押豆の魔法使い

@nekonohige_37

魔法使われはじめました 上

 現実とフィクションは大きく違う。

 現実は、冴えない学生が超能力に目覚める事も無ければ、運命的な出会いが待ち受けている事も、難解な事件に巻き込まれる事も、ましてや都合よくハッピーエンドになることだってあり得ない。

 これと言って大きな出来事が無い半面、都合悪く最悪の事態に巻き込まれる事など無く、病院食の様に薄味で仕上げられた日常の中、気にくわない要素は妥協で無理矢理押し流し毎日を事務処理の様に消費していくものだ。

 病人が薬を飲む様に、妥協を乱用する事で現実を飲み込み。

 散らかった部屋を掃除する様に、夢を棚に上げる事で事実を受け入れるスペースを作る。

 妄想という病を治すには沢山の薬が必要で、現実を受け入れる前に家の中のガラクタを捨てる必要があるのは今更確認するまでも無い事実だ。

 だからこそ、現実は無味乾燥としている。

 味付けの濃いジャンクフードの様な夢だけでは人は生きてはいけない、いいや、生きてはいけるがそれ故に大きなしっぺ返しを食らう羽目になるのが目に見えてる、だからこそ大抵の人は当たり障りの無い院内食の様な食事を取って生活しているのだと……そう彼は考えていた。

 「……んっ」

 勿論、基本薄味な日常だったとしても、その日常を楽しむ事は可能だ。

 目の前のスープの具材に意識を注ぎ僅かな違いに舌鼓を打つ様に、灰色の日常そのものを楽しむ手段。

 目の前のスープに塩胡椒を振る様に、何かしらの趣味を持ち灰色の日常を華のあるものへと書きかえる手段。

 そして、目の前のスープを適当に処理し、手近な所に転がっていたチューインガムを口に含む様、現実ではなく夢や想像と呼ばれる物で生み出された作り話を楽しむ手段。

 今現在、埃が浮いたフローリングにうつぶせになって倒れている一人の男、音無 拓斗(おとなし たくと)が普段から行っている手段がまさにそれだと言えるだろう。

 中肉中背、特徴を上げろと彼の友人に問いかけるなら、『特徴が無い事が特徴だ』もしくは苦しみ紛れの『どちらかと言えば優男』などと答えが返ってきそうな彼は、細切れになっていた意識を組み直し、ゆっくりとフローリングから顔を上げる。

 「……」

 自分が奇怪な状況で目を覚ましたのにも関わらず、彼の顔には驚きは含まれていない。

 寧ろ、その表情には落胆や呆れの色が濃く見えるのは、現状に至る軌跡を全て理解しているからか、それともこの状況はもう慣れた事だからか。

 彼は一切の感慨を見せる事も無く、静かに上体を起こした。

 一人暮らしで使用している家の中、彼は膝立ちの姿勢のまま自分が倒れていた廊下を見回して溜息を一つ吐く。

 先ず目に付いたのは床に散乱した空き缶だ。

 廊下一杯に散らばったそれらをたどっていくと、同じ空き缶が大量に詰まったビニール袋へと視線が行きつく。

 そのすぐ横には彼が普段使っている携帯電話、そして部屋の鍵が転がっており、この場で眠りの園に落ちる直前、彼がどの様な状況だったのかを嫌と言うほど伝えてくれる。

 「……」

 現実は無味乾燥としている、だからこれと言ったメリットも無い、何か別の代用品にすがり気を紛らわせるものだ。

 彼は落ちていた鍵を胸ポケットに、そして携帯電話を膝のポケットに仕舞おうとして、その画面を覗き込んで絶句をする。

 今現在その液晶に表示されている時間よりももっと前、彼は仕事の打ち合わせをするつもりでいたのだ。

 だが、ちょっとした手違いのせいで、彼はこんなところで寝過ごしてしまったのだ。

 「!! ったく!」

 幸い、彼は外出をする為の身支度を済ませた状態だった、手を伸ばせば届く範囲に必要な資料も用意されており、身に纏った服も室内用のそれでは無く、彼はそのまま飛び起き、荷物を掴むと玄関へと向かうのだった。






 音無の仕事は俗に言う物書きである。

 月刊誌のおまけとして記載されているちょっとした小説と、中高生向けのファンタジー小説の連載が主な仕事であり、時折副業としてWEB関連の記事を書くライターとしての一面もある。

 文章を書くと言う一点特化型のスキルを十二分に生かし、更には仕事に出来ている事は傍から見たら凄いことではあるのだが、彼自身はその事を自慢する事は決してない。

 それは単に『驕らない』や『謙虚』と言う物ではなく、単に彼自身がその特技を凄い事とは考えず、寧ろ、自分はその程度しか能の無い出来そこないだと考えているからだった。

 それどころか彼は、『その程度』の仕事もこなせていない事に苛立ちを覚えているのも事実である。

 「あのさ、こっちだって色々と忙しいんだよね、それ位君だって判ってるよね?」

 「すみません」

 「大体、遅れるなら遅れるで連絡の一つ位入れるのが筋だろ?」

 「……すみません」

 「すみませんすみませんって言ってりゃ何でも許されると思ってるのか?」

 出版社のオフィス、規則正しく並べられた机に向かいそれぞれが仕事をてきぱきとこなす中、音無はひたすら謝罪の言葉を反芻していた。

 音無自信、謝るしか方法が無いのは知っている。

 だが、一人床を見つめて頭を下げる音無に対する担当者の言葉は休む間も無い。

 それもその筈である、今日は音無が連載する事になった新しい長編物の打ち合わせの予定であり、この日に綿密な打ち合わせを行う事は前々から判っていた事。

 その筈なのに、彼は打ち合わせに大幅に遅刻したのだ。

 しかも、その理由が『寝坊』となれば、腹を立てない人は居ない。

 「……すみません」

 音無自信わざとやったつもりは何処にも無い、事実として彼が寝坊をした時間はたったの数十分であり、急げばちょっとした遅刻程度で済む筈だった。

 だが、彼の住んでいる所は今居る出版社からそれなりに離れており、ましてや彼の家の傍にあるバス停は便の数が極端に少ない。

 ここで彼が車なりバイクなりを持っていたらまだ良かったのだが、残念な事に彼は諸事情あって車の免許すら持っていないのだ。

 だが、そもそも彼が寝坊しなければ、そんな悪化要因など無かった事に出来た筈なのだ。

 「ったく、良い身分だな物書きってのはよ」

 「……すみません……」

 全く関係の無い悪口だ。

 本来なら何かしら抗議しても許される内容に対しても律義に謝罪するが、そんな彼の言葉すら気に食わなかったのだろう。

 担当の男は小さく舌打ちをすると、打ち合わせをする為に用意していた部屋に向けて足を踏み出した。

 ここに来るまでに散々走ってきたため、喉は焼けた様にひりひりと痛み、睡眠不足から来る頭痛は一段と強い物になっていた。

 だが、そんな些細な痛みよりも、音無は胸の奥ずっと深い所がきりきりと痛むのを感じて手を当てる。

 そんな事をしたところで何か変化があるわけでもない、子供の頃みたいに、『痛いの痛いの飛んでいけ』と呪文を唱えたところで苦痛が減る訳では無い。

 魔法はおろか魔法使いなど存在しない現実は何時だって残酷だ。

 逃げ出したくてしょうがなくても逃げる場所なんて何処にも無く、状況を打破できるだけの力を持ってるかと自分に問いかければ、決まって首を横に振る。

 そんな状況を変えるだけの魔法があるのなら、彼は藁にもすがる思いでしがみつくだろう、だが、そんな事フィクションの世界だけの話なのだ。

 そしてそのフィクションを作る為には、やっぱり今感じている様な苦痛を全て舐め切るしかない。

 「まぁ愚痴ってもしょうが無いから話をするが、こんな事あまり続く様なら、うちの方では面倒見れなくなる。 その事位判ってるよな?」

 「……はい、なるべくこんな事しない様に気を――」

 「なるべくじゃなくて、ならないようにするのが仕事だろ!」

 口に出した途端しまったと感じた、だがそれを訂正するよりも早く担当者は少しだけ大きな声で一喝が響き、驚いた音無は背中をびくりと震わせる。

 音無は慌てて謝罪をしようと顔を上げるのだが――

 「! っすみま――」

 彼は舌と足をもつれさせ、その場で倒れてしまう。

 倒れまいと咄嗟に伸ばした手は直ぐ傍にあった机を掴むのだが、その行動が間違いだった。

 彼は伸ばした手で机の上の書類をぶちまけ、更にはその横に置かれていたコーヒーカップをひっくり返す。

 「きゃぁ!」

 白い書類が宙を舞い、熱いコーヒーが椅子に座って作業していた女性社員の足にかかり、短い悲鳴へと連鎖していた。

 幸い、コーヒーが冷めていたらしく火傷には至らなかった様だが、それでも相手のズボンは汚れ、大きな染みを生み、更には床に張られたカーペットと、その上に舞い降りた書類を茶色く染めていく。

 「ああもう! 何やってるんだ!」

 すぐ傍で担当者の声が響くが、音無は上手く起き上がる事すら出来ない。

 物事は基本、ドミノ倒しの様に連鎖する物であり、その連鎖の先にあるのは素敵な出来ごとだけでは無く、大半が不条理としか言いようがないものだ。

 何時からか、音無はそう考える様になっていた。






 夕暮れ時、音無は家に帰る為に乗ったバスの中、音無は揺れる椅子の上で携帯電話でニュースを読みふけっていた。

 物書きと言う仕事は職種としては少ない半面、多くの人から共感される記事を書かなくてはならず、今現在世界でどのような事が起きており今現在どの様な出来事が関心を集めているのか、それを知ることは仕事を行う上で必須事項だ。

 勿論、単純な暇潰しと言う意味も兼ねているその行為は、音無自信嫌いな事では無かった。

 寧ろ、何かと『待ち時間』が多い人生を歩んできた音無にとって、活字を読むと言う行為自体幼いころから親しんできた行為であり、そんな幼少時代のおかげで今の仕事につけていると言っても過言では無い。

 だが、その事を誰かに羨ましがられたとしても、本人は首を横に振り『この程度しか出来無かった』そう答えるだろう。

 物書きと言う仕事が嫌いな訳では無い、寧ろ何かしらの文章に触れていないと落ち着かない音無にとって今の仕事は天職である事は間違いないのだが、それは言い方を変えると、彼は文字を扱う位しか能の無い存在だと認めている意味でもある。

 「ん? 男を狙う強盗……」

 彼は適当にページをめくっていた記事の中から、一つ気になる記事を見つけて開く。

 解像度の高い液晶に表示された細かな活字、溢れそうなほど画面一杯に広がる文字列を読み、そのニュースの特異性に目を光らせた。

 「一人暮らしの男を狙った強盗事件……犯人は金品を奪い――」

 書いた原稿をチェックする時の癖で思わず電車の中でその文字列を読み上げてしまった音無は、慌てて周りを確認し、誰も自分に注目をしていないことに安堵すると、今度は口を閉じたまま読み始めた。

