色彩
曼珠沙華
第1話「ペール・ブルー その壱」
俺の夏休みもいよいよ終盤に差し掛かっていた。
はじめ猛威を振るっていた暑さはどこへやら。最近は日が沈む頃には、涼しい風が山間から吹き抜けてくる。虫の音もどこからか聞こえ始めていて、もう秋めく季節なのだと実感させてくれる。
しかし中秋の名月とはよく言うが、この時期でもちょうど空気が澄んでいれば、夜の満月というだけでどこか惹かれるものがある。
冷蔵庫にそれなりの量の団子が残っていたことだし、夜勤に行った親父には悪いが、一人で月見に出かけることにした。
自転車で山道を少し走ると、大きな橋が架けられている場所に到着した。
俺の住んでいる地域は、ドがつきそうなほどの田舎だ。だからこそ居住区は大抵固まっていて、ここら一帯は道路こそ整備されているが、ここに来るまで人影を全く見かけなかった。
過疎地域というのは普段は頭を悩ませられる事案なのだが、今日に限っては誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと月を堪能できそうだ。
橋の歩道部分にシートを敷き、持ってきて団子を片手に座り込む。月明かりのおかげで、視界は眩しいほどに良好だ。
こういう時、こういうものに風流を感じるのあたり、やはり自分も日本人なのだろう。いつもは何気なく食べている団子も、今ばかりはいつにもまして美味しく感じるのが不思議で堪らない。
――ふと気づくと、虫の音に混じって湿ったような音が聞こえてきた。
それはひたり、ひたりとこちらに近づいてくる。足音だと気がつくのにそう時間はかからなかったが、靴らしい音でないことには違和感を覚えた。
人通りは確かに少ないが、絶対に誰もいないとは言い切れない。
たまたま通りかかったのか、或いは俺と同じように月を見にきたのか?いずれにせよおかしなことではない。ただ誰かが近づいてきているだけだ。
その誰かが気になって、後ろを振り向いた。瞬間、俺は言葉を失った。
そこに立っていたのは、尋常ではない姿の少女だった。袴姿に、刃がむき出しの薙刀。そして全身に飛び散ったような赤色が染み付いている。
錆びた鉄の匂いが鼻につく。それは必要のない想像欲を掻き立ててきた。
そしてその姿を、青みがかった月光は輝かしく照らしていた。それがまるで妖美なもののように。
「ねぇ」
先に言葉を発したのは少女からだった。その声色はとても弱々しく、かすれていた。
「……なんだ?」
恐る恐る、返答を返す。
「その団子、いくつかもらえないかな」
少し呆気にとられてしまう。こんな状況、ドラマならまさに命の危機が迫っている場面だ。この状況で団子を要求されるとは、微塵も考えていなかった。
先ほどまでは、恐怖が心を支配していた気がする。もはや刹那前のことすら思い出せない。今は心の中で張り詰めていた何かが、余裕を取り戻していた。
「いいよ、少しくらい」
「ありがとう」
彼女が何者なのかはまるで見当がつかない。
困っているように見えたから?それとも、要求に従わなければ殺されるとでも思ったか?
いずれにせよはっきりしているのは、俺の手元にたくさんの団子があって、それを分け与えるくらいならいいかと、そう思ったことだけだ。
少女は俺の方へ寄ってきて、寄り添うように隣に座ってきた。薙刀は傍らに置き、団子を一つ摘まんで食べてみせた。
しばらくの間、お互いに何を話すこともないまま、静かな時間が流れていく。手が空けばまた団子を口の中に放り込む。それだけの単純な時間だけだ。
彼女の犯した行為には、なんとなくだが想像がつく。その数が途方も無いことも、彼女が覚悟を決めたことも。頭の中でそれは風船のように膨らんで、今にも破裂してしまいそうなのだ。
けれど隣から感じる体温はとても暖かくて、それでいて可憐な冷たさも持ち合わせていた。
こんなものは、もはや理屈では到底説明できない。
俺はしばらく続いた沈黙に苦しみを感じていて、考えるだけでは限界を迎え始めていた。
「お前ってさ、何かあったのか?」
何をしゃべればいいのか、うまく思いつかない。何か適当なことを――そうやって最初に思いついたのが、その言葉だった。
「……まぁ、そうだね。いろいろあってさ」
俺は身長がいやに高いだけで、まだただの中学生だ。他人の心を読み取るなんて、器用な真似はなかなかできない。けれど少女が重たそうなものを背負っていることは、辛うじて言葉の節から理解できた。
口の中に団子を放り込んでいるあたり、また返答に悩んでいるらしい。しかし飲み込む頃には、再び語るための口を開いてくれた。
「お家騒動ってやつで、親戚が僕たちのところを襲撃してきたんだ。なにか、説明しにくいんだけど……、淀んだ空気が流れててさ。蓋を開けてみれば血みどろの殺し合いだった」
その言葉は先ほどまでとは打って変わって、淡々と語られる。感情も何もない、空虚な口調だった。
普通なら信じられない。親族同士の殺し合いなんて、現代で容易に出会うものではないのだから。けれど――
彼女はどれだけ必死だったのだろうか。
