月獣(Moon Beast) 2

 ひさしく忘れた感覚に浸っていた。微睡まどろんだ、何とも甘い気分だった。緊張から解放され、何もかも投げ出し、宙を舞うように身体が軽かった。


 いや、実際に儀堂は宙を舞っていた。光へ向けて引き寄せられるように身体が持ち上げられている。羽のように身体が軽かった。光の先から誘う声が聞こえた。


衛士えいし、お休みなさい』


『衛士さん、さあ早く』


『兄さま、一緒に行きましょう』


 不意に何者かに名前を呼ばれ、意識が沈降していく。


―ああ、そうか。オレはもう……。


 儀堂が己の行く末を、無意識のうちに理解し、受け入れようとしていた。要するに、ここでしまいなのだと、彼は思った。

 意識が光に溶け合うような感覚の中で、ささやかなざわめきが耳朶を揺らした。

 羽虫のような、か細い音だった。


―五月蠅い。邪魔だよ。


 耳元を払おうとして、身体の自由が利かないことに気がついた。


 耳朶の揺らめきは、幾重にもなり、意識を叩いた。羽虫のような音は、いまや童の泣きわめくような騒がしさとなった。


 儀堂は再び振り払おうともがいたが、身体の自由はきかず、鬱屈が堪っていく。せめて黄泉路くらい、思うまま振る舞わせてもいいはずだ。それなのに、オレの意思は一切効かない。これでは現世と同じではないか。なおも足掻こうとする儀堂の身体を囁き声が包んだ。


『衛士、よくやりました』


『衛士さん、もういいのよ』


『兄さま、早くこっちへ』


 ただ柔らかで、一切の他意が感じられない労いの言葉だった。にもかかわらず、儀堂は腑に落ちなかった。ふと疑念が巻き起こる。


 オレはいったい何をやったのだ? 何がもういいのだ。どこへ行けというのだ。

 何一つやっていない。何も満たしていない。還るところなどない。

 そうだ。

 第一、オレは約束したではないか。


 疑念はやがて憤怒へ転じた。思い出した。


 そうだ。オレはまだ根絶やしにしていない。

 オレの世界をぶち壊しやがった、あの黒玉がまだ残っている。

 なのに、もういいだと? 巫山戯ふざけるな。


 激昂しようにも、身体に力が入らなかった。金縛りも違い、まったく神経が繋がっていない。

 置物のような肉の殻に閉じ込められた感覚だ。

 相変わらず、儀堂がよく知る声に囁かれ、全身を包み込むように支配されている。


 畜生、誰か何とかしろと思ったときだ。


 羽虫の音が一際大きくなり、それらが一つづりの音声となった。


『起きよ!! 妾を捨て置くな!!』

「ネシス……!?」


 ふいに力が入り、呼吸器が回復し、大気の流入を再開しはじめた。

 同時に激痛を覚える。


「ぐっ…あああああ!!!」


 脳内物質の緩和しきれぬほどの痛覚だった。身もだえようにも、あまりの激痛に身体は動かすことができなかった。口内は鉄の味で満たされている。うっすらと目を開けると、視界は真っ赤に染まっていた。赤い膜がかかった虹彩に、ひしゃげた第一砲塔が映し出されていた。砲身が吹き飛び、黒煙と橙色の炎が噴出している。


 儀堂は第一砲塔の爆発に巻き込まれていた。艦橋直上の防空指揮所は、露天のため、身を守る術は一切無かった。


『ギドー、返事をせよ!!』


 耳元でネシスの声が割れて木霊していた。苦痛の中にありながら、思わず儀堂は苦笑した。鬼もくのだなと思う。


「ああ……」


 かすれた声で返事をする。意識が朦朧としていた。


『何があったのじゃ? おぬしの生気を感じ取れぬぞ』

「だろうな……」


 再び昏倒しつつあるのを自覚する。次は二度と目覚めることはできないかもしれない。


『おい、ギドー! ギドー! 許さぬぞ! ここで――』


 ネシスの声が遠ざかっていく。やがて一切何も聞こえなくなった。



 一瞬のことだったが、興津は何が起きたかはっきりと覚えていた。艦長の儀堂が防空指揮所に上がり、まもなく電信士が蒼い顔で艦橋に飛び込んできた。彼は電文ではなく、口頭で入電内容を伝達した。本来ならば、怒鳴りつけるところだったが、それには及ばなかった。


