獣の海 (Mare bestiarum) 21


【Uボート<U-219>】


 <U-219>は、刻々と変化する事態に備えなければならなかった。ひとまず急速潜航は終えて、深度計は150メートルで安定している。艦のツリムを水平に戻し、8ノットほどで航行中だった。


「ハインツ艦長、ありがとうございます」


 クラウスSS大尉は、声を落として言った。ようやくUボートでの礼儀作法に慣れれてきたらしい。そう思いながら、ハインツは無言で肯いた。


「あなたの協力に感謝を。いずれ相応の御礼をしますよ」


「それはどうも。出来れば勲章以外で頼む。どのみち生きて帰れたらの話だがな」


 ハインツの横で、先任のフラーが訝し気な顔をしていた。


「本当に大丈夫なのか?」


 ソナー室の方をちらりと見て、尋ねる。


「聴音なしで、どうやって敵の位置を把握する?」


 ロットマンが青い顔で背もたれに身を預けていた。聴音器のレシーバーは耳元から離れている。クラウスSS大尉の要請で、聴音を止めたのだ。自殺行為に等しいことだった。潜水艦にとって、聴音器ソナーは耳であり、同時に目だった。聴音器がなければ、敵の位置を把握できないし、攻撃もできないのだから。


「大丈夫です。彼女・・がなんとかしますから」


 クラウスは背後にあるゲストルームの区画を指していた。


「それに彼女が言うには、あの歌を聴き続けていたら正気を無くすそうです。どうか気を悪くしないでください。どのみち、この艦の聴音員は使い物にならなくなりますよ」


「だからと言って……」


 フラーは何かを言い返そうとしたが、適当な言葉を思いつくことが出来なかった。クラウスは宥めるように頷いた。


「フラー大尉、あなたの懸念はもっともです。ここは私たちを信じてほしい。この状況は必ず好転します」


 自身の言動に微塵も疑いを持っていないようだ。ある種の狂信者に似た何かを感じさせる。


「子どもに何が出来るんだよ?」


 フラーは投げやりに言った。なるようになれと思い、自身の墓碑銘に刻まれる文句を考え始めていた。対称的に、クラウスは確固たる自信に満ちていた。


「ただの子供ではありませんよ。彼女は──」


 クラウスは続けようとしたが、ハインツに回り込まれてしまった。


「月鬼なのだろう?」


「その通りです。さすがはハインツ艦長です」


 ハインツの横でフラーが莫迦みたいな顔を浮かべていた。


「月鬼とは、あの……月鬼ですか。BMの中にいる──」


 クラウスは肩をすくめ、両手を挙げた。


「ええ、あの月鬼です。納得いただけましたか? 要するに彼女は普通ではありません。たった今も、彼女は超常能力で<U-219>の周辺を把握しています。ああ、少々お待ちを──」


 クラウスは喉元に手を当てた。独り言のような会話が始まる。


「何があったのかな? ああ、なるほど……かまわないよ。私たちはどう動けばいい? え……ああ、なるほどね。少し待ってくれないかな。うん、物事には順序があるんだ。これからの私たちのことを考えると、先に許可はとったほうがいいからね」


 喉元から手が離れる。


「ハインツ艦長」


「今度はなんだ」


「あー、申し上げにくいのですが……すみません。この艦をしばらく乗っ取らせてください」


「どういう──」


 意味を尋ねる前に、<U-219>の全身に赤い模様が浮かび上がった。


◇========◇

毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

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