純白の訪問者(Case of White) 17:終

【築地 海軍大学校】

 昭和二十1945年十月十三日


 海大の一室で、黒電話が鳴った。呼び鈴が一回鳴ったところで、矢澤中佐は受話器をとった。


「はい、矢澤です。はっ……少々お待ちください」


 矢澤は受話器を押さえ、六反田の机へ顔を向けた。

 彼の上官は朝刊を広げていた。その一面には世田谷に現れた白い魔獣の記事が載っている。昨日、御調少尉からシロが帝都上空を飛び回った挙げ句、住宅街でひと騒動を起こした報告を受けている。すぐに報道管制をかけたが、さすがに間に合わなかった。


「閣下」


 声を抑え、呼びかける。六反田は右眉を上げて、紙面の端から顔を覗かせた。


「どうした?」

「山口長官です。今、閣下が読まれている記事について話があると……」

「オレはここにいない。以上だ」


 六反田は再び紙面に顔を隠した。矢澤はため息をつくと、受話器を押さえた手を離し、連合艦隊司令長官に上官の不在大嘘を伝えた。内心で「こいつは国家反逆罪ものじゃないか」と思う。


「ええ……それは――」


 再び矢澤は受話器で手を押さえる。


「閣下、居るのはわかっているだそうです。それから陸軍陸さんの手を借りたなど聞いておらんと。駒沢練兵場の件、山口長官は承知では無かったのですか?」

「あれ、言っておらんかったかな」


 六反田は大黒天のような笑みで、朝刊を机に置いた。 


 矢澤はさらに大きなため息をつくと、受話器を握り直した。額に汗が浮かべ、二言三言交わした後で電話を切る。


「そこにいろだそうです。こちらに来ますよ」

「そうか」


 六反田は既に席を立ち、外套を肩に引っかけた。


「どうされるおつもりで?」

「無論、逃げるんだよ」


 矢澤は半笑いで副官の義務を果たすことにした。無謀な上官を諫めるのも、彼の職務のひとつだった。


「それはなさらないほうがよろしいかと。すでに山口閣下は玄関へ着かれています。さきほどの電話は受付からの内線です」

「なるほど」


 遠くから六反田を呼ぶ怒声が近づいてくるのがわかった。六反田は外套を長いすに放り投げると草色の上着を脱ぎ、袖をまくり上げた。


 矢澤は諦観の境地で、重要な書類を机から即座に退避させた。


「どうか手短にお願いします」

「それなら加勢してくれ」

「いいえ……やはり心ゆくまでどうぞ」


 足早に室内の片隅に移動する。数秒後ドアが開かれ。鬼の形相を浮かべた山口が六反田へ吶喊していった。


 初弾は山口の右ストレイトだった。


【駒沢練兵場 厩舎】

 昭和二十1945年十月十九日


 シロの着地により、儀堂の家は手痛い損害を受けた。屋根の一部が壊れ、瓦が数十枚はげ落ち、塀の三分の一が完全に破損した。


 小春はシロを駒沢練兵場へ返した後、真っ青な顔で儀堂へ平謝りした。その後、今度は真っ赤な顔で儀堂家の居間に兄を正座させ、思いつく限りの言葉で丁寧に罵倒した。


 その晩、小春の報せを受けて、改めて戸張の両親が長男の素行を詫びに来た。修繕費用の弁償を申し出られたが、儀堂は丁重に断っていた。すでに矢澤中佐から海軍が補償する旨を聞かされていたからだ。


「ほら、動かないの」


 小春はかるくシロの額に手を当てると、その口元に巻尺の先端を持っていった。


「はい、これ。食べないでね」


 シロは大人しく巻尺の取っ手をくわえた。小春はじっとするように言うと、巻尺の本体をもったままシロの後方へ移動した。尾の先まで目盛を当て、その数値を測る。


「九メートル五十センチ、また大きくなっている」


 巻尺をリールで巻き取ると、ノートに目盛の数値を書き込む。翼長を測ろうとして、周囲を見渡すが、他のものの姿が無かった。実のところ先ほどまでが居たのだが、小春に冷たく当たられて泣く泣く家に帰ったのだ。


