液型を聞いた。O型だった。森野さんもO型だったという。わたしはA型で、親はAとOなので、まだ実の父親の可能性は残された。でも、こうして一緒に暮らしていると、そうでないことはもうほとんどわかっていた。

 家の方は、日陰になりやすい部屋にもできるだけ自然光を取り入れられるよう少しだけ計画を変更して工事を進めてもらった。できるだけ原発に頼らずにすむよう、太陽電池パネルと太陽熱温水器を、家庭菜園予定地の横に設置することにした。あの地震の後では屋根に取り付けるのは心理的に抵抗があった。それに土地はたっぷりと広いのだ。はるみの希望の部屋は、屋根を一部突き出すようにして一部屋だけ三階部分を作った。独立性を保つため、収納式の階段で上がるようにした。はるみは、茶室は単なるイメージでこだわりはなかったようだが、一面にはガラスの窓と障子を入れ、他の面の窓は壁と一体化できるような戸をつけてもらい、茶室っぽくした。茶室とは少し違うが、せっかくなので四畳半の真ん中に、一見、炉に見えるような、薪ストーブの煙突の熱を利用した掘りごたつも作ることにした。


 その後もう一度大きな余震があったが、暖かくなるにしたがって、不安も減っていった。新しい家が形を成していくにつれて、気分も少しは明るくなってきた。五月になると大学の職員から被災地にボランティアに行かないかと誘いを受けた。でも参加するかどうか迷っていた。というのも、高森山や小盛山の森の荒れているのが前々から気にかかっていて、それをどうにかしたいと思っていたからだ。特に小盛山はひどかった。研究所に通う道すがら森を見ると、素人目にも元気がなさそうだった。それで、森の手入れをして、材木や間伐材を復興に生かせないかと思っていたのだ。佐野教授に相談すると、やはり同じ気持ちだったらしく、森を再生するための組織を立ち上げようということになった。

〝森の再生プロジェクト〟は、まずは里山中地区交流センターに協力者として加わってもらった。引っ越してくる前に家族で交流センターを訪問した時には無関心だった成田さんという市の職員もこの話には乗り気だった。成田さんは市の農林振興課から出向で来ていたが、住民のやる気を引き出せずに困っていたらしい。彼や佐野教授を通じて、岩山市や県にも簡単にパイプを通すこともできた。自宅も地元産木材の家になったし、わたしがこうして活動も始めたということは、交流センターの談話室にあった地元木材のPRもあながち無駄ではなかったのかもしれない。当面は大気森林作用研究所に関係する教員と学生の有志が、里山中地区で林業を営む人の手伝いをしながら、いろいろと教わっていくという形で始まった。

 公民館の館長だった山田さんからは夏になった頃、電話がかかってきた。もちろんわたしのことをよく覚えていてくれた。岩山市に家族三人で引っ越して、こちらの大学に移り、河村教授のいた研究所に通っていることを伝えた。でも森野さんのことについては触れなかった。もし会う機会があったら面と向かって伝える方がいいと思ったのだ。

 夏の終わりには、新居も完成した。慌ただしく引っ越してきたわりにはずいぶんと時間がかかったが、ようやく新しい生活がスタートしたような気がした。

 久し振りに住む一軒家は快適だった。マンションのように壁一枚、床一枚で隔てられた隣家に気を使う必要はないし、どの部屋も明るく、風通しなんかもまるで違った。戸建て住宅に住むのは高校の時以来だった。もっともその時の家は嫌な思い出ばかりが詰まった家だった。こんな家族で一軒家に住むことができるなんて、考えてもみなかった。それに周りは森に囲まれ、家の中も木の香りに満ちあふれていた。東京から移住してきたわたしにしてみれば、ほとんど別荘のようでもあった。

 はるかも新築の一戸建て住宅に大満足のようだった。室内や家の周りで気に入ったものを写真に撮っては、わたしに報告してくれた。庭でさえずる鳥や、わたしたちを優しく包んでくれる樹々や、露に濡れた草や、可愛らしい花や、おいしそうな野草の果実や、短い命を懸命に生きる昆虫や、水たまりに雨に濡れた石ころ、空や雲や、陽の射し込んだ床や窓から見える風景。実に様々なものがあった。そして、はるみも。それに、前よりもわたしに優しくしてくれるような気がした。出会った一年前には笑顔や性格のほかは森野さんにそれほど似ていると思わなかったが、最近はときおり森野さんと見紛うばかりの表情を見せることがあった。

 はるみは思っていた以上に三階の茶室――お茶をてることなかったが結局そう呼ばれることになった――が気に入ったらしく、午前中に家事を終わらせると、午後には茶室でゆっくり過ごしていることが多いらしかった。確かにそこはとても落ち着ける空間だった。三人でそこにいることもあったが、そこで過ごすときはできるだけ静かに過ごすというのがルールになった。静かにしていると、下ではわからない、森の特別なささやきが聴こえてくるようだった。

