一問目 その1

 かつて大陸の東側に、てんこうこくという大きな国があった。

 天庚国は、大陸内のけん争いといううずみこまれ、ぶんれつする形でしようめつした。

 新たに誕生した国は、こくかいこくさいせいこくはくろうこくせきそうこくの四つである。

 このうち、南に位置する赤奏国は、国を守護するしんじゆうを『朱雀すざく』に定めた。ぶかあかき鳥である朱雀神獣は、いつだってこうてい夫妻とたみいつくしんでいると言われている。

 そんな心やさしい神獣によって見守られている赤奏国に、あんという少女が生まれた。

 莉杏は、物心がつく前に両親を失った気の毒な子どもである。しかし、祖父母にとってゆいいつまごむすめである莉杏は、祖父母にとても可愛かわいがられるという幸運にめぐまれた。

 莉杏の祖父であるとうろうは、皇帝が暮らすれいじようで働く武官だ。登朗は派手な立身出世かいどうを走ることはなかったが、上官に恵まれ、部下にしんらいされ、そこそこという地位を得ることができていた。

 元はびんぼうな家の生まれである登朗は、幸運で得た『そこそこ』であることを忘れずにつつましい生活を続けた……ように見えるが、それはとある野望をかなえるためでもあったのだ。

「蕗家から皇帝のきさきを……!」

 しかし登朗は娘に恵まれず、望みを孫娘へたくすことになる。

 莉杏が十二歳になったとき、登朗は皇帝に莉杏の後宮入りを願った。皇帝は、即位してから六年経ち、二十七歳になっていたが、登朗に勝算はあった。

 皇帝は、若く美しい妃たちを愛している。しかしその愛は、十年後も存在しているわけではない。そのときになれば、皇帝はまた別の新しい妃を愛するだろう。見た目がすぐれてさえいれば、十二歳の莉杏でも後宮入りが叶うはずだ。

「今が十二歳なのか。そうだな、十三歳になったら一度そのむすめの顔を見せにこい」

 登朗の予想通り、皇帝は幼い莉杏の後宮入りを前向きに考えてくれた。

 赤奏国は、十三歳で成人したと見なされる。一年後、十三歳になった可愛い孫娘の顔を皇帝に見せれば、ちがいなく後宮入りの許可を頂けるだろうと、登朗は喜んだ。



 蕗莉杏は、こくようせきのようなつややかなくろかみに、清らかな水底にあるすいのような色のひとみをもつ、とても愛らしい少女だ。

 まだ今は『可愛い』で終わってしまうけれど、数年後には『美しい』と呼ばれる少女になることは簡単に予想できたため、登朗は莉杏に皇帝の妃という期待を寄せた。

 莉杏は小さいころから後宮入りを意識した教育を受けてきた。その結果、祖父母の期待に応えて後宮入りにあこがれる少女となり、れんあい小説や後宮物語を好んで読み、皇帝に気に入られる妃となるための勉強にはげんだ。

 そして十三歳の誕生日、莉杏はついに後宮入りを皇帝へ直接願い出ることになった。

 登朗は「絶対に断られることはない!」と自信満々に言いきり、かざった莉杏を茘枝城に連れて行く。

「莉杏、この先のえつけんという部屋で、皇帝へいがお待ちになっている。皇帝陛下は二十八歳というお若い方で、きんじきであるしんほうを身につけていらっしゃる。とびらをくぐったら、頭を下げたまま静かに歩いて行って、部屋の真ん中で立ち止まるんだぞ。さいしようかつから『発言を許可する』という言葉を頂いたら、陛下にお願いをするんだ。お願いの言葉はきちんと覚えているかな?」

