獣の海 (Mare bestiarum) 7

 エレナの父、オスカーと知り合ったのが、いつだったのか覚えてはいない。加えて関係性も記憶になかった。オロチの部下だったかもしれない。あるいは極めて確率は低いが、上官であっても不思議はなかった。彼女の父親は能力的に非常に優れたユダヤ人だった。


 数年前、オロチは負傷し、命の境を彷徨った。その際、彼を見捨てずに治療したのがオスカーだ。朦朧とした意識が回復したとき、オロチは一隻の船倉に横たえられていた。


「どこ……だ、ここ、は?」


 たどたどしいオロチの第一声にオスカーは答えた。左頭部を包帯に巻かれていたため、視界が半分塞がっていた。右半分の視界に無精ひげの生えた、ひどく疲れた顔の西洋人が入ってきた。それがオスカーだった。


「アーネンエルベの船だ。予定が変わったんだ。ドイツ本国へ向かう」


 オロチは、しばらく考えた後で続けた。


「あなたは、誰だ?」


 オスカーの表情が凍り付いたのがわかった。


「目が見えていないのか?」


「いいや、見えている。覚えがない」


「それは……私は、オスカーだ」


 オスカーは自身の名前を告げた。オスカーはオロチの境遇について知る限りのことを教えてくれたが、いったい何者なのか教えてくれなかった。どうやら記憶を失う前のオロチは、オスカーに対して必要最低限の情報しか伝えていなかったのだ。


 ただ、ひとつはっきりとしていることは、オスカーたち家族に対して大変な貸しを作っていたということだった。


 オロチがいなければ、オスカー家は収容所で一生を過ごすことになっていたらしい。オスカーがオロチを助けたのも、借りを返すためだった。彼はユダヤ人らしい矜持をもって、人生の帳尻を合わせようとしていた。オスカーの死後、その矜持は娘のエレナにも受け継がれている。


「ウラ、どうかしましたか」


 追想からエレナが呼び戻すと、オロチは「なんどもない」と答えた。思えば「タジウラ」という名前も、本物かどうか定かではなかった。果たして自分が本当に存在する人間なのか、オロチはときどき疑問に思うことがあった。ときどきどこかのフィクションの登場人物のように思えることすらあった。


 自分の存在を証明するものを、何一つオロチは覚えていなかった。日本人であることは確かのようだが、なぜドイツに身を寄せるようになったのか、なぜ記憶を失うことになったのか全くわからなかった。


 エレナの家で過ごしたのは、五日ほどのことだった。束の間の休暇は唐突に終わりを告げた。司令部から招集命令が下ったのだ。行先は告げられなかったが、さぞや剣呑な地なのだろうと思った。


「急なことですまない」


 荷物をまとめ、オロチは言った。


「必ず帰ってきてください。待っていますから」


「ああ、わかった」


 エレナに送り出されながら、オロチは深層部分で後ろめたい安堵を感じていた。帰る場所があることに対してではない。表立って伝えてきていないが、エレナから好意を寄せられていることはわかっていた。しかし、オロチは彼女の心に応えることができなかった。年が離れすぎていたこともあるが、何者かに対する裏切りになるように感じていた。



 アドリア海を横断し、対岸のアルバニアを視認できたのは昼頃のことだった。寄港予定の港へロレンツォは双眼鏡を向けた。


 ロレンツォの眉間にどんどん皺が寄っていくのが分かった。双眼鏡などなくともオロチには、何が見えているのか察しがついた。


 港からいくつも煙が立ち上っていたからだ。どす黒い、人工物が燃焼する煙だった。


「狼煙の類ではないだろうね」


 オロチが呟くと、ロレンツォは肯いた。


「ウラ、悪いが予定は変更だ」


「かまわないよ。どこか適当な場所で降ろしてくれ」


「いや、上陸地点は変わらない」


 ロレンツォはそう言うと、ストレージから円筒状の装備を取り出した。パンツァーファウストだった。親愛なる同盟国からの贈り物だ。


「ちょいとばかり、時間が遅れるだけだ。ところで、こいつの扱いは分かるな?」


 ロレンツォがパンツァーファウストを掲げると、そのままオロチに手渡した。


◇========◇

次回3月7日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る