 はるみは震災の前には運転免許を手に入れていたが、車はまだ譲り受けたアルファ・ロメオ一台しかなかった。マンション暮らしの間はそれでも事足りたが、新居に移った今はもう一台必要だった。途中の住宅街までは人気のない道なので、はるかの二学期が始まったら、はるみがそこまで送り迎えしてやらなければならないが、徒歩ではずいぶん時間がかかる。買い物などにも車がいる。それにガレージだってちゃんと二台分用意してある。

 はるみはアルファを気に入っていたし、わたしが毎日それなりの距離を乗るには燃費がいいとは言えなかった。ギアを固定している限りは大丈夫なはずだが、研究所前のあの急な坂道を登ると繊細なセミオートマチック・トランスミッションに負担がかかりすぎる気がした。坂の途中で発進しなければならない事態になったら故障する可能性は高そうだった。冬季のことも考えて、わたし用に小型の四輪駆動車を買うことにした。ところが震災の余波で中古車が品薄のため割高で、新車を買わざるを得ない状況だった。家を建てたばかりで資金も乏しく、本格的四駆は高価だった。調べると意外に選択肢は少なく、いわゆる生活四駆も候補に入れた。値段も手頃で燃費も改善されたらしいスバル・インプレッサの新型が次の冬の前には発売されるらしかったが、それまで待っていられる状況ではなかった。いろいろと思案した結果、低速時のみ後輪が電動駆動される、マツダ・デミオの簡易的な四輪駆動車を買った。初めて買う新車だったが、アルファ・ロメオの時のような浮き浮きした気分にはならなかった。でも、きびきびと走るし、燃費もいいし、スタイリングも好きだったから、それなりに満足のいく買い物ではあった。ただ、交流センターの成田さんは結構な車好きのようで、地方公務員が目立つのはまずいという理由で本人はスバル・フォレスターに乗っていたが本当は欧州車に乗りたいらしく、わたしがデミオに乗り換えたことを知ると残念そうな顔をしていた。


 新居に馴染んだ頃には、もう薪ストーブの季節だった。森の再生プロジェクトの思わぬ恩恵で、薪はいくらでも手に入った。こんなことならもう少し積載能力の高い車にしておけばよかったと少し後悔した。それでも行く度にトランクを満杯にして帰ってきたので、わが家が一冬を越すには充分な量がすでに確保できていた。余っていたので多めにもらってきて、普段はほとんど付き合いのない少し離れた近所にお裾分けした。

 最初はかなりの肉体労働に悲鳴を上げていた体もこの頃にはすっかり慣れて、引き締まり、逞しくさえなっていた。それに時々山の中の観測サイトにも足を運んでいた。まだ河村教授のように素早く登り降りとはいかなかったが、息切れもしなくなり、それなりに足腰も鍛えられていた。はるみは段々と変化していくわたしの体を面白がった。一方ではるみの身体も次第に変わってきていた。服を着ているときのほっそりした印象は同じだったが、胸や腰は女性らしさを増していた。こんな精力が自分のどこに隠されていたのか、ほとんど毎日のようにはるみと愛し合っていた。そしてはるみは何事にも研究熱心だった。自分でさえ知らなかったような、わたしの好みやつぼも今ではすっかり掴んでいて、いつも新鮮な刺激を与えてくれた。はるみは、後藤と別れられなかった沢田さんの気持ちが少しはわかるようになった、と言った。わたしもまた同じだった。タクシードライバーの武田さんが言っていたような、溺れた、というのとはちょっと違うけれども、その気持ちもまたよくわかった。

 わたしの変化ははるみの作ってくれる料理のおかげもあった。原発の問題が起こる以前から素材には比較的こだわっていたし、何よりも野菜の量が多かった。でも野菜のうまさを引き出すような調理をしてくれたから、たくさん食べることはまったく苦痛ではなかった。というよりもいつの間にか野菜が少ないと不満さえ感じるようになっていた。菜食主義ではないから肉や魚も食卓に並んだが、前のように肉をたくさん食べなくても満足感を得るようになっていた。たぶん体の中で栄養が上手く回るようになったのだろう。研究の必要に迫られて細胞生物学を少しかじったが、体というのは途方もなく精巧な化学工場でもあるのだ。もし生命の進化というものが何かの思考の一形態であるとするならば、それは人類の能力を完全に超越していた。

 郊外だったから、特に朝晩の冷え込みはきつかった。でも薪ストーブのおかげで家の中はどこも暖かかった。そして厚い鉄でできた薪ストーブの上でことこと煮た野菜のスープは美味しかった。寒い中、家の裏手に据えたテーブルにわざわざ熱々のスープを持ち出して、ふぅふぅ言いながら食べるのは格別だった。家の建築端材で作ったテーブルとベンチだった。はるかが友だちと遊びに行ってしまった休日の午後なんかは、はるみの淹れてくれたコーヒーをよくそこで飲んだ。はるみはもう店を出せるくらいの腕前になっていたが、自分ではたまにしか飲まず、主にミルクティを好んだ。ミルクティーを淹れるのはわたしの役目だった。夫婦水入らずで静かな午後を過ごした。コーヒー豆は近所にまだいい店が見つかっていなかったので、沢田さんの事務所近くの例の喫茶店にお願いして、特別に宅急便で送ってもらっていた。