だいじようです、おさま!」

 莉杏は、後宮入りを願う言葉を、家で何度も練習した。祖母の合格をもらえるまでの日々は険しく、練習している夢を見てしまったほどだ。

「それでは行ってまいります」

 莉杏は見事な礼を登朗に見せたあと、胸をどきどきさせながら、兵士が開けてくれた扉の向こう側へ足をれる。

 きようしゆをしたまま、赤いおりものの上をゆっくり歩いた。慣れない靴をはいているため、ふかふかの織物につま先をひっかけてしまいそうで、ひやひやする。

 だれもなにも言わない静かな部屋の真ん中で立ち止まってひざをつき、ただひたすらじっとした。きんちようで手がふるえている。冬だというのに身体からだが熱い。

(陛下はどんなお声なのかしら。あっ、まずは、宰相閣下のお言葉よね。今から聞こえる声は、宰相閣下のはずだから……)

 緊張が高まりすぎた莉杏は、自分の心臓の音がみんなにも聞こえているのではないかと心配してしまう。

(まだかな、まだかな……?)

 宰相からの言葉がなかなかもらえなくて、莉杏の緊張が不安に変化していく。

 どこかで失敗をしてしまったのではないかと、扉をくぐってからの動きを必死に思い出そうとしていると、静かすぎる謁見の間に小さな笑い声がひびいた。


「……はは、誰かと思ったら。ほら、顔を上げなよ」


 それはとても若い男の声だった。莉杏は、宰相はげんのある低い声でしやべるものだと思っていたのだが、どうやら想像とちがったようだ。

(宰相閣下から許可を頂けたわ。次は顔を上げて……)

 莉杏は、自分の夫となる皇帝の顔を、ここでようやく知ることになる。

 おそるおそる顔を上げ、玉座に収まる皇帝の姿をこの瞳に入れて──……。

(血、が……?)

 玉座の前に、とびいろの髪とふかみどりいろの瞳をもつ青年が立っていた。彼は、皇帝以外には許されない深紅の袍を身につけている。そしてなぜかほおあかよごれていた。

 莉杏がなにも言えないでいると、青年はにやりと笑う。

「あ~、おれには大きいな、この袍は。今度仕立て直しをたのんでおかないと。みっともなくて悪かったね」

 莉杏は視線を左右にそろりと動かしたあと、あれ? と首をかしげた。この謁見の間にいるのは、なぜか自分とこの青年だけのようだ。

 莉杏に発言の許可をあたえる人は、宰相である。皇帝は、ただの武官の孫娘である莉杏と、直接会話をすることはない。莉杏が後宮入りして妃になり、気に入られるまでは、皇帝を見ることしか許されないのだ。

(でも、禁色の深紅を身につけてもいいのは、陛下だけ……よね?)

 ということは、この青年はやはり『皇帝』だ。もしかしたら宰相は、腹が痛くなって席を外しているのかもしれない。

(宰相閣下を待つべきか、それとも話しかけてくださった陛下にお返事をすべきか、どちらなのかしら)

 迷ったけれど、皇帝を無視するのはかなり失礼だろう。莉杏は勇気を出して、自分がここにきた目的を果たそうとした。

「あ、あの、陛下……!」

 莉杏が呼びかければ、青年はきょとんした顔を見せる。

「陛下?」

 しかし彼はすぐにんまりと笑った。

「うん、そうそう、おれが皇帝だ。……思い出したよ、あんたさぁ、武官の蕗登朗の孫娘の莉杏だろう? 皇帝の謁見予定にあんたの名前があった」

 莉杏は、名前を覚えられていたことに励まされ、「はい」と大きくうなずく。

「今日で十三歳になりました。わたくし、それで、皇帝陛下にお願いが……」

「お願い? どんな?」

 言ってみなよ、と皇帝は莉杏を促す。

(……陛下は、二十八歳なのよね? でも、この方は前に見える)

 こういう底知れない笑い方をする人だとは思っていなかった。戦場をける姿はとてもしくて立派だと聞いていたから、なんとなく身体からだの大きい人を想像していたのだ。

 でもまえにいる皇帝は、すらりとしていて、とんでもなく整った顔立ちをしている人で、戦場にいなくてもかつこうよく、ついれてしまいそうになる。けれど──……なんとなくこわい。

