トラ・トラ・トラ(TORA TORA TORA) 3:終
「ママ! パパは!?」
「大丈夫よ! きっと後で会えるわ!」
シェリルの母、ヘレンは衣服を娘のリュックに詰め込むとすぐに家を出た。
彼女らはついていた。家を出た瞬間、迎えのスクールバスが到着した。
「さあ、二人とも走って! 早く乗るんだ!」
運転手がドアを開けて、乱暴に手を招いた。二人は追い立てられるようにバスへ乗車した。
バスはウィーラー陸軍飛行場へ向けて走った。ラヂオ放送では複数の避難場所に指定されていたが、果たしてどれだけの人間がたどり着けるか神の知るところだった。
ウィーラー陸軍飛行場はオアフ島の中心部にあった。そこへ向かうためには、ホノルル市内を抜ける必要があった。
案の定、市内の道路は避難民であふれかえり大渋滞を引き起こしていた。さらに不味いことにホノルル市は化け物の襲来を受けつつあった。
市内各所で小規模な爆発が発生し、火の手が上がっているのが見えた。空からは不気味な鳴き声が木霊し、遠くから砲声と銃撃音が響いていた。
シェリルは母親にしがみつきながら、外の光景をただ震えながら見ていることしか出来なかった。
――だいじょうぶ、きっとパパがこんな怪物やっつけてくれる。神さま、どうかパパに会えますように……!
1時間ほどたった頃だった。ようやくホノルル市を脱しようとしていたとき、それまで牛歩並でもあっても前進していた車列が一切動かなくなった。何事かとヘレンは思った。
窓の外を見ると、血相を変えた市民達が車から降りて逆方向へ逃げていくのが見えた。
「運転手さん……」
誰かがついに声を上げる。バスの運転手は血相を変えて、振り向いた。
「みんな降りろ!! 早く逃げるんだ!!」
蛇の化け物だ! 裏返った声で叫ぶと運転手はバスを飛び出した。他の乗客も我先にと飛び出し、シェリルとヘレンは危うくはぐれそうになった。
他の乗客に急かされながら降りる途中、フロントガラスの向こうに緑色の炎が見えた。禍々しいコバルトグリーンの火炎が次々と車列もろとも群衆を焼き払っていく。車列からもうもうと煙があがり、高熱でゆらめく大気の向こうにヒュドラの姿があった、
「ママ!」
「シェリル、さあこっちに来て!」
バスから降りるや、ヘレンは娘を抱きかかえ、走り出した。海軍軍人の妻であった彼女は非常時に対する覚悟を、それなりに備えていた。
今はとにかく、あのモンスターから離れなければいけない。ヘレンは貴重品を入れたバッグ以外、全ての荷物を投げ捨て、逃げ出した。
彼女は人混みの間を縫うように走り、何とか近くの広場へ辿り着いた。あの
ヘレンは少しだけ立ち止まり、娘を抱え直した。胸に顔をうずめていたシェリーが見上げてくる。可哀想に怯えていた。
「ママ……わたしたちどうなるの?」
「逃げましょう。パパがきっと助けてくれるわ」
ヘレンは娘の髪をなでた。シェリルは宝物を見つけたように瞳を輝かせた。
「そうよね! パパはヒーローなんだもの!」
「ええ、そう。きっと大丈夫」
ヘレンは夫のマッケンジー大尉と合衆国軍に絶大な信頼を寄せていた。その意味において、彼女が真珠湾の光景を見ずに済んだのは幸運かもしれなかった。少なくとも死ぬ間際まで彼女は絶望から無縁でいられた。
マッケンジー親子のいる広場へ大量の火球が投下された。火球は着弾後に爆発すると、紫色の炎を周囲へ飛散させた。爆発の瞬間、ヘレンは娘に覆い被さった。ヘレンの直接の死因は爆発の直撃では無く、飛び散ったコンクリートの破片によるものだ。小さな破片だが頭部を貫き、脳梁を破壊、苦しむ間もなくヘレンの息を止めた。
「ママ……おもい」
母親に地面に押しつけられたシェリルは、自分を包む腕の力が急に失われたことを感じた。直感的に彼女は自分の母の死を理解したが、肯定したくなかった。
「ねえ、ママ、起きて!」
シェリルは冷たくなった母を揺すった。見たところ頭の小さな怪我以外はどこも出血していない。だからすぐに起きてくれると彼女は信じようとした。
「ママ、パパのところへいかなくちゃ。はやく起きて! 起きて!」
シェリルは泣きながら母を起こそうとしていた。周囲の人間が逃げ惑う中で、うなり声が迫ってきていた。ヒュドラだ。広場に向かってきていた。
「ママ、逃げなきゃ! いやだ! 早く起きてよ!」
シェリルの声は母には届かなかった。いくら泣きわめこうと、彼女の母は目を覚まさなかった。そして彼女の元に死が迫りつつあった。
「ひっ……いやっ!」
振り向いた先には、ヒュドラが牙を剥き出しにしていた。十数頭分の眼光が幼い身体に突き刺さる。彼女は自分の死を確信した。不思議に恐怖と共に安堵を覚えた。これで逃げずに済むと思った。そして母の元へいけると。やはり、彼女は自分の母の死を理解していた。
