百鬼夜行(Wild Hunt) 1
【特務輸送船<大隅>】
<宵月>が<U-219>と死闘を繰り広げる最中、輸送船団は針路を北西へ向けてひた走っていた。現在地はシチリア島から見て南西40海里ほどだ。
本来ならばもっと南寄り、アフリカ大陸沿海を輸送船団は進むはずだった。しかしながら、つい2時間ほど前に予定外の針路変更を行ったため、シチリア半島南部からイオニア海の外側を渡るコースになった。
急な針路変更の理由は、先行していた<宵月>だ。正体不明―このときはUボートと特定できていなかった―の敵と戦闘状態になったからだった。自殺志願者でもない限り、みすみす死地へ船団を誘う理由はない。
何事もなければ船団はギリシャのペロポネソス半島の南部を通り過ぎ、クレタ島まで進行することになるだろう。
<大隅>ノックもなしに
「冷房を動かしてもこれか……」
入室の開口一番だった。温い空気が嘉内を包み込んでいる。作業室には広域通信の傍受と解読のため、複雑怪奇な機器が所狭しと設置されていた。それらは大変な電気を喰う上に、熱を発するのだ。おまけに常時十名近い要員が出入りしている。淀んだ空気の溜まり場になっていた。
「これでもカリブ海よりはましなんですよ」
班長が苦笑いを浮かべながら、大型扇風機の前に嘉内を案内した。多少は涼しくなったが、温い風に横殴りにされて不快感がやや増した。
「空調設備の増強を申請しておくよ」
嘉内は真顔で約束した。作業室は気軽に開放出来ない場所だった。扱っている機密のレベルが段違いなのだから、やむを得なかった。この十数畳あまりの部屋に、ありあらゆる暗号通信の記録が詰め込まれている。
「有り難うございます。お手数をおかけします」
「構わんさ。熱で頭を沸かしてもらっては困るからな」
室内では要員たちが、せわしく紙の束を突き合わせ、鉛筆で何かを書き込んでいた。あるものは壁に貼られたメルカトル図にメモを張り付けている。
イタリア半島とバルカン半島に近づいたことで、現地の通信を傍受しやすくなったのだ。
「それで、どうかなさいましたか?」
頃合いを計り、班長が尋ねた。
「いや、なに、仕事の邪魔をしに来たわけじゃないんだ。ただ、<宵月>から何か通信が来ているかと思ってな」
駄目もとで尋ねてみたものの、案の定、室内の誰もが首をふった。
「そうか……わかった」
嘉内は表情を変えずうなずいた。
「ここで拾えていないのならば、恐らく発信自体されていませんね」
「そりゃそうだ」
作業室に来る前に、嘉内は<大隅>の通信室にも寄っていた。しかし、答えは同様だった。<大隅>には通信設備が通信室と作業室で別れており、それぞれ別のアンテナで送受信を行っている。被害分散と機密保持の両面から、あえて個別に用意されていた。ちなみに作業室のほうが解読能力に優れているが、送受信機能で両者の性能に違いはない。
恐らく潜航状態なのだろうと嘉内は思った。現状、海中から通信を行う技術はなかった。聞くところによればドイツはUボートからブイを放流し、そこから送受信を行う装備を開発しているらしいが。
「何か懸念が?」
「いや、<宵月>の心配だけではないんだよ」
何事にも絶対はないが、<宵月>の儀堂少佐ならば上手くやるだろうと思っていた。嘉内は六反田から<大隅>艦長の打診を受けた後、すぐに儀堂の経歴を調べていた。書類上の儀堂と本人に会ったうえで、戦闘能力においては申し分のない評価を行っている。それ以外の部分については、また別の意見を持っていたが……。
「イタリアとバルカン方面で怪しい動きはないか?」
「イタリア艦隊が動き出した兆候はありません。ドイツの航空艦隊も同様です。連中、我々に構う余裕はないみたいですよ」
班長は作業机から、いくつか綴じられた書類の束を取り出した。
「まずイタリアですが、アドリア海で大規模な対獣戦闘があったようです。ドイツはバルカン方面で魔獣とパルチザンを相手に、どうも手を焼いているようで……」
嘉内は壁の地図へ目を向けた。
「……アドリア海か。気になるな。あそこは、しばらく落ち着いていただろう? 確か封鎖海域にして、民間船舶の航行は禁止されていたはずだ。なぜ、今になって火が上がっている?」
「イタリア軍が仕掛けたわけではないようです。大規模な魔獣の侵攻を沿岸部に受けたようで、一時期平文を打ちまくっていましたよ。暗号化する時間すらなかったのでしょうな。かろうじて迎撃戦闘は間に合ったようですが、しばらくアドリア海から動けないでしょう」
「イタリア軍は、な」
嘉内は静かに呟いた。
「と言うと?」
「なあ、アドリア海にいた魔獣どもをイ軍が殲滅出来たと思うか?」
地図上のアドリア海を指で突いた。
「まだ、ここに魔獣どもが居座ってくれるといいんだがな」
アドリア海の南部にはイオニア海が広がっている。ちょうと嘉内たち通り過ぎようとしている海域だった。
◇
<大隅>の格納庫で、本郷中佐は愛車の手入れをしていた。と言ってもオーバーホールしているわけではない。彼が駆るⅧ号重戦車マウスは、とてもではないが並の整備士では触れない代物だった。ただでさえ凝り性のドイツ人、その中でも偏屈と呼ばれたポルシェ博士が開発した戦車だ。相応の心得と技術をもった人間でなければ、エンジンルームを開けることは出来なかった。
本郷にできることとと言えば、車内の清掃くらいだった。今、彼は雑巾にワックスをつけて自身が座る車長席と周辺を磨いていた。部下に任せればよいものだったが、長い航海生活の果てで暇つぶしの手管を使い果たしてしまい、ついに何もやることがなくなってしまったのだ。
「まあ、こんなものかな」
自身の顔が映りそうなほど、磨かれた車内を眺め、本郷は満足そうだった。戦闘になればあっという間に排気煙で汚れてしまうのだろうが、そんな無粋は考えもしなかった。
ひと仕事終え、次にやるべきことを思案し始めた時だった。彼を呼ぶ声がした。この場には似つかわしくない幼女の声だった。
「ホンゴー、ホンゴー」
「なんだい。どうかした?」
顔を曇らせたユナモに、本郷は柔和な顔で語り掛けた。
「くる」
「え? 何が?」
「とにかく、いっぱいくるの。戦わないと……」
船内に警報が鳴った。
◇========◇
毎週月曜と木曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
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