 事件の内容としては殊更珍しい物では無い。

 一人暮らしの家に男が侵入し、家の中の金品を奪った後に逃走、その際、たまたま家の中に家主が居た場合、持っていた刃物で脅してまで犯行を続行したと言う。

 勿論これだけの事なら、音無はこれと言って注目しなかっただろう。

 問題は、犯行が起きた場所が自分が今現在住まう町本柳町である事、そして、犯行に巻き込まれた人間の誰もが、一人暮らしの若い男だという事だ。

 理屈で考えるなら、力を武器に相手の持ち物を奪う場合相手は弱い方が何かと都合が良く、標的にされるのは老人か一人暮らしの女の家と言うのが相場になるのは当然の事だ。

 だが、犯人は何故か好き好んで若い男の家ばかりを狙っている。

 その事に疑問符を浮かべた音無だが、彼は液晶に書かれた文字列をスクロールし、その要因として上げられる予想に眼を止める。

 「女の人は確かにセキュリティを気にするか……」

 音無は何気なく携帯電話の液晶の隅に表示された、起動中のセキュリティソフトのアイコンを目で追ってから小さく呟く。

 自身が弱い存在であると自覚している人間は、案外強いものだ。

 野生の草食獣が身を隠す術を生まれつき会得し、動きの遅い亀が固い殻の中に閉じこもっているのと同じで。

 もしもの時に自力では対処できないと始めから自覚している人間は、トラブルに巻き込まれない様に身を隠す能力に長けており、おのずと住まう家もそれ相応の物件となる。

 新築で最新セキュリティを備えた家であったり、窓から強盗が侵入しにくい上層階の部屋を選んだりされた場合、家の中に居る存在がたとえか弱くとも、家に侵入する事自体が難しくなるのだ。

 更に言えば、相手の家が二世帯住宅である可能性の高い老人宅だと、その難易度は爆発的に高くなる。

 それと引き換え、男は何かと自己防衛の能力に劣っている面がある。

 肉食獣が昼間から目立つ場所で昼寝をし、足の速い獣が身を守る鎧を纏わないのと同じだ。

 強い自分が襲われる事は無い、たとえ襲われたとしても自分の足に追いつける相手は早々居ない。

 そう思い込んでいるからこそ、まともにセキュリティの施されていない環境でも平気で寝床として利用する。

 たとえ相手が肉食獣だろうと、自分は襲われないと思い昼寝をしている相手の傍に歩み寄り、こめかみに銃口を押し当てる位容易な事だ。

 恐らくこの事件の犯人はそんな事を考えたのだろう。

 「まぁ最近はもやしみたいな男も増えてるしね――」

 ぼそりと呟き、今まさに自分の事を皮肉ってしまったと悟った音無は、飲み込んだ息で大きな溜息を吐いてから液晶を仕舞いこむ。

 事実、音無の家だって強盗に狙われる可能性は十二分にあった。

 自他共に認める虚弱体質である音無なら、ナイフを使わなくとも簡単にねじ伏せる事が出来そうであり、その手の人間に限って財布の紐は固く、家の中にはたんまりと現金を溜めているという可能性だってざらにあるのだ。

 勿論そんな事を考えた所で何かが変わるわけでもない、そう思いつつ音無は車窓から見える景色を目でなぞり、下車の為にボタンを押した。

 窓から見える景色は時間がまだ早い事、そして今が平日である事もあり通行人の大半は私服姿の人では無くスーツ姿のサラリーマンが主で、道を走る車は家族連れのファミリーカーでは無く、大半は忙しなく道を行きかうトラックばかりだ。

 世界は自分とは関係なしに回っている、自分が何か功績を残したとしても今日の様に沢山のミスをしたとしても、その一連の出来事は世界にとって大した意味を持たず、断続的に押し寄せる日常に飲み込まれるだけの雑音でしか無いのかもしれない。

 そう思うと、一層自分が弱い存在な気がしてならなくなり、同時に胃がしくしくと痛むのを覚える。

 「『痛いの痛いの飛んで行け』……」

 吐き気にも似た痛みに顔をしかめながらも音無は自分に対して小さく皮肉を吐くと、程無くして停車したバスから降り、自分が住まうアパートへ向けて歩き始めた。

 「それとも『ちちんぷいぷい』って……言ったところで変わらないか、そもそも僕は魔法使いじゃないしね」

 幼い頃自分の姉が夢中になった魔法使いなど、この世界には何処を探しても出会うことは無い。

 存在しないからこそ人が好き勝手妄想を膨らませているのだ、そもそも、魔法使いが存在したところで、自分に対して魔法をかけてくれる事などありえないのだ。

 「……!」

 不意に、音無は自分の瞼が猛烈に重くなるのを覚え、息を飲む。

 その感覚は誰もが知る睡魔そのものだが、その強さが尋常では無かった。

 歩きながら覚えるだけでも異常な筈の睡魔は、ついさっきまで眠気を感じてすら居なかった音無の瞼の裏側から濁流の如く押し寄せ、必死に抵抗をする彼の意識をゴリゴリと削り落していく。

