町のハナシ
都下月香
喪服のひと
「あなたは、幸せですか?」
と、僕は尋ねた。
「うぅん、そうねえ……」
そのひとは柔らかそうな唇に人差し指を当てて、少し考える。
「その問いに、私はこう答えましょう」
人懐っこく
「――私はね、『幸せよ』と答えられるほど、幸せではないわ」
***
早朝、朝市が開かれる町の大通り。
その日何気なく憂鬱だった僕は、眠気覚ましと気分転換のために朝市に来ていた。
――朝の通りは喧騒に満ちている。通りの両側いっぱいに店が立ち、ある店の棚は赤や緑や銀の色鮮やかな野菜を並べて、ある店は焼き立てのパンの香りを漂わせ、またある店はまだぴちぴち跳ねる揚げたての魚を売っている。
どの店からも店員の威勢のいい売り口上が響き、その声は混ざり合って、僕にはどの声がどの店のことを云っているのか判らないくらいだ。
そして、当然喧騒は売り手だけではない。
店に並ぶ商品の棚の前にはそれらの買い手――主に台所を担う人達。奥さんや、お仕着せを着た使用人、商売人風の人――が立ち、商品を見ている。
ある人は既に決まった今日の献立に必要なものを手に入れるために店員と値段交渉をしていたり、ある人はここで仕入れたもので今日の献立を決めようと真剣な目で商品を見つめていたり、またある人は立ち止まらずに目線を店々に向けながらその黒い喪服のような服のスカートの裾を揺らして
「うん?」
と、僕が違和感に首をかしげたのも仕方がないといえよう。
ここは朝市が開かれている通りだ。来る人の殆どはその格好も人前に出れる程度の最低限整った簡素な格好ばかりである。
ひやかしじみた僕だって、知り合いに見られなければ自尊心は傷つかない程度の格好なのである。
勿論、なかには使用人風のきっちりした格好や商売人風の格好の人もいるが、それでも場に合わないというものではない。
そんな中に、真黒な喪服姿。
しかも、妙に愉しげで、擬音で表現するなら「ウキウキ」なのだ。
陰気な喪服と、陽気な振舞い。
僕はそんなアンバランスさに興味を惹かれた。
興味を惹かれたからといって、そのひとの後を追ったりするのは、よくない。
平生の僕であれば、「朝から変わったものを見たなあ」と、そのまま帰路へ着くだろう。
だが、この日の僕はいつもと心持ちが違った。理由もなく朝から憂鬱で、何でもいいからこの憂鬱を慰める出来事を求めていた。
つまりは、その喪服のひとの後ろ姿を追った。
――ひとつ断っておくと、犯罪じみたストーキングをしたつもりはない。
「あの喪服のひとは、この朝市に何を求めて来たのだろう?」
と、そんな好奇心で、どんな出店に行くのかと、離れた場所から、眺めていただけである。
通りから離れるようならそれまで、人混みに喪服のひとを見失ってもそれまで。格好だけに探すのは難しくないだろうが、そこまでするつもりはない。
だが、僕はそのひとを見失わなかった。
それは、そのひとの格好が周囲から浮いていたこともあるが、そのひとの歩みが店々の商品に目を奪われて遅々としたものであったからである。
だからこそ、そのひとが立ち入った、立ち並ぶ店の影に隠されるように伸びる狭い路地を見逃さずに済んだのだ。
「こんな路地、あったんだ」
と、路地に入った僕は呟いた。
路地は狭い。僕は細身な方だが、それでも人とすれ違うことはできないだろう。
路地は思ったよりも奥に続いていて、先を見ると、
このあたりは建物が密集しているから、家々の狭間が繋がりあって一種迷路のようになっているのだろう。
僕が佇立するのは路地の入り口だ。
ここならば通りの、朝市の喧騒がまだ聞こえる。しかし、それも壁に遮られたくぐもったもので、この先へ進めばそれすらも聞こえなくなるだろう。つまり、それはこちらの声も通りには届かないということを意味している。
いくらこの町の人間といえども、この路地の迷路に至っては土地勘は役には立たないと思われた。要するに、迷子が嫌で進むのを躊躇った。
(引き返そうか)
もう朝市の通りではないし、先へ進んであのひとを見つけられるかも分からない。
そもそも見つけたところで、僕は、どうなるというのだろう?