 皇帝に圧倒されてしまった莉杏は、よく考えないままくちを開く。

「わたくしを、後宮に入れてください」

 用意していたお願いの言葉が、いつの間にか莉杏の頭からけていて、いつもの調子でお願いしてしまう。

 あっと我に返ったときにはもうおそい、放った言葉は取り戻せないのだ。

 莉杏は皇帝にしかられてしまうと身を硬くしたが、皇帝はなぜか楽しそうにしていた。

「あんたさぁ、皇帝の妃になりたいわけ?」

「は、はい! わたくしを貴方あなたの妃にしてください!」

「貴方の、ねぇ」

 皇帝はくくっとのどで笑う。その笑い声は段々と大きくなった。

「子どもって無知で怖いなぁ、ははは、いいよ。おれの妃にしてやる」

「ありがとうございます!」

 莉杏はようやくほっとできた。念願の後宮入りの許可がついに下りたのだ。登朗は絶対に大丈夫だと言っていたけれど、やっぱり不安だった。

 莉杏がかたから力を抜くと、皇帝が一歩前に出てくる。すその長い深紅の袍が、ずるりと引きずられた。

「ちょうどいい。あんた、おれのこうごうになりなよ。あいつがまだここにたどりかないんだ。いつまでも待つわけにはいかないんだよね。おれには時間がないからさ」

 皇后とは、あの皇后だろうか。皇帝の唯一の正式な妃である『皇后』のことだろうか。

 皇帝は、そもそも結婚をしていないとそくの儀式を行うことができない。よって、こうたいのときに結婚をしておくし、新皇帝が即位した時点で新皇后も誕生する。

(今代の皇后陛下がくなられた、というお話は聞いていなかったけれど……?)

 皇帝が莉杏にゆっくり近づいてきた。膝をついたままの莉杏に、血に濡れた皇帝の手が差し出される。

「陛下、おを……!?」

「これはおれの血じゃない。……ああ、このままだとあんたが汚れるか。でも赤いこんれいしようを着ているから、ちょっとぐらいなら血で汚れてもいいよね?」

 莉杏はすぐに皇帝の手を取ることができなかった。間近で見ることになった深緑色の瞳に、あらしの日の森のようなおそろしさを感じたのだ。

 ──わたくしは、これからこの方と結婚する。

 なぜだろうか、みようにどきどきする。もちろん、この人は皇帝なのだから、莉杏が緊張からどきどきするのは当然のことであるはずだ。でも、莉杏の意識は、『皇帝』という偉大なる存在ではなく、笑っているようで笑っていない、深すぎる緑色の瞳に向いていた。

「どうした?」

 皇帝の声には、人を従わせる力がある。

 莉杏は思わず血に濡れた手を取った。その手はとても熱い。

「行くぞ」

 どこへ、なんて質問を受けつける気は、皇帝になさそうだ。

 莉杏は皇帝に導かれるまま、謁見の間のさらにおくへと向かった。

(後宮入りのお願いが通ったら、陛下にありがとうございますって言って、お祖父さまのところへ戻る予定だった。このまま陛下についていってもいいの……?)

 皇帝と祖父、どちらに従うべきかなんて、考えなくてもわかる。でも不安だ。

 血に濡れた手や、血のにおい、そういったものが莉杏に『けいかいしろ』と言ってくれている気がする。

「ここが茘枝城の朱雀神獣びようだ。ここであんたとおれはふうになる」

 大きくて古い扉の前に、文官や武官が並んでいる。

 物々しい雰囲気に、莉杏はひるんでしまった。

「……あの、お待ちください! この子は? もくれんさまはどちらに?」

 莉杏が皇帝と共に朱雀神獣廟の中へ入ろうとしたとき、文官の官服を着た二十歳手前ぐらいの青年に引き留められる。

せんえい、木蓮は間に合わなかった。怪我をしたのか、遅れているだけなのか、死んでいるのか、おれにもわからない。こいつはちょうどよく後宮入りを願いにきていた女だ。これですませる」

「……わ、かりました」

 泉永はしぶしぶという表情で皇帝の言葉に従う。

 莉杏はそれを視界のはしとらえながら、皇帝のくちから出てくる名前をひとつひとつ覚えていった。

(『泉永』と『木蓮』……。『木蓮』は、もしかしてすいの木蓮さま……?)

