第一部 第一章 四 お母さんのこと
街道沿いなのでタクシーはすぐにつかまるかと思っていたが、走っているのは客を乗せた車ばかりで、空車はなかった。結局家までおぶって帰る羽目になった。きつくなかったかといえば嘘になるが、思っていたほどは重くなかったし、涼しかったことにも助けられた。筋肉痛くらいにはなるかもしれないが、予想していたよりはずっと楽だった。
玄関に入って電気を点け、揺すりながら「起きて」と声をかけると、寝ぼけ眼で「ここ、どこ」と聞いた。
「おじさんちに、帰ってきた。降りてくれないと、おじさん、靴が脱げないんだ」
靴のひもをきちんと結んでおかないと気が済まないたちなのだ。
「ああ、ううん」
少女の腕がゆるんだので、ゆっくりとしゃがんだ。
「はるか、ねちゃった」
ひとりで立ってはいたが、まだ意識の半分は夢の中にいるようだった。
「とにかく、部屋に上がろう」
靴を脱ぐのを手伝わなければならなかった。手を取って、居間に連れて行き、ランドセルを下ろさせて、ソファに座らせる。まだ夢の中を出たり入ったりしているようだった。
「お風呂は入れる?」
少女は
「じゃあ、歯磨きだけして寝ようか?」
今度は首を縦に振った。
このままだとまた眠り込んでしまいそうなので、引き上げるようにして立たせて、洗面所に連れて行った。新しい歯ブラシを出して、歯磨き粉を付けて、少女に渡す。もちろん子供用の歯ブラシなんてないし、寝間着もない。クローゼットを覗いて、くまのプーさんが描かれた長袖の黒い丸首のシャツを引っ張り出す。おみやげにもらって、軽く洗ったまま一度も着ていない。だぼだぼだろうが、どうせ一晩寝るだけだ。洗面所に戻り、シャツとタオルを棚に置いた。
「からい」と、少女が不満を言った。
「ああ、ごめん。大人用のしかないんだ。パジャマもないからこれを着て」と、シャツの柄を見せると、少女は眠たげな顔のままぼんやりと笑みを浮かべた。
どこで寝かせようかと考えようにも、ベッドかソファしかない。友人ならともかく、預かった
ふたたび洗面所に行ってみると、鏡を覗いていた少女がプーさんと一緒に振り返った。顔を洗ったらしく、生え際の髪が濡れていた。そのせいか、どうやらだいぶ目が覚めてしまったようだった。表情がしゃきっとしていた。とりあえずこのまま寝かせてしまえば、あとはゆっくり手紙と向き合えると思っていたのに。どうして子どもというのは大人の都合とは逆の方向に動くのだろう。
「おじさん、夕飯、ごちそうさまでした。それからいちごパフェも。はるか、うれしかったんだ」
そんなふうに言われると悪い気はしない。
「うん、それならよかった。さて寝る準備もできたし、もう寝ようか」
「あのね、沢田さんはいつも忙しいから、わたし、夜もひとりで食べることが多いんだ。はるかが作ってあげることもあるんだよ。休みの日は沢田さんの彼氏も一緒だったりするし、そのときは、わたし、ちょっと緊張しちゃうし。でも、おじさんと食べたら、楽しかった」
「へえ、そうなの」
まあそういわれてうれしくないこともない。
「寝室はこっち。シーツとかも替えといたから」
「うん、ありがとう」
寝室に案内したつもりだったが、少女は覗いただけでそのままソファに座ってしまった。膝を抱えるようにして脚を服の中に入れて肘掛けにもたれるように座るその姿は、小型犬か猫がお気に入りの場所に丸まっているみたいだった。
「そこは、おじさんが寝るところなんだけど」
「でもまだ寝ないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、こっちにきて、お話しして。さっき、言ってたでしょ? お母さんのこと、好きになったって。ねえ、どんなところを好きになったの?」
余計なことを言ってしまったと思ったが、手遅れだ。ずるいのだろうが、あれは森野さんと何もなかったかのように思わせようと考えて言ったことだった。少女は別の捉え方をしたようだった。仕方なく三人掛けソファの少女の反対側に腰を下ろした。
「それより、お母さんのことを聞きたいんじゃないの?」
わたしは単純に、母親の人生を、途中からはあまり幸せではなかった人生を、かいつまんで話してやればいいくらいに考えていた。正直言って、わたしと森野さんの関係に関わることをあまり語りたくはなかった。つまりは墓穴を掘ってしまったらしい。
「それもあるけど、おじさんから見て、お母さんがどんなだったのかな、って思って。それに、それだってお母さんのことでしょう?」