「――ああ、でもっ」
それでも僕は、逡巡の後、路地の先へと歩を進めた。
結局のところ、憂鬱と退屈を慰める何かがその先にあるという期待が勝ったのだ。
喪服のひと、先のわからない迷路――そういった「冒険」に対する好奇心を抑えることは、出来なかった。
冒険、などと格好をつけたが、迷路のゴールは想像よりずっと早く見つかった。
路地を進み角を一つ曲がればそこは小さな噴水が一つあるだけの広場があった。
民家らしい石造りの建物に囲まれた静かな広場には噴水の流れる水の音だけが響いている。
噴水脇に置かれた木桶を見るに、この辺りの住人が使う共同の水場なのだろう。
そして、広場の噴水の縁には、腰掛ける喪服のひとがいて、僕の方をじつと見つめていた。
そのひとは僕の方へと柔和な表情を向けて、口を開いた。
「おはよう、私に何か御用?」
僕はその問いかけに咄嗟に答えることができない。
「……あ、いや、おはようございます。……良い朝ですね」
と、その場凌ぎのことばが出るだけだ。
そんな僕の様子を見、彼女は愉快そうに口に手をあてて笑った。
「ふふっ! ――ああ、ごめんなさい。あんまりに狼狽えるものだから。ええ、良い朝ね、素敵な場所も見つけられたし」
そのひとは愉しげにあたりを見渡した。
その「素敵な場所」ということばの意味は、僕にもなんとなく分かる気がした。
周りの四角く切り取られた小さな空を見上げながら僕は答えた。
「そうですね。静かで、小ぢんまりとしていて、良い場所だと思います」
と、そんな僕の感想に、喪服のひとは嬉しそうに頷く。
「そうなの。朝市の賑やかさは悪くないけれど、人の多さには疲れちゃう」
そのことばを聞いて、僕は冷水を浴びせられたように頭が冷めていくのを感じた。
このひとは、静かな時間を過ごしたくて歩いていただけなのだ。喪服を着ているということは、もしかしたら不幸を経験して、心を落ち着かせようとしていたのかもしれない。それなのに。せっかく静かな時間を過ごせる「素敵な場所」を見つけたというのに、僕はそれを邪魔してしまった。いや、今もしている。
先程の口ぶりからすると、おそらく僕が後ろをつけていたことにも気がついていたのだろう。――それに感じる不安や恐怖は、如何許りか。
(僕は何をしている? 退屈凌ぎにだって、限度があるだろ……)
僕は僕自身に呆れ返り、湧き上がる後悔と罪悪感で頭を下げる。――この行為自体、許されたいという自分勝手極まりないものでしかないとしても。
「つけたりして、すいませんでした! 悪意はなかったんです。ただ、朝市で喪服を着たあなたの後ろ姿を見つけて、その、好奇心に負けて、……いえ、よくないことでした。どうかしていました」
何を云われても、このまま警邏に突き出されても仕方ない。
冷静になった頭でそんなことを考えていたが、返ってきた反応は思ったよりあっさりとしたものだった。
「いいよ、許してあげます。でも、もうやっちゃだめよ」
僕が狼狽えた。
「は。え、でも、そんなあっさり。どうして?」
藪を突くような問いかけだと思いつつ、聞いてしまう。
「うぅん、素直に謝ったから? 悪いひとじゃないみたいだし。あとは……私、いまけっこう気分が良いの。それが理由じゃだめ?」
と、喪服のひとは噴水の縁に腰掛け、両足を揺らしながらいった。
「いえ、だめなんて。――ありがとうございます。その、もうやりません、絶対」
僕は気の利いた返しを思いつかず、何度も頷きながらそういう。
そんな僕を見て、くすりと
「でも、この服が喪服に見えちゃったのは、ちょっとショック。私、そんなに陰気な感じするかしら……」
と、
そうして、幾らかの時間が過ぎた。
気がつけば、最初の緊張感は何処かへいってしまい、僕も噴水の縁に腰掛けている。
奇妙な時間だった。
出逢いは少し不穏で、過ごした時間も長くはない。交わした会話といえば朝市で見かけた美味しそうな食べ物のことだったり、今日の空の色の美しさだったり、そんな他愛のないものだけだ。お互いの名前すら知らないはずなのに、その他愛のない話をする時間は心落ち着くような良い時間だったと思う。
ひとしきり話を終えた後、小さな広場の噴水の縁に二人とも黙ってしばらく腰掛け、四角く切り取られた、朝の美しい空を見ていた。
その静寂すらも、厭な時間ではなかったように思う。――おそらく、どちらにとっても。
そして、その時間も、もう終わる。
「んー……さてっ! 私、そろそろ行くわね」
と、となりから伸びをする気配と、快活な声が聞こえてきた。
「そうですか。じゃあ、僕もそろそろ帰ろうかな」
僕は返事をしつつ噴水の縁から腰を上げた。
「ええ、ここまで暇つぶしに付き合ってもらっちゃった。――ありがとう!」
その『ありがとう』には、僕が思うより多くの意味が込められているような気がした。
「こちらこそ、――ありがとうございました」
そして僕も晴れやかな心持ちで、『ありがとう』といった。
「うんっ。じゃあ、また町の何処かで!」
喪服のひとは、やっぱりどこか愉しげな様子で、ウキウキとした足取りで、路地の方へと歩いてゆく。
僕はその後ろ姿に返事をする。
「ええ、また、何処かで――」
朝の奇妙な出逢いはこうして終わる。
いつの間にか、僕の中にあった憂鬱や退屈な気持ちは消え去っていた。
どうやら、この小さな噴水広場で過ごした短い時間は、僕の何気ない憂鬱と退屈を忘れさせるには十分過ぎる時間だったらしい。
***
「――いや、ちょっと待って!」
と、僕は行こうとする背に呼び掛けた。格好がつかないにもほどがある。
蛇足だ、このまま見送っても何も問題はない。
だけど、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまった。
「ん、なあに?」
と、呼び止められた喪服のひとは顔だけを少しこちらに向けて返事をする。
まさか、『淋しかったから呼び止めてしまった』なんて云えるわけもない。
だから僕はふと思いついたことを。
いや、ずっと聞きたかったことを口にした。
「あなたは、幸せですか?」
と、僕は尋ねた。
「うぅん、そうねえ……」
そのひとは柔らかそうな唇に人差し指を当てて、少し考える。
「その問いに、私はこう答えましょう」
人懐っこく微笑う、その喪服のひとは唇から指を離しながら、こう云った。
「――私はね、『幸せよ』と答えられるほど、幸せではないわ」
その答えに僕は俯くことしか出来なかった。
だが、そのひとは続けていった。
「でもね、私は不幸なわけでもないのよ。だって――」
そうして紡がれたことばは、何処かで僕も感じていたものだった。
だって――
『今日はとても、良い日になりそうだって思えたのだから!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます