月下の邂逅(Moonlight rendezvou) 5
【東京 世田谷 儀堂家1F書斎】
「!!!!!」
声にならぬ悲鳴を上げて、儀堂は覚醒した。
1月にも関わらず、じっとりと全身が汗に包まれている。
荒くなった呼吸を整え、儀堂は机の椅子に座り直した。彼は今、書斎にいた。かつては父の部屋だった。
ふいに足下が濡れていることに気がつく。ぎょっとして見れば、グラスが転がっている。どうやら寝ている間に、手から零れ落ちたらしい。
何かふくものを探し求め、むなしさに襲われた。どのみち乾くだろう。放置したところで、彼を叱るものはこの世にいない。
グラスを拾い、机の上に置くと、備え付けの一番下の
父の
「いったい、いくらしたのやら……」
遺品を整理するまで、彼は知らなかった。儀堂の父も酒好きだったが、人並みというところだった。晩酌で一合飲めば、事足りるような人物だった。
コルク栓を開け、琥珀色の液体を注ぐ。一口飲むと、ほのかなピートが喉から鼻へ抜け、とろけるような甘みが後を引いてくる。冷えた身体に僅かだが熱が入った。
儀堂はグラスを置くと、読みかけの日記を閉じた。満州から父の遺体代わりに届けられた、遺品の一つだった。一番上の
書斎の窓から怪しい光が射してきた。雲間から満月が顔を覗かせ、儀堂の手に握りしめられた遺品を照らし出す。月の光を浴びて、黒く輝いていた。
儀堂の父は満州で戦死していた。彼の父は大陸の荒野、そのどこかに眠っている。あの日、黒い月と魔獣が全世界を蹂躙した日、彼の父は満州で味方の撤退を支援するため殿をつとめた。大よそ一週間にわたる遅滞防衛戦を続けた末、彼の父は命と引き替えに義務を全うしていた。父の遺品を届けたのは、戦友の大佐だった。確か
東島は一冊の日誌と、一丁のルガー、そして一振りの軍刀を戦友の息子に手渡した。
書斎の窓から月を望む。雲は晴れ、満月が冷たい光を放っている。
そうだ。
……あの日もこんな夜だった。
彼が家族の
これまで何度思ったことだろうか。
あのとき海軍兵学校ではなく、陸軍士官学校を受けていれば。
あるいは海軍省の人事局へ陸上勤務を申し出ていれば。
せめて、疎開先から動くなと手紙を出していれば。
この家は冷たくならずに済んだのかも知れない。
「あのときオレが――」
儀堂は改めてルガーを握りしめた。猛烈な誘惑に駆られた。こめかみに銃口を押し当て、静かに目を閉じる。これまで幾度となく繰り返された儀式だった。しかし、一度たりとも引き金を引くことはなかった。
もとより死ぬつもりは無い。
自分はいつでも家族の下へ飛び立てると、そう自身へ言い聞かせる儀式だった。
やがて呼吸が整えられ、鼓動が静かになっていくのを感じる。精神の平衡が回復されていく。
「まだだ」
まだそのときではないと唱え、この儀式の幕は閉じる。
「まだ、そのときでは――」
「みぃつけた」
不意に儀式は中断したのは、少女の声だった。
「なっ……」
目を開ければ、窓の外、庭に月を背負って少女が立っていた。艶めかしいフォルムから、一糸まとわぬ姿だとわかる。
影で顔は見えなかったが、彼はその
彼は書斎の椅子から立ち上がると、窓を開けた。
「お主だな。あの日、妾を堕としたのは」
「その通り」
少女は満足げに嗤ったようだ。
「会いたかったぞ」
「奇遇だね。実は私も君に会いたかった」
角の生えた少女は小首をかしげた。心外だったらしい。儀堂は構わず続けた。
「どうしても聞きたいことがあったんだ」
「ほう、聞きたいこととな」
面白げに彼女は応じた。
「二つばかりある。ひとつ、あの黒い月の中身は君だったのか? ふたつ、あの日現れた魔獣どもは君がけしかけていたのか?」
少女は視線を逸らし、少しばかり考えたようだ。そして結論を出すと、改めて儀堂の顔を見据えてきた。
「是か非で応えるならば、二つとも是だな。あの黒い月は妾であり、それより
「なるほど、誠にありがとう」
満足げに肯き、儀堂はルガーの引き金を引いた。もちろん自分では無く、目前の鬼に向けて。
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