平和に慣れきった俺の脳では、どうやったって押し計れそうにない。いったいどのように返答すればいいのか、その最適な答えが見つかるはずもなく、俺は口を
「結局父さまも母さまも、爺さまも全員死んだ。仕方がないから敵は全員
けれど、この語りは決して達観したものではないと、それだけはわかった。また、起こってしまったことに対して、割り切れている様子でもない。それこそもっと単純なことだ。
ただただ苦しそうな悲鳴が、彼女の心臓から聞こえた気がした。
「……いや、ごめんね?」
俺の心臓には、その謝罪が何よりも突き刺さった。だって、何もできていないのに。
「まったく、僕は君に何を求めていたんだろうね。ははは……」
違う、それは苦笑いにすらなっていない。
「――誰かが必要なんじゃないか」
気づいた時には、その言葉は俺の内側から漏れ出していた。そんな曖昧で、短な言葉しか出てこなかった。
「誰か?それって家族とか友達とか、そういうこと?」
「そういう、ことになるかな」
考えはまとまらない。彼女には、この言葉はどう響いているのだろうか。
「……あなたは案外優しい人だね。無理をしているのがよくわかる」
「君ほど無理なんてしてないさ。現に、今俺は無力なんだから」
「あぁ、そっか」
その一瞬、月が雲に隠されて、辺りは闇に包まれる。街灯のないこの道沿いでは、本当の意味での闇だった。
何も見えない世界の中で、少女は何も言わずに俺の隣から離れた。
「君は、本当に優しい人だね」
そんなことない、そう言おうとした口を再び噤む。自分に何かを期待されているようで、背中に冷たげな何かが走ったのだ。
「俺は、適当なことを言っただけなんだよ」
「果たして、本当にそうなるかな?」
また不思議な感覚が続く。その輝きを遮られてしまった月は、俺に手を差し伸べてはくれない。
近くにいるはずの彼女の息遣いは、見えなくても突き刺さる彼女の視線は、微笑むような声から想像する彼女の口元は、俺を責めようとはしない。
「うん、君はやっぱり優しい人なんだよ。僕の中では、この評価は変えられそうにない」
「そうか、わかったよ。それでいい。けれど期待はしないほうがいい」
「それなら期待するのは一つだけにさせてもらおう」
一つだけ、という言葉に心が引っかかる。
たった一言に、こんなに負い目を感じるのは初めての経験だ。俺にとって何気ない言葉であっても、それが彼女にとって意味を持たないとは限らない。そういう肝心なことを何も知らなかった。
人の一言は限りなく重たいと、本当の意味で理解したのは今が初めてだろう。そしてその一言で大きな変化をもたらすとういうことも、理解させられた。
この先もまた、同じように強い悔恨を残してしまうのかもしれない。それがただ悲しくて、少女にわからないよう静かに俯いた。
「一体何を期待するんだ?」
恐る恐る質問する。それは無理難題なのか、しがない小さな希望なのか。それがわからなくて、小さく震えた。
「あなたには、僕にとっての『誰か』になってもらおう」
「自分の発言に責任をとれってことか」
「じゃあそういうことで」
体良く言葉を奪われる形になった。
それもそうだ。始めに何を必要としていたのか、その疑問に答えたのは俺自身なのだから。
再び月がその姿を表すと、青白い光は煌々としていて、照らされる少女のニヤリとした口元が印象的だった。そしてその瞳には確かに、先ほどまで灯っていなかった光が宿っていた。
「あなたとはまた会いたいです。今なら何かを失うとしても、あまり怖くない」
「それだけは、良かったよ」
ほんの少しの安堵に縋っている。支配していた恐怖がなんだったのか、今となってはわからない。ただ自分の不甲斐なさに振り回されて、被害妄想に打ちひしがれていただけなのかもしれない。
これはきっと大事な意味を持っていて、大切な何かを手に入れるための関門だったように感じる。
「俺は、またここにくればいいのか?」
「……もう秋だし、あなたが待つ必要はないですよ」
「ならどうするんだ」
「そのうち考えます」
少女は微笑みながら、薙刀を拾い上げた。多分、本当の意味で屈託のない、綺麗な笑顔だった。
「最後に、名前を教えてもらえますか」
「……
「かみやま――うん、覚えた」
その場で踵を返し、少女はもと通ったであろう道へと戻っていく。
「また会いましょう、いつかどこかで」
俺の返答を待たず、強い月光は彼女の姿を遮った。そして最初から誰もいなかったかのように、誰もいなくなった。
空っぽの箱を片付けて、自転車のカゴに詰め込み、風で飛ばないようビニール袋を上から被せる。そうやって準備ができたら、そのまま俺は家路を急いだ。
これが俗にいう、運命というやつだったのだろう。
俺にとっても、少女にとっても、人生の中で大きな分岐点になったことは間違いない。
お互いの素性なんてまだほとんど知らない。けれどまた出会えることを、心のどこかで信じて疑わなかった。
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