 翠木蓮という、後宮入りの話も上がっていたとても美しい女性のことなら、莉杏も知っている。

 翠家の木蓮は、妃となるために生まれたような女性で、詩歌しいかも舞踊も通ってくる先生より上手で、莉杏が見習うべき相手なのだと、登朗が言っていた。

「莉杏、こっちへこい」

 皇帝に呼ばれた莉杏は、慌てて朱雀神獣廟の中に入る。背後の扉が、きしむ音を立てながら閉じていった。

 朱雀神獣廟の中には、莉杏と皇帝以外に人は誰一人としていない。

 廟の奥には大きな朱雀神獣の像がかざられていて、その手前に立派なさいだんがある。金銀や玉を存分に使った祭壇は、昼間だというのにろうそくがともっていた。

「先に婚姻の儀式だ」

 皇帝は、ろうそくの火を線香に移す。線香の先からふわりと白いけむりただよい、てんじようをめがけて消えていった。

「──天にっては、願はくはよくの鳥と作らん。地に在っては、願はくはれんの枝とらん。生々死々に決して離れまいとちかう」

 比翼連理の誓いと呼ばれる、夫婦で在ることを宣言する言葉を、皇帝はくちにした。

「ほら、あんたも言うんだよ」

「はいっ!」

 皇帝から命令され、莉杏は背筋を伸ばす。

「ええっと、天に在っては、願はくは比翼の鳥と作らん。地に在っては、願はくは連理の枝と為らん。生々死々に決して離れまいと誓う……」

 比翼連理の誓いは、恋物語の中に出てきた。いつかは自分も言う日がくるのだと、教えられる前に覚えた言葉だ。

「これでおれたちは夫婦だ。死んでも離れられない」

「……夫婦」

 赤奏国の守護神獣『朱雀』は、ほうおうとも言われることから、赤奏国での婚姻は、他の国と比べてとても重い意味をもつ。婚姻は心や身体のみならずたましいも結びつけるので、『こんいん』とも書かれるのだ。

 皇帝と莉杏は、朱雀神獣廟で比翼連理の誓いを立てて夫婦になった。その誓いは、死んで魂だけになっても続く。

「なら次は朱雀神獣への報告だ。──泉永、入ってこい。それと『あれ』をここに運べ」

 皇帝が扉の向こうに声をかければ、重たい音を立てて扉が開いた。

 まず二人の年若い青年、次いでとても若い女性が中に入ってきた。

 次に、武官たちが大きな箱をもってきて、祭壇の上に置く。箱のよこはばは、莉杏がうでを広げたよりも大きい。厚みは、莉杏の頭から腰までの長さよりもありそうだ。

(まるでひつぎのような……ううん、これは棺?)

 一体誰の棺なのか。

 莉杏は胸の辺りがざわざわしてしまう。横にいる皇帝をつい見上げたが、皇帝は厳しい視線を棺に向けていて、莉杏を見ることはなかった。

 武官たちが出て行ったあと、わるようにして泉永が廟の中へ入ってきて、拱手をしたままおを二度し、それからひざまずいてゆかに頭をつける。

 彼は手にもった書簡を広げ、読み始めた。

(えっと、なにを言って……。あれ? 婚姻の祝いの言葉、というよりも……)

 莉杏は泉永の言葉を必死に聞き取った結果、驚いてしまう。

 泉永は、皇太子に対して皇帝となることを願い、皇太子妃に対して皇后となることを求めていたのだ。

(今のは、婚姻のしきに必要な言葉なの!?)