 新しい土地での二度目の、そして新築した家での初めての正月を迎えた。東京には帰らず、初詣だけ出掛けて、あとは快適な新居で映画を観たり、本を読んだり、ゲームをしたり、とのんびりした休暇を過ごした。庭で雪合戦もした。どこに出掛けなくても、はるみとはるかとここにいるだけで豊かな気持ちになれた。ただはるかには、今度の春休みか夏休みにはディズニーランドに連れて行くよう約束させられた。こっちに移ってきてから、まだ一度も家族で東京に行ったことはなかった。年に一回くらいは東京に連れて行くというのが、はるかの出した移住する条件のひとつだった。


 はるみの誕生日――出逢ってまだ二度目の誕生日だ――が近くなった日曜日、雪のちらつくこともあるまだ寒い季節の、晴れた穏やかな日だった。震災からおよそ一年が経っていた。前日のニュースで梅の花が咲き始めたと聞いて、城跡の公園に出掛けた。ひとつ、ふたつと咲き始めた梅がわたしは好きなのだ。はるかは梅の花にはほとんど興味がないらしく、ひと通り見終わると、見知らぬ老夫婦が連れてきていた子犬を見つけて、遊びに行ってしまった。わたしははるみと寄り添って、一本の梅の木を見上げていた。その木にはまだ三輪しか咲いていなかった。もういくつかの蕾はほころびかけていて、ほかの多くの蕾たちは身を固くしたままもう少し暖かくなるのを待っているようだった。

「あのね、もしかすると、子どもができたかもしれないの」

 はるみは梅の花からわたしに視線を移し、唐突にそう告げた。

「ほんとに?」

 予期していなかった突然の告知だった。血流が普段の一・五倍になった感じだった。熱いと温かいのちょうど間くらいの感情が湧き上がってきた。自分の子どもができたかもしれないと告げられることが、これほど嬉しいことだとは思いもしなかった。わたしとはるみの子ども! 世界にかかっていた薄い皮がぺろっと一枚剥けたみたいな感じだった。子どもは作ろうとしていたが、それでも自分の子どもを持つことに若干の躊躇みたいなものがあった。でも、そんなものはどこかへ吹っ飛んでしまった。

「まだはっきりとはわからない。ただそういう感じがしているだけ」

 わたしを落ち着かせるような冷静な言葉付きだった。可能性を告げただけなのに、子どもに対してそれほど興味を示していなかったわたしがあまりにも嬉しそうにしたからか、逆にはるみの方が困惑したようだった。

「それと、このことははるかにはまだ内緒よ。あの子、弟か妹はまだかってずっと言っていたの。だから、ぬか喜びさせては可哀想でしょう?」

「そうだったんだ。しらなかった」

 はるかが弟か妹を欲しがっていることは乾さんのところで聞いてはいたし、そのことを忘れたわけではなかった。だけど、はるみにそれほどせがんでいたとは初耳だった。

「あなたのいないときにしか言わなかったから」

「うん。じゃあ、病院に行って、検査した方がいいんじゃないの。病院が嫌いなのはわかっているけどさ」

「そうね、もう少ししたら行ってみようかな」

 まだ検査に行くほどはっきりしていないからか、あるいはよほど病院に行くのが嫌なのか、はるみは微笑みながらもどこか戸惑っているような表情だった。

 犬と遊んでいたはるかが走って戻ってきた。

「ねえ、お父さん、あの犬、可愛かった! 秋田犬の子犬だって。すっごく、はるかにもなついてくれて、顔もぺろぺろ舐められちゃった」

 老夫婦の方を見るとちょうど帰るところで、お礼のお辞儀をすると、向こうもにこりとして頭を下げてくれた。

「お父さん、わたしも犬が飼いたいな。ねえ、駄目? ちゃんと、お世話はするからさ」

「そうだな。考えてみよう」

 子どもができたとすると、犬を飼うのは当分やめておいた方がいいだろう。

「番犬にもなるし、中くらいの大きさの犬がいいな。ほんとうははるかは大きい犬が好きなんだけど、あんまり大きいと、わたしじゃ散歩に連れて行くのも大変だしね。小型犬は家の中で飼わなきゃならないけど、お母さんは家の中で飼うのはあんまり好きじゃないんだって。テリアとかは結構好きなんだけどなぁ」

 はるみを見ると、うなずいた。この話もまた、はるみとはしていたらしい。なんかちょっと疎外感を感じるが、父親とはそういう存在なのかもしれない。


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