純白の訪問者(Case of White) 17:終
【築地 海軍大学校】
海大の一室で、黒電話が鳴った。呼び鈴が一回鳴ったところで、矢澤中佐は受話器をとった。
「はい、矢澤です。はっ……少々お待ちください」
矢澤は受話器を押さえ、六反田の机へ顔を向けた。
彼の上官は朝刊を広げていた。その一面には世田谷に現れた白い魔獣の記事が載っている。昨日、御調少尉からシロが帝都上空を飛び回った挙げ句、住宅街でひと騒動を起こした報告を受けている。すぐに報道管制をかけたが、さすがに間に合わなかった。
「閣下」
声を抑え、呼びかける。六反田は右眉を上げて、紙面の端から顔を覗かせた。
「どうした?」
「山口長官です。今、閣下が読まれている記事について話があると……」
「オレはここにいない。以上だ」
六反田は再び紙面に顔を隠した。矢澤はため息をつくと、受話器を押さえた手を離し、連合艦隊司令長官に上官の
「ええ……それは――」
再び矢澤は受話器で手を押さえる。
「閣下、居るのはわかっているだそうです。それから
「あれ、言っておらんかったかな」
六反田は大黒天のような笑みで、朝刊を机に置いた。
矢澤はさらに大きなため息をつくと、受話器を握り直した。額に汗が浮かべ、二言三言交わした後で電話を切る。
「そこにいろだそうです。こちらに来ますよ」
「そうか」
六反田は既に席を立ち、外套を肩に引っかけた。
「どうされるおつもりで?」
「無論、逃げるんだよ」
矢澤は半笑いで副官の義務を果たすことにした。無謀な上官を諫めるのも、彼の職務のひとつだった。
「それはなさらないほうがよろしいかと。すでに山口閣下は玄関へ着かれています。さきほどの電話は受付からの内線です」
「なるほど」
遠くから六反田を呼ぶ怒声が近づいてくるのがわかった。六反田は外套を長いすに放り投げると草色の上着を脱ぎ、袖をまくり上げた。
矢澤は諦観の境地で、重要な書類を机から即座に退避させた。
「どうか手短にお願いします」
「それなら加勢してくれ」
「いいえ……やはり心ゆくまでどうぞ」
足早に室内の片隅に移動する。数秒後ドアが開かれ。鬼の形相を浮かべた山口が六反田へ吶喊していった。
初弾は山口の右ストレイトだった。
【駒沢練兵場 厩舎】
シロの着地により、儀堂の家は手痛い損害を受けた。屋根の一部が壊れ、瓦が数十枚はげ落ち、塀の三分の一が完全に破損した。
小春はシロを駒沢練兵場へ返した後、真っ青な顔で儀堂へ平謝りした。その後、今度は真っ赤な顔で儀堂家の居間に兄を正座させ、思いつく限りの言葉で丁寧に罵倒した。
その晩、小春の報せを受けて、改めて戸張の両親が長男の素行を詫びに来た。修繕費用の弁償を申し出られたが、儀堂は丁重に断っていた。すでに矢澤中佐から海軍が補償する旨を聞かされていたからだ。
「ほら、動かないの」
小春はかるくシロの額に手を当てると、その口元に巻尺の先端を持っていった。
「はい、これ。食べないでね」
シロは大人しく巻尺の取っ手をくわえた。小春はじっとするように言うと、巻尺の本体をもったままシロの後方へ移動した。尾の先まで目盛を当て、その数値を測る。
「九メートル五十センチ、また大きくなっている」
巻尺をリールで巻き取ると、ノートに目盛の数値を書き込む。翼長を測ろうとして、周囲を見渡すが、他のものの姿が無かった。実のところ先ほどまで
「衛士さんは、今日は来ないか……」
大きくため息をつくと、小春はパイプ椅子に座り込んだ。いつもより身体が重く感じられる。
あれから一週間、小春は儀堂家から遠ざかっていた。騒動の後で、しばらく海兵が儀堂家を警護《封鎖》していたのが主な要因だったが、正直なところ気まずい思いもあった。以前はシロの世話にかこつけて儀堂家へ赴くことが出来た。しかし駒沢練兵場にシロが移ってから、その必要もなくなってしまった。
「お邪魔するわ」
ふいにアルトの声をかけられ、小春は視線を上げた。
「キールケさん、どうしたんですか」
「ちょっと用があって来たの」
「またシロの血を採りに?」
キールケは少し目を見はると、いいえと小さく笑った。
「違うわ。あなたに用があるのよ」
「私に……?」
「はい、忘れ物よ」
キールケは小春へノートを手渡した。異国の言葉が書き込まれたノートだった。
「あ、ないと思ったら……やっぱり衛士さんの家に忘れてきたんですね。ありがとうございます」
「どういたしまして。ところで、そっちのノートは?」
「これはシロの成長を書いたものです」
「へえ、そう。ちょっと見せてくれる」
キールケはシロの成長ノートを流し読みし、笑みを大きくした。綻ばせたというべきかもしれない。
「あなた、すごいわ。ただ育てるだけじゃない。観察し、記録し、理解しようとしている。とてもいいわ。私好みよ。ねえ、あなた、どうして記録をとろうと思ったの?」
「特に理由があったわけじゃないです。ただ、この子の成長があまりに早くて珍しいと思ったから……それぐらいです。日記みたいなものです」
「なるほどね……。ねえ、あなた、これは続けなさい。これも、きっと他の人の役に立つはずよ」
「え、あ、はい!」
「それから英語の勉強も、最近儀堂の家に来ないけどどうしたの? これじゃあなたとの
「それは……」
うつむく小春の様子を見て、キールケは背景を悟った。
「なるほどね。まあ気まずいでしょうけど、安心なさい。あの
「だけど、
「気にしなさんな。もう、ほとんど修理は終わったよ」
海兵の突貫工事により儀堂家は完全に復元されていた。小春も承知していたが、なおも踏ん切りがつかないらしい。儀堂から修理費用の弁償を断られたことが、余計に彼女の気を重くしているようだった。
「……どうしてもと言うなら、私の仕事を手伝ってくれるかしら? 人手が足りないし、何よりもあなたが書いているノートが役立ちそうなの。お代は払うわ」
突然の申し出に小春は虚を突かれた。
「キールケさんのお仕事? 衛士さんに何の関係が?」
「良い質問ね。私は、あの艦長と同じ組織にいるの。私の研究は魔獣との戦いを有利に進めるものよ。つまり、あの艦長の戦いが楽になる仕事なの。あなたは私の仕事を手伝うことで、あの艦長を助けることになる。どう、悪い話じゃないでしょ?」
「私なんかが役に立つんですか?」
小春はまっすぐな瞳でキールケを見た。かつて叔母に向けた瞳と同じ光が宿っていた。そのとき、叔母は研究者を志す少女の背中を押し、学資を支援した。
キールケは叔母の台詞を再現した。
「やってみなさい。まずはそれからよ」
月読機関に軍属扱いの助手が一人増えた。
戸張小春の日常に新たな側面が加わった瞬間だった。
数十年後、彼女が作成した
◇========◇
次回12月29日(日)投稿予定
ここまで読んでいただき、有り難うございます。
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引き続き、よろしくお願い致します。
弐進座
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