月下の邂逅(Moonlight rendezvou) 4

【東京 ???】


 夕闇の中、焼け野原の街を走っていた。


 息が切れるのも忘れ、ただ走っていた。


 そのとき世界は混沌と惨劇に彩れていた。


 鼻をつく腐臭、甲高い乳飲み子の鳴き声、母を求める幼子、あるいは子の亡骸に子守歌を聴かせる母、狂ったように笑いながら千切れた伴侶の手に頬ずりをする夫。


 戦禍に揉まれた人々の波、それらをかき分けながら儀堂は走っていた。


――違う、嘘だ! 手違いだ!


 それは儀堂の願望だった。叶わぬ願いだった。


――そんなはずはない!


 そうだ。父の計らいで小倉こくらへ疎開したと聞いていた。それがまさか東京へ戻ってきているなど、あるはずがない。


 それも、あの黒い月が現れた東京に……!


 やがて儀堂は運命へ辿り着いたとき、夜の帳が完全に降りていた。


 彼は赤い門をくぐった。敷地内のいたるところでドラム缶に焚き火がくべられ、暖を取ろうとする人々が取り巻いている。


 東京帝国大学、そこは臨時の野戦病院として使われていた。


 儀堂の応対をしたのは、そこの医学生だった。


 彼は『儀堂』の名を聞くと、血痕が染みついた帳簿を取り出した。


 弱々しい白熱球の灯の下でページをめくられていく。早くしろと叫びたくなるのをようやく堪える。


 やがて、ある頁でその学生は手をとめた。


 顔を上げた瞳には虚無と憐憫が映し出されていた。


「お気の毒ですが……」


 枯れた声で絞り出すように言い、彼は儀堂を大講堂へ案内した。内部は冷たく静まりかえり、二つの足音が木霊していく。


 前を歩く学生が何事かを言っているが、儀堂の耳には聞こえていなかった。彼は、この静寂に押しつぶされつつあった。


 講堂内は、大小さまざまな塊で埋め尽くされていた。それらは白い布やムシロで包まれているものもあれば、そのまま無造作に放置されているものもある。


 幽鬼のようにゆらゆらとした足取りで儀堂は講堂の奥へ進んだ。やがて、ある一角で学生の足が止まる。

 白い塊が三つ、寄り添うように横たわっていた。どれもやけに小さい塊だった。二つとも抱えて持ち上げられそうなほどの大きさだ。


「こちらが、ご家族です」


 不意に学生の声が聞こえるようになった。


「その、どうかお気をしっかり……」


 学生は白い布をゆっくりと剥いだ。


 彼の精神を不可逆的に歪ませた瞬間だった。

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