このくらいの子どもって、こんなに大人っぽかったのか? このくらいの子どもといっても、あるていど当たりはついているにせよ、まだはっきりと年齢を聞いたわけではなかった。自分が父親かどうかを知るために年齢や生年月日や血液型を聞くことは当然思いついた。しかし、年齢や学年はともかく、あの時点でいきなり生年月日や血液型を聞くことはいかにも不自然だった。かえって、父親である可能性を疑っていることを知らせるだけだ。それに年齢なんかを聞いたところで、生まれ月がまったくはずれていればともかく、せいぜい可能性が高いか低いかがわかるだけで、父親かどうかという問題が決着するわけではない。だがそれは自分に対する言い訳でしかなかった。怖くて聞けなかっただけのことだ。
「うーん、どこだろう。そりゃ、美人でスタイルもよかったけど」
そんなことではなかったはずだ。なんで好きになったのだろう。よくよく考えてみたことはなかったような気がする。
「そう、初めて会ったときは好みのタイプってわけでもなかったんだ、きれいな人だとは思ったけどね」
「お母さん、きれいだった?」
「うん、そりゃもう。でも、単に顔立ちが整っているとか、そういうんじゃないんだ。魅力的だった、としかいいようがないんだけど」
「へえ」
少女は自分がほめられたかのようにすごく嬉しそうな顔をした。
「ねえ、魅力的って、どういうふうに? セクシーとかそういうこと?」
「あー、そうだな、そう、踊っているときは、ある意味、そういう感じだった。まあ、セクシーというよりは、生命感とか、そんな感じだけど」
「おじさん、お母さんの踊り、見たことあるの?」
少女は目を大きく見開いてこちらを見た。
「うん、一度だけね。なんか、おじさんがお母さんのことを元気づけたことがあったんだ。自分じゃそんなつもりもなかったんだけど、お母さんが、お礼に、って踊ってくれた」
「それって、いつぐらいのこと? お母さんが大学生のころ?」
一瞬見せた表情は抑えたが、相当関心があることは話し方から伝わってきた。
「いや、違う。そうだな、一〇年か、一五年くらいか、そのくらい前のこと。えっと、お母さんが前に結婚していたことは知っているよね?」
このくらいは聞いても、問題ないだろう。それにしても、わたしはまたごまかすような言い方をした。
「うん、知ってる。でも、離婚したんだって。お母さんはあんまり詳しく教えてくれなかったけど、ひどいことされたんだって、結婚した人に。腕にまっすぐの火傷のあとがあった」
「ああ、おじさんも知ってる。お母さんが見せてくれた。そう、だからお母さんが離婚して、しばらくしてからじゃないかな。ところで、はるかちゃんは今、いくつ?」
ついに訊いてしまった。
「一〇歳」
やっぱり、そのくらいか。
「じゃあ、小学校の四年生か五年生か、それくらい?」
「うん、四年生」
一〇歳で四年生ということはもう誕生日が来ているということだから、時期的にはやはり〝合って〟しまう。でもどうも話せば話すほど、少女がわたしを父親ではないかと疑っている可能性は低くなっているように思われた。こうなったら思い切って父親のことについて訊いてみようかと思った。だが心を決めるよりも、少女の質問の方が早かった。
「ねえ、ほかには? ほかにはどんなところが好きだったの?」
「そうだな」
短い間、あの時の自分と向き合ってみた。どこを好きになったのだろう。あの晩のことを、早送りで思い出してみる。
「そうだ、お母さんのどこが好きになったというよりも、お母さんと話をしたり、一緒にいたら、すごく楽しかったんだ。自分が自分らしく感じられた。こういう感じ、わかる?」
少女は三秒ほど考えてから答えた。
「うん、わかる。わたしも沢田さんの彼氏といるよりおじさんといるほうが自分らしく感じる」
「そうか」
思わず頬が緩んだ。頭では弱ったなと思っているのに、心の奥底はこの少女から好かれているらしいことを嬉しく感じているらしかった。それに思っていた以上に少女は精神的に成熟しているらしい。自分らしく感じるなんて、自分がこの歳の頃に理解できただろうか。でも、ただわたしの真似をして言っているという感じではなかった。
「沢田さんの彼氏って、どんな人なの?」
「うんとね、これは沢田さんには言わないでくれる?」
少女は困惑した表情で言った。
わたしは頷いた。
「あのね、前の事務所で一緒に働いていた人で、見た目はまあ格好いいんだけど、わたしは性格とか考え方が好きじゃないんだ。わたしにもやさしくは接してくれるんだけど、なんか馬鹿にしているみたいな感じで。特にお母さんのことなんて、すごく馬鹿なおんなだとか思っているみたい。お母さんが前に沢田さんの家に住んでいたことがあって、何度か会ったことがあるらしいの。そういうことをはっきり言うわけじゃないんだけど、わたしにはなんとなくわかるんだ」
少女は嫌なものでも見てしまったかのように、短いため息をついた。
たぶん、森野さんが初めて沢田さんに会ったときのいけ好かない印象と同じような感じなのだろう。ただ、沢田さんはそれが本質ではなかったが、その男はそれが本質なのかもしれない。少女の話しぶりからはそう感じられた。あるいはこういう身の上に置かれたせいで、人間に対して敏感になっているだけなのかもしれない。
「それで緊張しちゃんうんだ」
「うん。たぶん」
「おじさんにはそういう感じはしないんだ?」
「うん、しない、ぜんぜん。あー、でも、わたしのこと、迷惑と思っているんでしょう?」
「え? ああ、全然迷惑じゃないって言ったら、嘘になるかな。今日はちょっと疲れていたしね。このところ、忙しかったんだ。でもそれもちょうど今日で終わった。そういう意味では今日でよかった。もし昨日だったら、追い返していたかもしれない」
少女はファミレスのときと同じように、無表情な目でわたしを見た。でも今度はそのあとで表情が緩んで、安心したように微笑んだ。
「やっぱりね。おじさんは大人の割には結構正直だよね。だからわたしも安心できるのかも」
「そう?」
少女は前に向き直って大きく頷いた。
「でも、その人とお母さんが会ったのは、お母さんがかなり落ち込んでいた時期だと思う。だから、その人が本当のお母さんを知っているとはいえないんじゃないかな」
「でも、そんなことわかっていたはずだし、落ち込んでいる人を見てそんなふうに思うなんて、わたしはきらい」
「まあ、そうだな。君の言うとおりだ。やっぱり、お母さんに似て、頭がいい」
少女は横顔に悲しげな笑みを浮かべた。それから膝の上のプーさんに顔をうずめた。褒めたはずなのに微妙な顔をしたから変だな、と思った。そしたら、う、う、と短くうめくような声が聞こえだした。そしてそれは、すぐにはっきりとした泣き声に変わっていった。
夕方のときとは違って、もう何も我慢していなかった。思い切り声を上げて泣いていた。比較的防音性能の高いマンションだが、それでも隣に聞こえてしまいそうだった。腰をずらし、少女に寄り添うようにして、ただそっと肩を抱いてやった。やがて少女は胸にすがりついてきた。わたしの服を掴んで泣き続けた。ときどき、おかあさん、おかあさん、と呼んだ。胸に涙が染みて、生ぬるく濡れた。背中に手を置いてやると、少女の振動が直接伝わってきた。
五分か、一〇分か、それくらいするともう泣き疲れたようになって、徐々に泣き方は弱くなっていった。そのうち少女は寝てしまった。涙はまだ流れ続けているようだった。起こさないように慎重に抱え上げ、どうにか掛け布団をはいで、少女をベッドに横たえた。ティッシュペーパーで涙をそっと拭き取ってやった。しばらく横で少女の寝顔を見ていた。すっかり寝入ったのを見届けて、小さく「おやすみ」といって、電気を暗くして、寝室をあとにした。
簡単にシャワーを浴びてから、普段と違って音を立てないように気をつけながらキッチンでコーヒーを淹れた。疲れはたっぷりと感じていたが、眠くはなかった。立ったまま一口、二口とゆっくりと味わう。深煎りの豆をじっくりと抽出した、コーヒーの香りとほのかに甘い苦みが、疲れを和らげてくれた。
居間に移動してマグカップをソファテーブルに置くと、ソファの横に少女の赤いランドセルがぽつんと置かれているのが目に入った。なんだか不思議な光景だった。ただそれが示す現実は、とても気の重いものだった。そしてわたしはこれからそれと対峙しなくてはいけないのだ。
リュックから封筒とペーパーナイフを取り出した。宛名と差出人の名前を見直し、最初の手紙にもう一度目を走らせる。謝罪。特殊で超自然的な妊娠の経緯。そして、心からの感謝の言葉。ゆっくりと中の厚い封筒を取り出し、丁寧に封にナイフを入れた。ひとつ深呼吸をしてから、祈るような気持ちで手紙を広げた。
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