カリビアン・ロンド(Round dance) 1

【キューバ ハバナ】

 1946年1月10日 夜


 キューバ島の夜は熱かった。そこは気候的にも、政治的にもホットスポットと化していた。


 1月にも関わらず、ハバナ市は熱気に包まれている。街の喧騒に混じり、不穏な会話があちらこちらで交わされていた。広場で、家庭で、裏通りで、そして密室で怒りの声が上がっていた。彼らの心は熱にうなされたように、憎悪に支配されていた。矛先は二つあった。ひとつは現在のキューバ政府であり、もうひとつはアメリカ合衆国だった。


 世界に黒い月が現れた時からカリブ海一円は加速度的に混沌を極めていった。5年前、世界中の政府機能が例外なく消滅の危機に瀕した。現状では、全快に及ばずとも小康状態に落ち着きつつある。しかしながらカリブ海の受難は未だに持続していた。キューバは、その最たる例だった。


 BM戦の前に、キューバは典型的なモノカルチャー経済だった。主要な農産物は砂糖で、最大の輸出先は合衆国だった。国家として独立はしていたが、実態は合衆国の傀儡だった。国内産業の資本は合衆国によって独占され、利益は国外に流出していた。砂糖農園の大半もアメリカ人が所有しており、キューバ当局との癒着が公然の秘密となっていた。キューバ人の中で恩恵を受けれるのは、役人と資本家で、大部分の国民は合法的な奴隷だった。


 BMの出現は、キューバを体制もろとも崩壊させた。


 キューバ人にとって幸いだったのは、カリブ海にBMが出現しなかったことだ。魔獣の直接的な被害を受けずに済んだ。


 最大の不幸は、世界中の誰もがキューバを顧みなくなったことだった。合衆国すら、キューバに構うことができなくなった。合衆国の軛が無くなったが、キューバは深刻な不況と食糧危機に見舞われることになった。主要な輸出資源が砂糖しかなく、最大の取引相手である合衆国が機能不全に陥ったからだ。そして農地の大半はサトウキビ畑であり、キューバ人の空腹を満たすには余りにも頼りなさ過ぎた。


 暴動と略奪がキューバ全土に広がり、半年もたたずして無政府状態になった。キューバ人たちは国籍を問わず、農園領主を血祭りにし、合衆国資本の企業は焼き払われた。唯一、秩序を維持できたのはグアンタナモ周辺の地域だ。そこは合衆国が永久租借した地で、BM出現後も合衆国軍が駐留し続けていた。


 キューバが僅かながら秩序を取り戻し始めたのは、1943年に入ってからだった。まず合衆国がキューバを取り戻そうと動き始めた。合衆国の支援を受けたフルヘンシオ・バティスタ将軍が軍を掌握し、グアンタナモから進軍、キューバ島の東部を勢力圏に収める。


 ちょうど時を同じくして、農村地帯を中心に共産主義者が武装蜂起していた。彼らは各地に自治政府コミューンを形成し、元農園労働者の支持を集めていった。やがて、キューバ島の西部を中心に勢力を伸長させていく。


 バティスタと自治政府は最悪のかたちで接触した。両者はキューバの主権を巡り、紛争を開始したのだ。間を置かずして、趨勢はバティスタに傾く。合衆国の支援を受け、装備の整った軍が相手ではゲリラ同然の自治政府軍は歯が立たなかった。


 1944年、バティスタはハバナを首都として軍事政権を樹立した。それから約2年、現在に至ってもキューバの各地では反政府ゲリラが活動を続けている。たしかにバティスタは勝利したが、キューバ全土の掌握できなかった。キューバ人たちは、お互いに血を流しあっていた。



 ハバナ市の一角にあるホテルを訪れたのは、東洋人の男性だった。スーツ姿でビジネス鞄を手にしている。数年前までなら、人目を集めたかもしれないが、今では黄色人種は珍しくなくなっている。恐らく日本人だろうと、周辺の誰もが思っていた。


 彼はフロントで知人の部屋番号を尋ねると、階段を上っていた。


 宿泊しているホテルは最近営業を再開したばかりだった。コロニアル風の建物で、長年の無政府状態下にあっても保存状態はよかった。このホテルのオーナーが地元のギャングだったからだ。


 東洋人の男が部屋に入ると、先客がいた。男女二人組だが、女のほうは見知らぬ顔だった。二人とも寝台の上でくつろいでいて、周辺に衣服が放置されていた。どうやら女は現地人らしい。褐色の肩がシーツから覗いている。男のほうは白人だった。しだれかかった女の肩をだき、手櫛で髪をすいていた。


 相棒の姿を認めるや、白人の男は片手を上げた。


「お早い、到着だな」


 東洋人は眉一つ動かさずに、肯いた。


「遅れたほうが良かったか」


「いいや、ちょうどくつろいでいたところだ」


 白人の男は、現地人にキスをすると、やさしく退室を促した。


「すまないね、ハニー」


 女を見送ると、静かにドアを閉じる。


 振り向いた男の顔は、表情が消されていた。


「あれはどういう資源だ」


 女を指して、東洋人は言った。


「バティスタの愛妾ラバーズの一人さ。大統領官邸でメイドを務めている」


 白人は事務的に答えると、手早く着替えを済ませた。


「おかげで、内部構造を掴むことができたよ」


「なるほど」


 東洋人は満足げに微笑むと相手の名コードネームを呼んだ。


「やはり君を送ってよかったよ、グレイ」


「苦労したんだ。査定は弾めよ、オロチ」


 完璧な英語で、二人の工作員エージェントは会話をしていた。



◇========◇

次回12月23日(水)に投稿予定

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弐進座

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