 「……っ!」

 家までの距離は後数十メートルであったが、彼は慌てて地面を駆けると、重い瞼がかろうじで開いている内に部屋の鍵を開け、そのまま玄関へと飛び込む。

 「……とりあ……え、ず大丈――」

 外出中に起きた出来事の為に多少焦りはしたが、この強力な睡魔とはもう長い付き合いである彼は、とりあえず人目に付かない自分の家の中に入れたと言う事に安堵し、靴を履いたまま膝から崩れる様に玄関に倒れた。

 足が不自由な訳でも、ましてや体調がすぐれない訳でも無い。

 単に眠たいだけ、たったそれだけのシンプルな理由で、さっきまで走りまわっていた音無は意識を半ば削られ、まともに受け身も取らずに玄関に倒れたのだ。

 これだけ強力な睡魔が襲う原因を音無は知っている。

 『ナルコレプシー』それが彼の持つ病の名称だ。

 夜十分な睡眠を取ってたとしても襲い掛かる強力な睡魔と、感情の起伏が引き金として発症する全身を襲う脱力性発作、そして眠りに落ちる瞬間に襲い掛かる幻覚、それが主な症状である。

 音無自身その病の対策は心得てはおり、その症状を抑える為の薬の処方だって受ける権利を持っていた。

 だが、最近の多忙なスケジュール故、彼はろくに病院に行くことが出来ず、睡魔を抑える為の薬を受け取れないでいたのだ。

 結果、昼間に襲い掛かる強力な眠気によって彼は今朝も玄関先で意識を失い、仕事の打ち合わせに遅刻をし、挙げ句の果てには感情の起伏により起きた発作で彼は職場で倒れ、関係の無い女性社員のズボンをコーヒーで汚した。

 そして、入眠時の幻覚として、彼はそれを見たのだと思っていた。

 半ば半開きになったままの瞼の先、そこに浮かぶ真っ黒い輪郭。

 傘を逆さまに立てた様な形、色も相まって中途半端に開かれた蝙蝠傘の様なシルエットは、見ようによっては昔話に登場する死神の様な、もしくは絵本に登場する魔女の様にも見える。

 「……たす……け――」

 まともに動かない舌で紡がれた言葉の意味が、今見えている幻覚に通じたかは判らない。

 だが、そんなシルエットを見て彼は、明確に助けを求めていたのは間違いが無かった。

 「――助……けて――」

 再度必死になって紡がれた本音、相手が死神だろうが魔法使いだろうが、幻覚だろうがただの見間違えだろうがどうでも良かった、兎に角、音無は自分を取り巻く理不尽な日常の中必死に助けを求めたのだ。

 そして今見えている影は、その声の意味を理解したのは、少しだけ動くと腕と思われる一端を伸ばし、音無はその手を掴む為に精いっぱいの力を込めて腕を上げる。

 だが伸ばされた腕がその影に触れるよりも早く、彼の意識は完全な闇の中へと落ちていった。






 寝る瞬間は軽い恐怖を覚えるほど強力な睡魔に襲われる癖に、眠っている時間が短いのもナルコレプシーの症状の一つと言えるだろう。

 一人暮らしにしては豪華な2DKのアパート中、音無は玄関マットにうつぶせになった姿勢のまま、ゆっくりと目を開けて自分が置かれている状況を思い出すと視線を上げる。

 あれからそれ程時間が経過していない。

 家の中は玄関先から差し込むオレンジの光に包まれては居たがまだ明るく、最近ろくに掃除をしていなかった玄関の中の景色を鮮明に映し出している。

 埃の浮いたフローリングの上には脱ぎ散らかされたままのスリッパが転び、備え付けの靴箱の上には消臭剤のボトルが置かれており、ちょっと視線を伸ばせば開けっ放しになっていた扉の先、音無が普段の作業に使っているパソコンも確認出来る。

 仕事の納期が迫っていた為にまともに掃除が出来ていなかったが、散らかっている点に目をつむれば、これと言って代わりの無いいつも通りの景色がそこに――と思った矢先、音無は予想外すぎる物が家の中にある事に気が付く。

 「……ん?」

 先ず目に付いたのは、大きな鍔とカラーコーンの様に尖ったてっぺんが特徴的な帽子だ、色は濃い紺色であり、麦わら帽子よりも広い鍔を備えたそれはまさしく、良くファンタジー物の絵本に登場する魔女の帽子と同じだった。

