獣の海 (Mare bestiarum) 29
【魔導駆逐艦<宵月>】
<宵月>は泥の幕に隠れていた。
──あと、どれくらい持つだろうか
ネシスに共有された視界から儀堂は判断していた。彼の眼には<宵月>を取り巻く塵の煙幕が映っていた。
海底の泥が沈降し、幕が消えるまで十分かそこいらだろう。その間に、次の策を考えなければならなかった。少なくとも楽に浮上できる状況ではない。
敵の姿は見えなかったが、魚雷発射管はこちらを向いているだろう。安易に行動すれば、元の木阿弥だ。今度こそ捕捉されて、魚雷の直撃を食らう。
──利口な奴だ。確実に俺たちを仕留めたいはず。きっと視界が晴れるのを待つだろうさ。
未だに周囲は灰色の泥で閉ざされていて、敵を目視することは出来ない。逆説的には相手からも見えないということだ。
視界こそが全てであり、盲点だった。儀堂はネシスとともに相手を見て戦っていたが、それは相手も同じことだ。あの紅い魚雷は目視で操作され、<宵月>を追尾していたのだ。だからこそ、煙幕が有効に働ていている。
対潜戦闘で、目視を頼りにするとは何とも皮肉が効いている。おのれの莫迦さ加減も含めて、嘲りたくなってきた。敵に月鬼がいるのならば、自分と同じく相手も自分を見ているのだ。
「ネシス、聞こえているか」
『お主、ずいぶんと無茶をしてくれたのう』
いかにも不機嫌そうな返答だった。爆雷を四方にばら撒いた衝撃をネシスがBMで受けたからだった。魚雷の直撃よりはマシだが、愚痴の一つも言いたくなるだろう。
『耳がキンキンするのじゃ……!』
「許せよ。ここでくたばるわけにはいかないだろう?」
『それも道理じゃが、窮地に変わりはなかろう? はてさて、どうしたものやらのう……』
他人事のようにネシスは言った。頼もしいと思うべきか、あるいは諦観の境地と捉えるべきか。いずれにしろ、どうにかして切り抜けなければならない。
「ネシス、敵より早く位置を知りたい。今度は先制しなければやられるぞ」
『それは難儀じゃな。しかし、なかなかに叶わぬぞ』
「お前は敵の存在を感知できるのではないか? ほら、あの歌で……」
ネシスは海中に歌を響かせることで、周辺の生命活動を把握していた。儀堂に理屈はわからなかったが、ソナーのようなものだろう。
『あれはおぬしらのような人間相手には使える。しかし、今は駄目じゃな。誰か知らぬが、あやつめ結界をはりおったわ。妾の歌は通じぬぞ』
「その結界とやらは破れないのか?」
『無理じゃな。遠すぎるし、相手が誰かもわからぬでは──』
唐突にネシスが黙り込む。
「どうした? 心当たりがあるのか?」
『いいや、誰かは分からないが、正体を晒すことは出来る。だが、危ういぞ。敵に塩を送ることになるやもしれん』
「やれ」
一切の迷いなく儀堂は命じた。思わず拍子抜けしたのか、ネシスは「はあ」と言い返した。
『おぬし、何をやるのか、聞かぬのか』
「どのみち状況を打開できるのはお前しかいない。ならば、お前を信じるだけだろう。それで駄目ならば、信じた俺が莫迦野郎なだけだ」
ネシスは大笑した。
『よきかな、よきかな。ならば儀堂よ、おぬしの信に応えよう。さぁて、お耳を拝借。お聞き遊ばせ、我が獣の歌を』
隔壁の向こうから息を飲むが伝わってきた。
やがて、ネシスの歌が<宵月>から発振された。
【Uボート<U-219>】
クラウスは胸元から銀時計を取り出していた。
「あともう少しで装填が終わる。そちらの準備はできたかな?」
ゲストルームへ問いかける。
『……さなきゃ』
「……ん?」
『殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さないといけないの』
荒い息が電子音に変換されてきた。いつも明らかに様子が違う。
「……大丈夫か?」
『……歌が、歌が聞こえるの……あの子……声が!』
ゲストルームとの通信が途切れた。
「おい、どうした?」
<U-219>を微細な震動が包み込んだ。ソナー室のカーテンが開かれ、当直のブルーノが顔をのぞかせる。そのまま怪訝な顔をハインツへ向けてきた。
「艦長……」
ブルーノが何を言いたいのか、ハインツはわかった。彼の耳にも聞こえてきたのだ。
歌だ。
ささやくような歌声が艦内後方から浸透してきた。例の月鬼がいる区画が、その先にあった。歌声は囁き声から、さらに音量を増し、はっきりと聞き取れるようになった。
「クラウス大尉!」
振り返るとクラウスの姿はなかった。
「あの青二才はどこにいった? この馬鹿げたオペラを早く止めさせるんだ!」
Uボートでリサイタルを行うなど自殺行為だった。すぐにもソナーで探知され、爆雷の洗礼を受けることになるだろう。
声を荒げるハインツに対して、司令塔内の者たちは慄く。部下たちの狼狽えた表情を見て、すぐにハインツは我に返った。
「ゲストルームへ戻ったようです」
フラーが恐る恐ると答えると、ハインツは隔壁を拳で打ち据えかけた。しかし、すんでのところで冷静さを取り戻した。
「畜生め……」
ハインツもゲストルームへ向かおうとしたが、その前に自分の身を守らなければいけなかった。<U-219>のツリムが変化し、艦首方向に急傾斜がかかったからだ。突然のことで、危うく後ろに倒れこみそうになったところをようやく堪えた。不運な乗組員が数名、足をすべらせ強かに身体を殴打している。
「艦長、危険です」
フラーも必死の形相で隔壁のパイプを掴んで、耐えていた。
「奴らに、この艦を任せておくほうが危険だ。月鬼だか何だかしらんが、これ以上好きにさせてたまるか」
ハインツは急傾斜の艦内を這うように、ゲストルームへ進んでいった。
◇========◇
毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
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