月下の邂逅(Moonlight rendezvou) 2
【東京 世田谷】
三軒茶屋を少し外れた、三宿。夕暮れに包まれ始めた頃、住宅街を一人の若い海軍将校が歩いて行く。服装は黒い詰襟の第一種軍装、同じく黒い
やがて将校はある家の前で足を止めた。表札には『儀堂』と書かれている。
家門をくぐり、
――どういうことだ?
玄関のランプが灯っている。ありえないことだった。灯火管制下というわけではない。そもそもこの家の灯が点くはずが無いのだ。
訝しながらも玄関の引き戸を開ける。鍵はかかっていない。
「誰――」
誰かと尋ねる前に、犯人が出てきた。
「あ、衛士さんお帰り!」
「なんだ、小春ちゃんかい」
「なんで、ここに?」
「うちの兄貴殿の命令。『あいつの様子を見て来い』ってさ。そうそう家の中、風通しておいたよ。もうかび臭くって」
あっけらかんと小春は言った。彼女が生まれた頃から、儀堂と戸張は付き合いがあった。近所で、お互い軍に勤めている家系だったためだ。小春にとって、衛士は年の離れた兄ような存在だった。
「それはありがとう。あいつ、寛も
「休暇だってさ。なんの音沙汰も無く、いきなり『ただいま』よ。こっちの身にもなれっての」
ぶすりとした顔で小春は言った。
「まあ、それは仕方ないよ。許してやってくれ」
「衛士さんもひとのこと言えないからね?」
「うん?」
「入院してたのに、なんで知らせてくれなかったの? うちに連絡してくれれば、あたし見舞いに行ったのに……」
「それは――」
参ったなと儀堂は思った。先月まで彼は呉の病院に入っていた。戦闘により、重傷を負ったためだ。実のところ、彼はこの家に戻るつもりは無かった。退院したら、すぐにでも原隊へ復帰するつもりだった。肝心の復帰先の艦が沈んでしまったため、次の配置が決まるまで帰郷せざるをえなくてしまったのだ。
「ごめんよ。なに、たいした怪我じゃ無かったんだ。それに入院先は、
「遠いと言っても、内地でしょ? あたし一人でも行ったのに」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」
儀堂は心からそう思った。この子なら本当にやりかねない。
「ま、いいけど。さあ、早く上がって。お茶いれるわ。あと晩ご飯の支度しているから、待っててね」
「ああ、うん」
儀堂が居間でくつろいでいると、しばらくして玄関の開く音がした。おおよそ誰か察しがついた。
「よお、戻ってきたか」
戸張だった。飛行服にジャケットを羽織っている。片方の手に日本酒の瓶、もう片方には包み紙を持っていた。
「やあ、久しぶり」
「全くだ。
1年ほど前だ。豪州のブリスベンに現れた黒い球体、通称
「よく、オレがここに戻るとわかったね」
「そりゃあ、まあ、付き合いは長いからな。ああ、そうだ。おい、小春! いるんだろ!」
台所にいる小春が、居間にやってくる。妙なことに不機嫌そうだった。
「なに、もう来たの?」
「お前、兄貴に向かってその態度はないだろ。少しは優しくなれよ」
「はいはい。用件は何でしょうか、兄貴殿」
戸張は辟易した様子で、包みを差し出した。
「築地で買ってきた。獲れたての鯖だ。オレとこいつの分あるから、焼いてくれよ。ちょうど飯の支度してたんだろ?」
「いいけど、あたしの分は?」
「お前のはもう家に届けたから、帰って食えよ。母上殿が用意してるさ」
「はあ? どういうこと?」
「鯖焼いたら帰れってことだよ。もう遅い時間だからな」
「兄貴が送ってくれればいいでしょ」
「オレはこいつと今日は飲み明かすつもりだからよ」
「いやだ! あたし帰らないからね!」
その後、10分ほど戸張兄妹間で押し問答が続いた。最終的には儀堂の「別にいいじゃないか」の一言で、妹側の勝利と判定された。
鼻歌交じりに、台所に戻る妹の後ろ姿を見送りながら、戸張兄は頭をかいた。
「あいつの負けん気の強さには参るな」
「君もひとのことは言えないと思うよ。だいたい同じ血が流れているわけだから」
「そりゃそうだ。やれやれ」
「それに君には悪いが、明日の朝は早いんだ。人事局に行かなくてはならなくてね。だから飲み明かすなんてできないよ」
「そうなのか?」
「ああ、そろそろ次の任官先が決まるらしい」
「早いな。さすがは20後半で大尉になるヤツは違うな。引く手
「そうなのかな。まあ、なんにしろオレには有り難い話さ。だいたい、ここに居たところで……」
何かを言いかけ、儀堂は止めた。
「うん?」
「いや、なんでもない」
「そうか……おーい、小春!」
台所から「なに?」と大声で返される。
「湯飲みと、あとなんか適当に肴を頼む!」
再び「はーい」と大声で返される。
「おいおい、今から始めるのかい?」
「別にいいだろ。せっかくの娑婆だぜ。楽しめや。次いつ飲めるかわからねえぞ」
そう言うと、まだ茶が残っている儀堂の湯飲みに戸張は酒を注いだ。
「道理だね」
と苦笑しつつ、儀堂は
戸張兄妹が帰ったのは、それから3時間後のことだった。戸張にしては健闘した方だった。
儀堂と同じく酒好きの戸張だったが、残念ながら下戸だった。
「ちょっと、しっかりしてよね!」
妹の叱咤を受けながら、ふらふらな足取りの戸張兄は家路についていく。
その後ろ姿を軒先から儀堂は見送った。久しぶりに儀堂の内面に安らぎに近いものが生み出されていた。
短い時間だったが、家庭的な空気を味わうことが出来た。ふと儀堂は気づいた。要するに戸張なりの気遣いだったのだ。
「ありがとう」
小さくなっていく、二人の後ろ姿に礼を言い、彼は家へ戻った。
玄関を開け、ただいまの一言。今度は誰も返事をしなかった。
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戸張家の灯りが見えてきた頃だった。ためらいがちに小春は兄に尋ねた。
「ねえ、衛士さんが戻ってきたのって……」
戸張は足下こそおぼつかなかったが、意識ははっきりしていた。妹の言わんとするところを彼は肯定した。
「ああ、もうすぐ命日だからな」
三年前の1942年1月11日、それは彼の友人、その一家が魔獣の餌食になった日だった。
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