トラ・トラ・トラ(TORA TORA TORA) 2
淵田中佐の命によって、先行した戦闘機隊はフォード島上空へ到達した。
目標は島にある飛行場だ。彼らの役目は、そこから飛び立った敵戦闘機を速やかに捕捉、そして撃滅することだった。しかし、それは叶わなかった。
「どうなってやがる……なんだこりゃ?」
地表をもう一度確かめる。
飛行場のいたるところから黒煙が立ち上っていた。敵の戦闘機―彼が倒すべきP-40が数十機、無残なスクラップと化していた。味方の攻撃とはとうてい思えない。はっきりと彼は言い切ることができた。飛行場の機体は、どれも異様な破壊のされ方をされていた。いくら20ミリ機関砲が強力とはいえ、金属製の機体を煎餅のように押しつぶすことなどできようがなかった。それに加えて、滑走路には不可解な跡が残っていた。まるで何かを引きずり、あるいは這ったような帯が残っていた。帯の幅は太く、滑走路を完全に覆うほどだった。
破壊されていたのは、機体だけではなかった。格納庫の屋根はめくれ上がり、活火山のごとく火を吹き上げている。戸張が格納庫の状況を確認しようと、さらに高度を下げたときだった。航空燃料へ引火したらしい、強烈な閃光とともに格納庫が吹き飛んだ。
「畜生!」
戸張の視界が漂白される。目視確認のため、ゴーグルを外していたのが不味かった。戸張は反射的に操縦桿を起こし、地表へ激突する寸前でようやく機体を起こすことに成功した。
悪態をつきつつもゴーグルをかけ直した戸張は、ふと列機が真横を並行していることに気がついた。彼の上官で、編隊長の
飯山は
怒鳴り合うような会話が開始される。この頃の零戦は無線機を搭載していなかった。意思疎通をはかる際は、文字通り直接話す以外になかったのである。
「貴様! 大丈夫か!!?」
「問題ありません!! アメ公の戦闘機が軒並みスクラップになっています!!」
「事故か!!?」
「不明です!! ただ……」
怒鳴り合いは突然中断された。海面から緑色の火柱が立ち上り、飯山の機体を包み込んだ。
航続距離をえるため極限まで機体の耐久性を犠牲にした零戦は、飴細工のように溶けて落ちていった。
「っ……!!」
咄嗟に戸張は機体を左へ急旋回させた。天蓋を開いたまま、海面を凝視する。敵の正体が明らかになったとき、戸張は全身の毛が逆立つのを感じた。
「化け……物」
そうひねり出すのが精一杯だ。エメラルドグリーンの水面に不気味で、そして圧倒的に巨大な影が揺らめいている。それは付近に係留された戦艦と同等以上の大きさだった。明快な比較対象がある分、その脅威は直接的な恐怖を呼び起こした。戸張は混乱し、思考を放棄しかけた。そのときだった。水面の影、その一部が正体を現わした。
「
それは鋭い鱗に覆われた大蛇の頭だった。巨木のように太い首が続いて現れる。しかも、それは一つだけで無かった。
「
そうとしか形容のしようが無かった。無数の大蛇の首が現れ、それらは一つの胴体に集約されていた。場違いな情景が戸張の頭を過ぎる。生物学の講義で見た何かを思い出していた。そう、あれだ。樹形図だ。
樹形図の蛇は、後の「ヒュドラ」と呼称される。しかし、そんなことは今の戸張にはどうでもよかった。
彼は
突如現れたヒュドラはフォード島飛行場に背を向けた。その先には太平洋艦隊司令部があった。
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地獄の釜をひっくり返したような混乱の中、いち早く指揮系統を回復したのは戦艦<アリゾナ>だった。他の艦と違い、<アリゾナ>には多くの将兵が艦内に残っていたのだ。ホノルル市内からやってくる見学予定の少年少女を受け入れるためだった。小さな客人を迎えるために
星条旗が取り出されたときだった。左舷に停泊していた工作艦<ベスタル>のデッキ中央が爆発炎上した。<アリゾナ>のデッキに集まった将兵があっけにとられる中、ベスタルは黒煙を上げ、どんどん傾斜していく。
「対空警戒!」
ブリッジにいた艦長のヴァルケンバーグ大佐の反応は早かった。彼は<ベスタル>の損害を爆撃によるものだと推測していた。あながち的外れでは無かった。