 そんな物が、正確にはそんな帽子を被った人物が何故か、ごく普通のアパートの中に存在しているのだ。

 「魔女帽子……?」

 廊下の中心、音無が手を伸ばせば届く程の距離にあったそれを見て、状況が理解できずに間が抜けた発言をこぼした音無に答える様、その帽子は小さく揺れ自身被っていた人物の姿を露わにする。

 先ず目に留まったのは、その人物が首から下げている小さな髑髏の形をしたペンダントと、大事そうに胸元で抱えられたねじ曲がった大きな杖だった。

 これもまた恐らく大多数の人間が『魔女』と言われて思い浮かべる姿だろう。

 一つイメージと違っている点としては、その人物が魔女と言って思い浮かべる老婆の姿では無く、見る人間によっては十代前半にも見えなくは無い、若い女だった事だ。

 カラーコンタクトでも入れてるのだろう、大きなどんぐり眼はアメジストの様に鮮やかな紫色に輝き、少年の様に短く整えられた黒髪の奥で興味深げにこちらを見ている。

 「……ってうか誰……?」

 何故、そして何時の前にこの家の中に入り込んだのかは別として、先ず判らない事として、音無はこの人物が何者なのかを知らない。

 だが、肝心のその相手はこれと言って驚く様子も無く、寧ろ呆れた様に抱えていた杖を左手で持ち直すと、大きな溜息を吐いて言葉を繋いだ。

 「フォス・クルスラット」

 端正な容姿に似合う、とても良く透き通った、それでいて聞き取りやすい声だった。

 「……は?」

 「名前、フォス・クルスラットだ」

 先の音無の一人言が聞こえたのだろう、服装とメリハリのはっきりしたその容姿から予想は付いていたが、やはり外国の人間なのだろう。

 聞き取りやすい発音ではあったが、その人物が唱えた名前は聞き慣れない物だ。

 「フォス・クリスラッド?……」

 「フォス・クルスラット、クルスラットだ!」

 「? ……クラス――」

 「フォスで良い!」

 名前を間違えたのが気にくわなかったのは、フォスと名乗るその人物は持っていた杖で音無の顔を指すと、少しだけ大きな声で抗議する。

 本人としては怒っているのだろう、だが小柄で童顔な容姿故、不機嫌な子猫の様に何処か愛らしさを感じさせてしまう、そんな様子に曖昧に納得し、直ぐに音無は問題点はそこでは無いと思い出し口を開いた。

 「そうじゃなくて! 名前はどうでもいいんだよ、君はいったい何者なんだ?」

 「フォス・クルスラ――」

 「それはもう聞いた!……って足!」

 そこまで良い、音無は相手が土足のまま家に上がり込んでいることに気が付き絶句、だが肝心の相手はその事に何の罪悪感も刺激されなかったのか、何故か泥まみれの自分の靴を見て首を傾げる。

 「足は付いてるが――」

 「そうじゃなくて土足でしょ!」

 訳が判らなすぎる状況に軽い頭痛を覚えつつも、音無は履いていた靴を脱ぎ廊下へと踏み出しつつ問いかける。

 「って言うか君は何者なんだよ、その名前以外もちゃんと教えてもらえるかな?」

 わざわざ事を荒立てるつもりはないが、彼女が今行っている行為は家宅侵入罪と言う立派な犯罪であるり、勝手に自分の根城に入られたら不機嫌になるのも当然の話だ。

 だが、そんな音無の心境とは裏腹に、フォスと名乗る女はこれと言って表情を変えずに持っていた杖を壁に立てかけると腕組みをしてはっきりとした口調で答えた。

 「私は魔法使いだ」

 「……はい?」

 反射的に漏れた疑問符の後、再度フォスの言った言葉を反芻してから新たな疑問符を吐き直す音無。

 「耳にタコを作って良く聞くと良い、私は魔法使いだ」

 だが、そんな冷め切った態度に一切めげる事無く、フォスは間違った言葉使いの後簡潔に的を得た自己紹介を再度行うのだった。

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