 電信士は口から泡を飛ばしながら言った。


「六反田閣下からです! 合衆国軍が反応弾爆撃が再開すると……もうすぐ始まります!」


 直後、興津は艦内電話を儀堂の耳当てレシーバーに繋いだ。彼が上官に危機を知らせたとき、第一砲塔に巨大な黒い線が突き刺さった。


 月獣から放たれた黒いトゲだった。それは砲塔内に装填された十センチ砲弾の信管を誤作動させるや、爆発によって第一砲塔を前衛的な鉄のオブジェに変貌させた。


 爆風は第一艦橋にも及び、数名の死傷者が出た。興津も右腕を負傷したが、行動に支障はなかった。彼は副長として、とるべき処置を即座に行った。医療班を招集し、交代要員を配置した。彼は決して無能ではないと周囲に証明した。


 そして、血や肉片で塗装された艦橋から防空指揮所へ上がった。彼の上官の安否を確かめるためだった。


 彼の上官はすぐに見つかった。


「艦長………」


 彼の上官は半身に酷いやけどを負っていた。それだけではない。第一砲塔の一部だった破片がいたるところに突き刺さっている。


 あまりの惨状に言葉を失うも、興津は成すべきことを行った。例え形式であっても生存確認を行う必要がある。彼は儀堂の側に駆け寄り、脈をとろうとして、その必要が無いと気がついた。


「うう……」


 横たわった上官がうめき声を上げていた。


「艦長……!」


 すぐに軍医を呼ぼうと興津は立ち上がったが、高声令達器から流れた音声によって制止された。


『この艦の者よ! 誰でも良い。早く妾の元にギドーを連れてくるのじゃ。さまなくば、そやつは身罷るぞ!!』



 応急処置を施された儀堂の身体が、魔導機関室メイガスルームに運ばれた。軍医は治療に拘泥しなかった。彼の目から見て、<宵月>の設備では処置の施しようがなかったからだ。


 儀堂の身体は担架に乗せられたまま、室内中央に降ろされた。


「あなた達は直ちに退出してください」


 御調みつぎ少尉は有無を言わせぬ口調で命じた。儀堂を運んできた兵士達は、わずかな皺を眉間に刻みつつ、従った。彼等とて上官の行く末を案じていたが、やるべきことが山ほどあった。


 人払いを済ませると、御調はすぐに水密扉を施錠した。踵を返し、壁に立てかけられた銀色の筒、魔導核マギアコアに歩み寄る。


「ネシス、聞こえますか。儀堂少佐がそこに……」


 筒の中へ向けて、語りかける。くぐもった声が返された。


「わかっている。御調よ、妾をここより出してくれ。口惜しいが、今の妾には出来ぬ」

「……わかりました」


 ネシスの視力は回復していなかった。御調は魔導核のハッチを開けると、ネシスを抱き起こした。


「何をなさるのですか?」

「ギドーは死なせぬ。疾く、アヤツの元へ妾を案内あないしてくれ。時間が無いのじゃ」


 ネシスは殺気だっていた。口答えをしようものなら、何のためらいもなく御調を殺しそうだった。御調は恐れこそ抱かなかったが、ネシスの内に秘めた覚悟に困惑を覚えていた。


 無言のまま、御調はネシスを抱えると儀堂の横に降ろした。ネシスは寄り添うように、身体を横たえるとそっと儀堂の耳元へ口を寄せた。


 彼女の誓約者は、虫の息となり、もはや呻くことすらままならなかった。頬撫でると、火傷と裂傷でささくれ立っていることがわかった。


「ギドーよ。お主を死なせるわけにはいかぬ。死なせとうない。だから……」


 ネシスは言葉を詰まらせた。その先を口にすることを躊躇い、苦悶の顔を浮かべていた。


「すまぬ。妾は……」

「や……るな……」


 かすれた声がネシスの耳を打った。光のない瞳で、ネシスは儀堂の顔を見た。


「ギドー……?」

「あや……まるな……。お前との約束はまだ……」


 途切れるように言うと、儀堂は呼吸を止めた。


「艦長……!」


 駆け寄ろうとする御調の前に、赤い方陣が展開される。方陣はネシスと儀堂を取り囲むように形成されていた。


「ああ、お主の言う通りだ」


 ネシスは一切の迷いを捨て去った。


「許せとは、もう言わぬ」


 方陣が輝きを増し、御調は思わず目を細めた。最後に彼女の目に映ったのは、上官の首筋に牙を立てようとする鬼の姿だった。


「お主の命運、もらい受けるぞ」


◇========◇

次回7月14日(日)投稿予定

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