やがて、<ベスタル>以外の艦も攻撃を受けていると判明した。そして、それがジャップの航空機では無く異形のモンスターによるものだとわかってきた。
「こんなモンスターどもが、なぜ真珠湾に?」
疑問に答えられるものはいなかった。それよりもやるべきことがあると、ヴァルケンバーグは気づいた。
「総員、反撃だ。あのクソ化け物どもを生きて返すな。ここが合衆国領であることを思い知らせてやれ」
ヴァルケンバーグの命令により、<アリゾナ>の火器群が一斉に火を噴いた。
両舷の機関砲と機銃がそれぞれ化け物の群れへ鉛玉の嵐を見舞う。それらはクラァケンの触手を寸断し、ヒュドラの頭を数本吹き飛ばした。
高角砲は、空を飛ぶ有翼型生物へ弾幕を張った。それらは人型の生物にコウモリの羽をつけたようなもので、空から不可思議な紫色の火球をオアフ島各地へ落としていた。火球は落下後に激しい爆発を起こし、周囲を焼き払った。ホノルル市内は火球によって、各地で火の手が上がっている。
<アリゾナ>は前部と後部に強力な35.6cm砲を搭載しているが、さすがにそれは使えなかった。今、彼女の前後には味方の戦艦が連なって停泊している。こんなところで主砲を使えば、同士討ちを招く恐れがあった。もし主砲を使うとしたら、湾外へ出て距離を取るしか無かった。
「マック、湾外へ出られないか?」
ヴァルケンバーグは、航海士官のマッケンジー大尉を艦内電話で呼び出した。マッケンジーは後部ブリッジにいた。
「<ネバダ>と連携すればあるいは……」
その先を濁して、マッケンジーは答えた。
<ネバダ>は<アリゾナ>に続いて係留された最後尾の艦だった。<ネバダ>が後進してくれれば、<アリゾナ>も続いて湾外へ出られるはずだった。しかし、それは相当な困難なものに見えた。
マッケンジーがいる後部デッキから見えた<ネバダ>は、四体の巨大なクラァケンによって羽交い締めにされいた。そして火器群が無秩序な反撃をしているのを見る限り、指揮系統の回復にしばらくかかりそうだった。現に艦隊電話で<ネバダ>のブリッジを呼びだしているが、繋がらなかった。
「サ-、本艦の火器を<ネバダ>に集中すべきです」
「マック、君は味方を撃てというのかね?」
ヴァルケンバーグは厳しい口調で問い返した。
「支援です。<ネバダ>の化け物を一掃できれば、彼らは指揮を回復できるでしょう」
「<ネバダ>のデッキには誰もいないのか?」
「私の目から見えるのは、化け物どもだけです」
「……わかった」
ヴァルケンバーグは決心すると、機関始動と微速後進を命じ、操舵手に右舷へ向けるよう斜めに舵を切らせた。
「マック、君が一番<ネバダ>の状況を把握している。射撃の指揮をとってくれ」
「アイ、キャプテン」
やがて右舷側の火器が<ネバダ>を射界に捉えた。
「ファイア! <ネバダ>に張り付いた化け物を吹き飛ばせ」
<アリゾナ>の火器群、そのうち小口径の機関砲や機銃から<ネバダ>のクラァケンへ火線が放たれる。<アリゾナ>の前部甲板に張り付いた頭足生物が、次々と醜悪な肉塊に変わっていく。
そして最後の一体が残された。
「
ただちに射撃が中止される。クラァケンは<ネバダ>のブリッジへ攻撃を集中させていた。このままでは<ネバダ>の指揮系統を喪失する恐れがあった。そうなっては<アリゾナ>脱出の機会は絶望的になる。
「クソッ! 誰でもいい! すぐに、あの化け物を排除してくれ!」
マッケンジーの願いは、全く意外なかたちで聞き届けられた。突如、彼の視界を猛スピードで緑色の機体が横切った。一瞬のことだったが、白地に真っ赤な円のエンブレムが見えていた。
日本軍の九七式艦上攻撃機だった。それは去り際に800キロ爆弾を投下し、<ネバダ>に残された最後のクラァケンを吹き飛ばした。
「なぜ!」
なぜ、
それらの回答を得る前に、新たな脅威がマッケンジーの元へ舞い降りた。ついに<アリゾナ>が敵の攻撃を受けたのだった。それは彼女に破滅的な結果をもたらすものとなった。
<アリゾナ>の後部デッキに巨大な黒い影が落下し、その反動で<アリゾナ>の船体前部がわずかに浮き上がる。艦内で作業をしていた将兵は壁や床に強く叩きつけられ、デッキにいたものはそのまま海へ投げ出された。
