復活祭(Easter) 5
今井は慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「あの
日下部は肯定した。
「そう、
4年前、日米は極めて剣呑な関係にあった。日本の大陸進出を快く思わない合衆国は、石油を含むあらゆる戦略資源の禁輸措置を行った。その結果、日本の工業は遠からずして麻痺することが運命づけられた。
1941年12月8日、大日本帝国は状況を打破するためにアメリカ合衆国に対する
以上が日本の公式見解だった。合衆国も似たような声明文を出している。
しかし、真実は異なっている。少なくとも当時、真珠湾演習に参加した将兵の中で、これが演習だと自覚していた者はいない。敵地で実弾を用いた演習を行うなど正気の沙汰ではないからだ。連合艦隊はあきらな武力行使の意図を持って、真珠湾を奇襲しようとしたのである。
「まあ、私もこいつの存在は文書上でしか知らなかったんですがね」
甲標的の原案は1931年には存在していた。当時ワシントン及びロンドンで締結された軍縮条約により、列強各国は海軍戦力の保有数に制限を設けていた。仮想敵国である合衆国に対して日本は条約によって大きく水をあけられることになった。具体的には英米との戦力比において、日本は約6割が保有上限と定められたのである。非常に極端な例だが、英米がそれぞれ10隻の戦艦を保有していた場合、日本は6隻しか保有できないことになった。以降、条約発効から1941年に至るまで帝国海軍の喫緊の課題は
1931年、艦政本部が提出した案は魚雷に人間が搭乗し、敵艦まで誘導するという狂気じみた決死兵器であり、理性と良心的な観点から却下された。その後に幾たびか検討が重ねられ、翌年の1932年に現実的な案が浮上した。排水量は47トンで、全長は23メートル、蓄電池と電動機による推進方式を基本としたものだった。速度は浮上時において23ノット、潜行時には19ノットで、潜行深度の限界は30メートルとされた。乗員は操舵を受け持つ艇付と艇長の二名だった。
運用法は二つ想定された。敵対水域において、潜水母艦もしくは潜水艦から出撃し、敵主力の針路前方にて潜伏、これを奇襲する。もしくは敵の泊地へ侵入し、敵主力艦の近くまで潜行、その後浮上して奇襲する。甲標的の兵装は45cm魚雷発射管2門であり、いずれの運用においても雷撃で敵艦を攻撃する。
「結局のところ、こいつが活躍する場は真珠湾以降は全く無かったわけですがね」
日下部は躊躇うことなく続けた。
「あの演習以降は使われずに全て廃棄されたみたいですわ。まあ、こいつで魔獣を狩るのは至難の業でしょうから、むべなるかなといったところです」
日下部が言うには、特殊潜航艇は極めて限定的な状況でしか能力を発揮できなかったらしい。もともと航続距離が短く、蓄電池が切れたら一切活動できない。そのうえ、運動性や耐久性において魔獣に大きく劣る。何よりも水中を機敏に動く魔獣へ魚雷を当てることは不可能に近かった。もっとも鈍重とされるクラァケンですら、20ノット以上で航行している。
「そんなわけで、一度はお蔵入りにしたんですが、こんなところに出くわすとはねえ」
日下部はしげしげと葉巻状の鉄塊を眺めると、振り返って部下たちに指示を出した。その中の一人は写真機を手にしており、外観を撮影すると司令塔から内部へ入っていった。
「お互い厄介な代物を押しつけられましたね」
日下部は今井に笑いかけた。
「ええ、まあ……」
今井は曖昧な返事で濁した。知らぬ間に横領事件の共犯に仕立て上げられたような気分だった。
「最終的な判断は、上がやることでしょうが──」
日下部は木陰に入ると、軍帽を団扇がわりにした。今井はその場から動かなかった。
「用意だけしておいた方がいいかもしませんな」
「用意とは?」
今井は察しかねるふりをした。日下部は構わず続けた。
「演習のためだけに、こいつを引っ張り出したと合衆国が信じてくれるとは思えんのですわ。あなただって、そう思うからこそ、ここら辺を封鎖して誰も立ち入れないようにしたんでしょ。あの
甲標的の残骸には隠蔽用の迷彩カバーが被せられていた。その上には原生林から切り出した枝が幾重にも被せられている。周囲を森林に囲まれているとは言え、航空偵察で発見される可能性があった。今井の処置は、その可能性を低下させるものだった。
人を食ったような日下部の言い草に今井は付き合わなかった。彼がこの場を立ち去る理由を思案し始めたとき、黒木軍曹が甲標的の影から姿を現わした。
黒木は今井の姿を見ると、小走りに駆けてきた。
「少佐、異常はありません。ただ──」
黒木は日下部を一瞥すると、すぐに今井へ視線を戻した。
「パールハーバーへ艦船が入ってきたら、発見される恐れがあります」
今井は肯くと、日下部へ向き直った。
「日下部少佐、あとでご相談したいことがあります」
「ええ、かまいませんよ。大よそは承知しているつもりですから」
日下部の視線は沿岸へ向けられていた。今井は日下部の評価を僅かに上方修正すると、部下に向き直った。まだ訳ありな様子だった。
「実は、もう一つ気になることがあります」
「あの潜航艇ですが、いくつか人の手が加えられた後があります。町田中尉の負傷も、事故ではない恐れがあるのです」
今井は黒木の言うことを理解できなかった。いや、率直に彼は混乱していた。今井の混乱を解いたのは、背後にいた海軍士官だった。
「そういえば、あの甲標的は二人乗りなんですが、乗員はどこへ消えたんでしょうかね」
◇========◇
次回5月31日(日) ※昼頃※ 投稿予定
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弐進座
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