 泉永のくちから、難しい言葉ばかりが出てくる。ただ聞くだけでは、意味を理解できない。

 莉杏があれこれ考えていると、皇帝が莉杏にしか聞き取れない声でつぶやいた。

「あんたさ、ほうかと思ったが、そうでもないんだな。従っているふりをしながら、周りを観察して、『おかしい』に気づく。まともなところが、蕗登朗によく似ているよ」

 莉杏が顔を上げると、皇帝が儀式に集中しろと言わんばかりにくちびるに人差し指を当てた。

「先の皇帝陛下の御意志をぐ皇太子殿でんは、朱雀神獣のほうけんいだき、最後の命令をべられた。なんじはその教えを嗣いで天地にくんりんし、大法に従って国土を治め、朱雀神獣の大いなる教えに答えたてまつれ」

 泉永の問いに、皇帝は答える。

たるほこまつしようははたして四方を治めててんうやまふるうことができましょうか」

 皇帝は、泉永からはいを受け取り、その杯で酒を受け取り、三度くちをつける。

 その姿を見届けた泉永は、ゆっくりと宣言した。

「先君のれいとむらへよ」

 泉永はぎよくじゆを手に取り、東に向き直って跪き、皇帝にささげる。

(……これは、皇帝即位の儀式!?)

 莉杏は、泉永と皇帝のやりとりを知っている。皇太子が皇帝になるときに、皇太子と宰相が儀式で述べるはずの言葉だ。なぜ今、この二人が即位の儀式をしているのだろうか。

 もしかして自分は、取り返しのつかないことをしているのではないか。

 莉杏が不安を訴えるように皇帝の顔をじっと見つめると、それに気づいた皇帝は笑った。

「──あなたは……誰?」

 思わずこぼれた莉杏の疑問に、皇帝は答えてくれる。

「そうだよ、『誰?』で正解だ。でも儀式は終わってしまった。おれは皇帝になり、あんたは皇后になった」

 さっきのを見ていただろう? と、皇帝は莉杏に手を伸ばした。

「あんたにできることは二つ、受け入れるか、げるか、そのどちらかだ。でもあんたは逃げられない。おれがこうしてつかんで離さないから。怖い人たちに囲まれているから」

 皇帝の手が莉杏の手首を握る。莉杏はその力の強さに顔をしかめた。

がいしやなんだよ、あんたは。このことをしっかり頭の中に刻んでおけ。あんたは一度だっておれと夫婦になることを自分から望まなかった、そうだろう?」

 莉杏は頷けなかった。それは皇帝が恐ろしくて固まったからではない。頭の中が混乱していたからだ。

(わたくしは……この人に騙された……?)

 きっとこの人は、皇帝ではなかった。でもたった今、皇帝になった。

(……わたくしは騙され、『自分から』この人に後宮入りを願い出た。なのに、この人はなぜか『無理やりさせられて』にしようとしている。どうして……?)