「衛士さんは、今日は来ないか……」


 大きくため息をつくと、小春はパイプ椅子に座り込んだ。いつもより身体が重く感じられる。


 あれから一週間、小春は儀堂家から遠ざかっていた。騒動の後で、しばらく海兵が儀堂家を警護《封鎖》していたのが主な要因だったが、正直なところ気まずい思いもあった。以前はシロの世話にかこつけて儀堂家へ赴くことが出来た。しかし駒沢練兵場にシロが移ってから、その必要もなくなってしまった。


「お邪魔するわ」


 ふいにアルトの声をかけられ、小春は視線を上げた。


「キールケさん、どうしたんですか」

「ちょっと用があって来たの」

「またシロの血を採りに?」


 キールケは少し目を見はると、いいえと小さく笑った。


「違うわ。あなたに用があるのよ」

「私に……?」

「はい、忘れ物よ」


 キールケは小春へノートを手渡した。異国の言葉が書き込まれたノートだった。


「あ、ないと思ったら……やっぱり衛士さんの家に忘れてきたんですね。ありがとうございます」

「どういたしまして。ところで、そっちのノートは?」

「これはシロの成長を書いたものです」

「へえ、そう。ちょっと見せてくれる」


 キールケはシロの成長ノートを流し読みし、笑みを大きくした。綻ばせたというべきかもしれない。


「あなた、すごいわ。ただ育てるだけじゃない。観察し、記録し、理解しようとしている。とてもいいわ。私好みよ。ねえ、あなた、どうして記録をとろうと思ったの?」

「特に理由があったわけじゃないです。ただ、この子の成長があまりに早くて珍しいと思ったから……それぐらいです。日記みたいなものです」

「なるほどね……。ねえ、あなた、これは続けなさい。これも、きっと他の人の役に立つはずよ」

「え、あ、はい!」

「それから英語の勉強も、最近儀堂の家に来ないけどどうしたの? これじゃあなたとの取引やくそくが不成立になっちゃうわ」

「それは……」


 うつむく小春の様子を見て、キールケは背景を悟った。


「なるほどね。まあ気まずいでしょうけど、安心なさい。あの艦長カピテンも、あなたのことを気にかけていたわよ」

「だけど、おうちを壊してしまったし」

「気にしなさんな。もう、ほとんど修理は終わったよ」


 海兵の突貫工事により儀堂家は完全に復元されていた。小春も承知していたが、なおも踏ん切りがつかないらしい。儀堂から修理費用の弁償を断られたことが、余計に彼女の気を重くしているようだった。


「……どうしてもと言うなら、私の仕事を手伝ってくれるかしら? 人手が足りないし、何よりもあなたが書いているノートが役立ちそうなの。お代は払うわ」


 突然の申し出に小春は虚を突かれた。


「キールケさんのお仕事? 衛士さんに何の関係が?」

「良い質問ね。私は、あの艦長と同じ組織にいるの。私の研究は魔獣との戦いを有利に進めるものよ。つまり、あの艦長の戦いが楽になる仕事なの。あなたは私の仕事を手伝うことで、あの艦長を助けることになる。どう、悪い話じゃないでしょ?」

「私なんかが役に立つんですか?」


 小春はまっすぐな瞳でキールケを見た。かつて叔母に向けた瞳と同じ光が宿っていた。そのとき、叔母は研究者を志す少女の背中を押し、学資を支援した。


 キールケは叔母の台詞を再現した。


「やってみなさい。まずはそれからよ」


 月読機関に軍属扱いの助手が一人増えた。

 戸張小春の日常に新たな側面が加わった瞬間だった。


 数十年後、彼女が作成した異世界ネシスの言語辞典や竜の成長記録はコハルノーツと呼ばれ、各国の研究機関で参照される第一級の史料として認識されることとなる。


◇========◇

次回12月29日(日)投稿予定

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

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引き続き、よろしくお願い致します。

弐進座

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