後部ブリッジでかろうじて衝撃に耐えたマッケンジーは敵影のあまりの威容に色を喪った。それは古典の挿絵でしか目にしなかった災厄の獣だった。
「ドラゴン……」
<アリゾナ>のデッキに降り立ったのは、100フィート《約30メートル》優に越しそうな、黒いドラゴンだった。ドラゴンの
「アラート! すぐに3番砲塔の弾薬庫に注水を――」
言い終わる前に、彼は自身の予感が正しかったと知ることになった。
ブラックドラゴンはどす黒い火炎を吐き出した。それは2番砲塔の破孔より、<アリゾナ>の内部を焼き尽くし、弾薬庫へ到達。直後、大爆発を引き起こした。
その肉体が輝きに包まれる寸前、マッケンジーの瞳には娘の笑顔が浮かんでいた。
――ああ、どうか神様、あの子を、シェリルをこの厄災からお守りください。
USS<アリゾナ>は後部デッキより真っ二つになり、乗員もろとも海の底へ沈んでいった。
この戦争において、彼女は合衆国海軍の喪失艦第1号となった。
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<アリゾナ>の断末魔は、真珠湾上空を旋回する戸張からも見て取れた。
「轟沈……味方がやったのか?」
敵の艦が真っ二つに沈んだのだ、本来なら喜ぶべきところだが、とてもそんな心境にはなれなかった。
とにかく何もかもが滅茶苦茶だ。戸張は自分の正気を疑い始めていた。無理もないことだ。そこら中を角の生えた醜い天狗どもが飛び交っている。
米国人が見たら、デーモンもしくはデビルと叫んだかもしれない。戸張には真っ黒な天狗としか認識できなかった。
「邪魔だ! どけ!」
進路上の天狗の群れへ戸張は20ミリ機関砲を放った。耳障りな叫び声を上げて、数匹が打ち落とされていく。
――畜生、鞍馬山じゃねえんだぞ
どうすればいいのか、彼にはまったくわからなかった。
戸張に限らず、第一次攻撃隊の誰もが全く同じ心境だった。あるものは当初の予定どおり爆弾を投下したが、目標の戦艦では無く化けダコを一匹吹っ飛ばしただけだった。
戸張たち戦闘機隊も、この想定外の状況にまるでついていけなかった。真珠湾の空を雲霞のごとく天狗が覆い尽くし、数機がそれら避けきれず激突、墜落していた。高度を下げすぎて、飯山隊長のように大蛇の火炎に巻き込まれたものもいる。戸張は高度を維持しながら、とにかく地上の観測を行うことにした。何にせよ、ハワイの状況を誰かが報告しなければなるまい。そして情報は多いほど良いはずだ。
戸張は意を決して、高度を下げた。まずは先ほど爆炎あげた戦艦の上空をフライパスする。かつての太平洋艦隊の主力艦艇、その大半は戦闘能力を失いつつあるようだった。
<アリゾナ>を沈めたブラックドラゴンは他の艦を標的にし始めていた。その他複数の化け物―クラァケンやヒュドラ―による攻撃で浸水し、傾斜しつつある。転覆は時間の問題だろう。
唯一、最後尾の艦だけが化け物の手から逃れている。比較的損害は軽微に見えたが、それは相対的な意味でしか無かった。艦橋部分が破壊され、2番砲塔は完全につぶされ砲身が海へ転がり落ちていた。恐らく長くは持つまい。
「地獄絵図だ……」
海に浮かぶ水兵が化け物に食われるのが見えた。敵兵とは言え、その境遇に同情以上の憐憫に近い感情を戸張は抱いた。
そのまま戸張は対岸の太平洋艦隊司令部へ機首を向けた。数分後、司令部上空に到達した戸張の目には惨状が映し出されていた。太平洋艦隊司令部は飯山大尉を屠ったヒュドラによって破壊し尽くされていた。飛行場と同様にうねるような帯状の足跡に蹂躙され、見るも無惨な緑色の焼け跡が周囲に点在している。
唐突だが、彼はようやく自分が成すべき義務を思い出した。抗しがたい怒りが湧いてくる。それは軍人と言うよりも人として果たすべき責務だった。
飯山大尉は尊敬すべき上官であった。その上官を無残に焼き殺しやがった化け物がそこにいる。
莫迦野郎。ならば報復するしかないではないか。
うねった帯はそのままオアフ島東部へ続いている。進路上にはホノルルがあった。
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