 この人がなにを考えているのか、莉杏にはわからない。表情と、言葉と、内容が、すべていつしないのだ。

「正式な手続きを経て、おれは皇帝になった。これでもう誰にももんは言わせない」

 皇帝は、逃げるのは許さないと言わんばかりに、莉杏を掴む手に力をこめてくる。

「全員、一度下がれ」

「はっ」

 莉杏が動けないでいると、泉永たちが廟から出て行き、再び扉が閉められた。

 皇帝は、棺が置かれている祭壇に向き合う。

「今から朱雀神獣にはいれいし、加護をさずけてもらう。真実の愛ってやつがあれば、皇帝に加護が与えられるらしいよ。これがおれたちの初仕事だ」

 同じようにやれ、と莉杏は皇帝に手首を引かれ、床に膝をついてしまう。ためらっていると、皇帝は低い声で言い聞かせてきた。

「おれはあんたに優しくしない。すべて『無理やり』やらせたし、これからもやらせるんだ」

 皇帝は右手で左手を包み、頭を床につけるという最高礼を朱雀神獣の像へ捧げた。それから加護を願い出る言葉を述べ始める。

 しかし、皇帝がすべてを言い終える前に、莉杏はげるようなれにおそわれた。同時に、視界が真っ赤に染まる。

「きゃっ!」

「っなんだ!? 地震か!?」

 莉杏はしんどうえるため、両手を床について身体を支えた。なにが起こったのかとあわてて周囲をわたすと、いつの間にか部屋の中が赤く染まっている。

 状況を理解できないでいると、皇帝が舌打ちして立ち上がり、閉ざされている扉にけよった。

「開かない!?」

 先ほどまで手でせば開いていた扉が、とつぜん開かなくなった。皇帝はもう一度力いっぱい押すが、びくともしない。

「おい、泉永! そっちから開けろ! 部屋の中に火が!!」

 皇帝が乱暴に扉をたたき、扉の向こうにいるはずの泉永に状況を伝えるが、ろうからの反応はいつさいない。これはおかしいと、莉杏も顔色を変えた。

「まさか、おれの声が向こうに届いていないのか……!?」

 莉杏は廟の中をもう一度確認する。そしてやっと自分の置かれている状況を把握した。

 部屋が赤く染まっているように見えるのは、部屋が急に暑くなっているのは、部屋のあちこちでほのおが上がり、その炎が天井まで届いているからだ。

「うそ、どうして……!?」

 風がない、めきられた朱雀神獣廟で、どうやって火事が発生するのか。線香もろうそくも倒れてはいないのに。

 莉杏が炎に圧倒されている間にも、皇帝はあちこちを見回り、そのたびに「くそ!」とあせるような声を発する。

(暑い……喉がおかしい……!)

 熱気が増したことで莉杏は息苦しくなり、床にすわりこんだままきこんでしまった。すると、深紅の袍が莉杏の頭にかぶせられる。

「それでくちもとを押さえてろ! 熱気をいこみすぎるなよ!」

 莉杏は小さな手で深紅の袍を必死に掴みながら、泣きそうな顔でおろおろとすることしかできなかった。

「……おい、もしかして、朱雀神獣の炎、なのか?」

 皇帝と莉杏の二人を襲うかのように現れた炎と、開かなくなった扉。

 人間ではない、他のなにかの力が働いているとしか思えない。だったら、『なにか』はこの廟のぬしだと考えるべきだ。

「おれにはてんばつを受ける心当たりがありすぎるんだよねぇ……。くそ、ここまでか!」

 皇帝は、廟の奥にある朱雀神獣の像をにらみつけたあと、莉杏の肩を抱いてさけんだ。

「おい! 朱雀神獣! おれはあんたに焼き殺されてもしかたのないことをした! でもこの子どもは違う! おれに無理やり連れてこられただけだ! 助けてやってくれ!」

 思わず莉杏が顔を上げれば、皇帝の真剣な横顔が見えた。皇帝の深緑色の瞳の奥にある炎が、この部屋を囲む炎よりも燃えさかっている。

 ──熱くて、怖くて、とても優しい色の炎だ。

「あんたはあいの鳥だ! 巻きこまれた気の毒な子どもを助けるぐらいはできるだろう!? おれはどんな死に方をしてもいい! このまま炎でじわじわなぶり殺されようが、死ぬぎわまで苦しもうが、ごうとくだ! でもこいつは違うんだよ!」

 熱い手が莉杏の頭を撫でた。ちがいなほどの優しい手つきに、おどろいてしまう。

「さっきの誓いはさせてもらう! こいつとおれは、夫婦でもなんでもない! ただの赤の他人だ! こいつはおれと命運を共にする必要はない!」

 そして、優しい手が莉杏をばす。

 床に座りこむことになった莉杏は、皇帝の深紅の袍をにぎりしめたまま、動けなかった。

「どうして……?」

 莉杏は呆然と皇帝を見つめる。

 この人は、莉杏が後宮入りを願い出るはずだった皇帝ではなかったのだろう。どこの誰なのか、よくわからない青年だ。

 でも、顔を合わせてから今に至るまでに知ったこともある。

 なぜだかわからないけれど、この人は加害者であろうとする。莉杏を被害者にしようとする。

 きっと優しい人だからだと、そのことだけは莉杏にも伝わった。

(わたくしには、わからないことばかり。でもこのまま、この人をせいにして、わたくし一人だけ助かってもいいの? この人を独りで死なせてしまってもいいの? ううん、そんなことはできない!)

