軌道エレベーターと井上さん 1

 午後七時の安居酒屋。

 金曜ということもあり、店内は賑わっている。僕は向かいに座る怪人を眺めた。

 ボサボサの髪に無精ヒゲ。流行とは無縁のめがねを掛けた男である。


「井上さん、僕は明日も仕事なんですけど」


 不満を込めて伝えた僕の明日の予定もどこ吹く風で彼はメニュー表を見ている。


「枝豆と唐揚げ、あとは焼き鳥の盛り合わせでも頼むか」


 今から食べるごちそうに期待して、その目は少年のように輝いている。

 でも、僕は残してきた仕事が頭から離れずに楽しむ気分にはなれない。そうでなくても、三十代も後半にさしかかった男が二人でチェーン居酒屋はないだろう。

 

 井上さんは呼び鈴を押すと、やってきた店員にビールを二つ頼んだ。

 有無を言わせない人だ。早々に切り上げて会社に戻ろうかと密かに思っていたのだけど、それも無しになった。


 運ばれて来たビールで乾杯する。泡がシュワシュワと喉を焼く。

 

「なあ朝部、俺さ……小説を書こうと思うんだよ」


 ビールを一口飲んだあと、しばらく沈黙してから井上さんはそう呟いた。


「はあ、書けばいいじゃないですか」


 僕はまたか、と思う。こんな会話をもう何十回も交わしているのだ。



 井上さんは僕と同じ中学の出身で、二学年分年上だった。つまり、地元の先輩である。

 だけど、学生時代の彼を僕は知らない。彼が一方的に僕のことを覚えているだけだ。

 井上さんの話を信じるのであれば、彼は地元の中学を卒業したあとにレベルの高い進学校に進んだらしい。高校時代に文芸にはまり、大学もその方面に。

 高校も教師のお目こぼしを貰ってどうにか卒業したような僕とは違う、高学歴人生だ。


 だけど、僕が井上さんと出会ったのは建設現場であって、僕の受け持つダム建設現場で彼は孫請け会社の現場作業員をしていた。

 

「朝部君だよね?」


 井上さんの嬉しそうな問いかけに、違うと答えていればとたまに思う。

 僕が向こうの事を知らないのだから、知り合いではない。ただの他人だ。

 だけど少なくとも向こうは僕のことをよく知っていた。

 僕の部活や一年生の時のクラスメイト。驚くべき事に、彼はその優秀な記憶力を持って数十年前のこともつい今しがた起こった事であるように詳細に思い出すことが出来るのだ。

 それから井上さんは、現場が休憩時間に入るたびに僕に話しかけてきた。

 作業員が休憩中であろうと、僕は僕でやるべき事もあるのだけど、お構いなしだ。

 それから強引に飲みに連れて行かれる事がたびたびあり、僕も断り切れずに付き合っている。



 小説を書く、という決意表明はもう何度目か数えるのも億劫になる。

 井上さんは運ばれて来た枝豆を口に放り込み、一杯目のジョッキを空にした。

 そしてすぐに二杯目を頼む。彼の優秀な頭脳にあって二日酔いと金欠については反省の形で刻まれることがないらしい。


「今度はSFだぜ」


 前回は恋愛で、その前はナンセンスだった。

 毎度趣向が異なるものの、実際に作品が出来上がったとは聞かない。であれば結局はなんでも一緒だ。

 筆が止まると、苦悩を祓うために享楽に身を浸さずには居れないのだと、井上さんは飲み歩き、ギャンブルに耽る。結果、その日暮らしの日常に圧迫されて、創作どころではないと言い放つ。

 小説でも酒でも賭け事でもなんでもいいのだけど、井上さんは小説を書こうと思い立つたびに僕を呼び出して宣言をする。その場の払いが割り勘なのは彼のせめてもの誠意なのかもしれない。


「それでさ、SFを書くに当たって独自の視点ってやつが欲しいんだ。朝部なりの、土木屋としての知見をイロイロ聞かせてくれよ」


 恋愛ものを書きたいと言ったときには僕の体験談なんか聞かなかったくせに。

 まあ、いい。話すだけなら只だ。

 それが創作の参考にはならないと思いつつ、僕は承諾した。



「やっぱりアクションものだよな。赤道に建設された軌道エレベーターをテロ集団が占拠して、格闘技の達人が乗り込んでいってバッタバッタとなぎ倒すんだ」


 タイトルには『沈黙』と付ければ一定の需要が見込めそうだ。


「それで、軌道エレベーターっていろんな人が建設可能って言っているし、作ろうと思えば出来るんだろ?」


 頭が痛くなる。

 頭痛を誤魔化す為に僕もビールを口に運んだ。

 

「まあ、無理でしょうね」


 僕は意地悪な気分になった。

 はっきり言えば、存在しない技術を俎上に載せて話をするのだから、如何様にも結論づけることが出来る。

 仮定の論法やまだ存在しない技術をよりどころにして可能だと結論できる人が居て、井上さんがそれにすがるのなら、僕はそれを否定してしまおうと決意を固めた。


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