腹を空かせていたらしいヒュドラは、この人間の子どもを食い殺すことにした。母子ともに自分の腹へ納めようと一斉に襲いかかった。
戸張が20ミリ機関砲をたたき込んだのは、まさにそのときだった。
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「いい気になるんじゃねえ!!」
20ミリ機関砲の振動、それが操縦桿越しに伝わってくるようだった。空の要塞と呼ばれるB-17爆撃機すら貫く大威力の機関砲だ。大蛇ごときの鱗など易々と貫通した。断末魔とともにヒュドラの首が2本打ち倒された。
「ざまぁみろ!」
戸張は大きく旋回すると、再び攻撃のため侵入コースをとった。地上のヒュドラは新たな目標に対して備えようとしている。どうやらようやく戸張を脅威と認識したらしい。面白くなってきたと戸張は思った。だいたい気にくわなかったのだ。化け物どもは、どいつもこいつもオレ達を無視しやがる。帝国海軍の精鋭を何だと思っていやがる。
「なめやがって」
カトンボと思っていた零戦の一撃を食らい、ヒュドラは怒りに囚われた。彼ら(彼女ら?)は生き残った頭を全て戸張の機体に指向させた。
「そうだ! いいぞ! 来やがれ!」
戸張の要求通り、ヒュドラは火炎を浴びせかけてきた。緑色の火線が幾重にも空に描かれる。しかしどれも無秩序で戸張の機体を捉えたものはいなかった。戸張は余計に腹がたった。こんなやつに飯山大尉はやられちまったのか。あれは完全にだまし討ちのまぐれ当たりだったわけか。
「
自分でも意味のわからない罵倒とともに、20ミリ機関砲をヒュドラにたたき込む。今度は真正面から掃射し、個体の中でも一番デカい頭の眉間に砲弾をぶち込んでやった。どうやらその身体のボスだったらしい。急速にヒュドラは勢いを失った。そこから先は
戸張は念のため高度をとり、戦果を確認した。ついでに、あの米国人の女子が生きているのも見て取れた。戸張は胸をなで下ろした。成すべきことを成したと思った。少なくともあのとき、あの子の母親が庇って死んだのを目にした瞬間、自分が抱いた人間的な怒りは誤りでは無かったと確信した。ふと奇妙なことに気がついた。広場にいる米国人が何かをしている。それが意味することを理解した途端、戸張は戸惑いを感じ、すぐにこの場から離脱を決意した。去り際に機体をバンクさせる。
――手なんて振るんじゃねえよ
広場の米国人は、突如現れた灰色の機体へ感謝の意を現わしていた。飛来した理由がなんであれ、彼らの救世主だったことに変わりはなかった。
戸張は再度振り向き、ヒュドラの死体をにらみつけた。
――クソ蛇が。オレの目の前でガキを殺そうとしやがって。
戸張は故郷に残してきた妹の顔が思い浮かべた。年の離れた生意気な子だが、自身よりよほど頭の良い自慢の妹だった。あの米国人の女子と同じくらいの年だった。
ホノルルを後に、戸張は帰投のため高度をとった。もはや、ここで出来ることは何もない。弾も先ほどの戦闘で撃ちつくした。あとはあの子どもが、ちゃんとした大人に保護されることを祈るくらいだ。はたして自分にそんな資格があるのか疑問を思うところだが。何せ戸張は真珠湾を攻撃するために来たのだから。止め処もなく思いを巡らせる内に味方の編隊が見えてきた。戸張と同じく帰投へ向けて進路をとっている。その中には戸張がはぐれた戦闘機隊の僚機もいた。
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第一次攻撃隊を率いていた淵田は苦々しい思いでオアフ島を後にした。彼の背後には攻撃隊の残余が散り散りになりながらもついてきた。いったいどれほどが離脱できたのだろうか。攻撃隊は戦闘らしい戦闘もせずに、ただオアフ上空を曲芸師みたいに飛び回るうちに化け物どもに打ち落とされていた。
「よろしいのですか?」
松崎が遠慮がちに問うた。
「構わん。もはや襲撃は無意味だ。状況は我々の判断を超えて変化している」
無感情に淵田は応えた。内心では暗澹たる想いが渦巻いている。頭が痛かった。そうだ。誰が予想しえたのだろうか。真珠湾があんな化け物どもに蹂躙されるなど。オレはなんと報告すれば良いのだ?合衆国軍は魑魅魍魎の餌食になったと言い、いったい誰が信じる。
淵田の不安は杞憂に終わった。少なくとも南雲機動部隊の将兵は彼の言うことを信じるだろう。
淵田機へ艦隊から入電があった。それは暗号化されない平文で受信された。
内容は次の通りだった。
『我、正体不明ノ怪物ノ攻撃ヲ受ク。至急戻ラレタシ』
◇========◇
ここまで読んでいただき、有り難うございます。
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弐進座
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