新たな戦影(The shadow of war)4
【キューバ】
1946年2月27日
キューバは一週間前の混乱から、徐々に立ち直りつつあった。
沿岸部では漁が再開され、今朝早くに水揚げされている。いまだに魔獣の脅威が完全に去ったわけではないが、キューバ人とてパンのみで生きられるわけではない。
古めかしい木造の小舟に小型発動機をつけた船団が島の沖合を行き来していた。ちょうどキューバ人たちが、午後の漁に出ていた頃合いだった。網を投げ入れようとしたとき、すぐ先の海中に巨大な影が蠢ているのがわかった。
漁船団はパニックを起こし、一斉に沿岸へ向けて舵をきったが、遅かった。
海中が盛り上がり、抹香鯨のようなシルエットが現れる。しかし、それは本物の鯨にはない器官をそなえていた。背中と思しき部分に鋼鉄の塔があった。
ドイツ海軍のUボート<U-219>だった。
唖然とする漁師たちをしり目に、<U-219>はハバナへ向けて針路をとった。
◇
出港まで時間があったので、少し休むことにした。
臨時政府は首都ハバナに戒厳令を発布していたが、それは夜間外出の禁止に限定したものだ。効力としては弱く、街の喧騒をさえぎるものではなかった。
メインストリートの商店の大半は、営業を再開していた。それらにはささやかな変化が起きていた。かつては英語とスペイン語を併記した看板が立ち並んでいたが、ドイツ語が書き加えられている。キューバ人なりに、現状を受け入れようと努力しているようだ。
昼下がりまでは人通りはまばらだったが、太陽が傾くにつれて活気を取り戻していった。
その二人組は比較的小ぎれいな食堂にいた。この街で珍しい組み合わせだった。
片方は白人の青年で、もう片方は少女だった。年の頃は十五か、そこいらに見えたが、ひょっとしたらもっと上かもしれない。
判別のつきがたい面立ちだったが、人形のように際立って綺麗な娘だった。
遠巻きに現地人たちが二人を眺めているが、当の本人たちは全く意に介しなかった。特に少女の方は感情のない冷めた瞳で座っている。
くたびれたシャツを着た、やる気のないウェイターが飲み物を持ってきた。少女の前にレモネード、青年のそばにコーヒーを置く。
「
青年は柔和な笑顔を浮かべると、相場より多めのチップを渡した。ウェイターは喜色を浮かべると、水を得た魚のように意気揚々と戻っていった。
満足そうにウェイターを見送りながら、青年はコーヒーを一口含んだ。口内に芳純な香りが充満し、酸味から苦味へ変化していく。淹れ方を工夫すれば、もっと良い仕上がりになるだろう。
「やはり本物のコーヒーはいいね」
思わず舌鼓を打ってしまった。
「おっと失礼。なにしろ本国は、
青年は嬉しそうに続けながら、美味そうにコーヒーを飲んだ。はたから見るほうも思わず飲みたくなるような仕草だった。
対照的に少女は一切変化がなかった。本当に人形ではないかと疑いたくなるが、ときたま瞬きをすることで生き物だと認識できた。
「外の世界はつまらないかな?」
フリッツ・クラウスSS大尉は小首をかしげた。今日は制服ではなく、半袖半ズボンで身を固めている。これからゴルフでも打ちそうな格好だった。
フリッツの問いに、少女は数回瞬きをした後で首を振った。
「つまらなくはない。とても興味深い」
外見に不釣り合いな、大人の女性の声だった。
「そうか……ならよかった。時間までしばらくある。ゆっくりしよう」
少女は答えることなく、グラスへ目を向けた。よく冷えた淡いイエローのレモネードだった。氷は入っていない。未だにキューバでは製氷機は高価だった。
少女はグラスに口をつけると、喉を何度か鳴らした。
「初めての味」
「気に入ったかな?」
「たぶん……」
少女は店内から外を、じっとうかがった。黄昏に染まったハバナの街があった。道行く人の大半はキューバ人だったっが、たまにシュタールヘルムを被ったドイツ兵が混じっている。
当初の予想よりはハバナは安定していた。カリブの騒乱、キューバ危機を通じて政府軍とゲリラは壊滅していた。今では、グアンタナモの合衆国軍とドイツ軍の間で緊張状態が続いている。
皮肉なことに圧倒的な勢力によって二分されたことで、キューバは数十年ぶりの安定を取り戻していた。
「ほしいものは手に入ったの?」
少女はぽつりと呟いた。
「そうだね」
「なら、次は私の番」
「もちろんだ」
フリッツは、わざとらしく大手を広げた後で、再び姿勢を戻した。
「だけど、今すぐは無理だね」
少女は、しばらく黙っていたが静かに目を見開いた。
「約束を破る気?」
急に街の喧騒が遠のく。彼ら以外の客と店員がざわめきだした。一瞬にして、店を取り囲むように、薄く黒い幕が張られていた。
「違うよ」
フリッツは顔色一つ変えずに否定した。
「安心してくれ。約束は守るよ。ただ、そうだな。少し準備が必要なんだ。君も見ただろう。あの空を飛ぶ船さ。あれを何とかしなければならない」
「私には力がある」
「その通り。だけど君、負けただろ?」
「……」
「向こうは独りじゃない。とても厄介なお仲間が付いている。だけど、大丈夫だ。君には、私が、我々がついている。だから、さあ、怒りを鎮めて」
「……わかった」
街の喧騒が戻ってきた。店内に閉じ込められたキューバ人はパニックに陥っていっていた。彼らは口々に「アルマ」と叫ぶと、外へ出ようとした。
「片付けてくれるかな?」
「わかった」
再び黒い膜が展開され、次々と人々を飲み込んでいく。老若男女、人種関係なく、悲鳴とともに飲み込まれ、ぐちゅりと咀嚼する音が充満し、ついには何も聞こえなくなった。
「さてと、そろそろ行こうか。出港の時間だ」
フリッツは立ち上がると少女を促した。街の喧騒へドイツ人の青年と人種不定の少女が加わる。
キューバ人たちが叫んだ「アルマ」とは、彼らが最期に見たものを指していた。
スペイン語で角を意味する。
◇========◇
次回8月2日(木)に投稿予定
書籍化に向けて動きます。
まだ確定ではありませんので、
実現のために応援のほどお願いいたします。
(主に作者と作品の寿命が延びます)
詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)
もしくは、活動報告(2021年6月23日)を
ご参照いただけますと幸いです。
ここまで読んでいただき、有り難うございます。
引き続き、よろしくお願いいたします。
弐進座
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