 ──優しくされたら、優しさで返す。

 当たり前のことをするときに、理由なんていらないはずだ。

 莉杏は立ち上がり、皇帝のこしの辺りにしがみついた。

「わたくしだけで助かるのは駄目です! 夫婦の誓いは破棄しません! わたくしはこの方と夫婦のままでいます! 助かるときはいつしよです! 助からないときも一緒です!!」

 莉杏が叫べば、皇帝が「はぁ!?」と声を上げる。

 その顔がひどく幼く見えて、絶対に二十八歳ではないと莉杏は確信した。

「あんたさぁ、なにを言ってるわけ!?」

「わたくしたちは夫婦だと言っているのです!」

 当たり前のことを言わせないで、と莉杏は皇帝と眼を合わせる。そのまま勢いに任せ、きたかったことを叫んだ。

「今更ですけれど、貴方、本当に誰ですか!?」

「ここでもう一度訊くわけぇ!? おれはあかつきって名前だよ!」

「知らない人です!」

「だろうな!」

 今度は皇帝が当たり前のことを言うな、と表情でうつたえてくる。

「でもわたくしたちは夫婦ですから、たがいの名前ぐらいは知っておくべきだと思うのです! わたくしは蕗莉杏です!」

「知ってる! でもおれたちは夫婦じゃない! あんたの同意はなかった! 無理やり言わせた誓いは無効だ!」

「いいえ、わたくしたちはもう夫婦です! 夫婦は共にあるべきです! 貴方を一人で死なせるわけにはいきません! 朱雀神獣さま、どうかわたくしの夫をお助けください! 夫を助けるのは妻の役目です! わたくしは謁見の間で、この方に自分から妻になりたいと願いました!」

「違う! おい、朱雀神獣! こいつはおれにさらわれたんだよ!」

 莉杏と暁月は、いるかどうかわからない朱雀神獣へ、互いに『自分の意見が正しい!』と主張し合う。

「あ~、やだやだ! 子どもはこれだからいやだ! あんた自分が阿呆なことを言っているって自覚あるわけぇ!? 頭、大丈夫!? こういうときはねぇ、おとなしくかばわれておくんだよ!!」

っ対に嫌です!!」

 二人で意地の張り合いを続けていると、どこからか嫌なにおいがした。莉杏がにおいの出所を探せば、すぐに判明する。莉杏のかみの先が焦げているのだ。

 莉杏が炎に怯めば、突然視界がかげった。大きな瞳をさらに大きくしていると、眼の前に深緑色が広がっている。暁月の瞳の色だと、少しおくれて気づいた。

 暁月の熱い手のひらが耳のうしろにれている。上を向くようにと力をこめられた。

「眼を閉じろ」

 暁月の声には、従わなければならない強さがある。

 莉杏がなにも考えずにうっかりまぶたを閉じると、暁月のいきを間近で感じた直後に、くちをふさがれた。

(こ、れって、……まさ、か)

 ──うそ、でも、もう夫婦だし、当然のことかもしれない。あ、だから眼を閉じろって言われたんだわ。……あっ、このあと、どうしたらいいの!?

 莉杏の頭の中は、暁月とのくちづけのことでいっぱいになってしまったのだが、なんとか祖母の教えである『陛下のしがあれば、すべてを陛下にお任せしなさい』がかんでくれた。

(お祖母さま、この方は『陛下』でいいの? あっ、もう陛下になったのよね?)

 莉杏は、このまま暁月に身を任せるかどうかをしっかり考えなければならないのに、ちっともくいかない。それどころか、もういいかとすべてを暁月に託したくなる。それくらいこのくちづけは、莉杏にとってげきが強すぎた。

 莉杏がもう駄目かもと色々な限界を感じたとき、不意に意識が遠くなる。

 あれ、と言う間もなく、莉杏の身体から力が抜けていった。




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