第32話 疲れた顔を晴れやかな表情で
疲れた顔を晴れやかな表情でリュカは笑顔で、彼女の名前を呼んだ。
彼に気が付き振り向き走ってくる彼女は、心配に青ざめていた表情を明るくしていく。花が咲くように華やぐような笑顔だ。その笑顔を見たいと願って、その笑顔を守りたいと戦った。
泣かせて……心配ばかりさせてしまったと謝ろうと胸に抱き、地位も立場もなくこの想いを彼女に伝えるんだとリュカは足を踏み出す。
誰もそれに気が付いていなかった。
今この時を狙うと誰が思うのだろうか。
どんな脅威よりも執念は恐ろしいものだ。
歪んだ口元と満足げな微笑みが浮かんだ。
足がそこで止まっていた。先に出そうにも立っているだけでぎりぎりだ。
込み上げてくる熱と鉄臭さに我慢ならず吐き出してしまう。
赤は見慣れた色だ。だけど、鮮やかすぎるこの赤は誰も見慣れたくないものだろう。
胸から生えた複数本の矢を視界に、吐き出した赤は再び込み上げ、足元に赤を吐き出す。赤い飛沫が水たまりとなって大きく広がる。
耐えられなくなったのだろうか、糸の切れた人形のように体が支えを失った。
差し伸ばされた手に応えることも出来ずに、自身の溢した赤に身を沈めていく。
マリユスの癒やしの炎が燃えると同時に、ジルは矢を放った者を探しに空へ上がった。
赤は再び吐き出され、周囲に赤く広がっていく。
「!? ……オーロル?」
自身の頬に一筋の血を滲ませた矢は地面に刺さっていた。
求めていたものとは違うと、目の前に広がる赤い色に涙が零れ、何度も名前を呼ぶ声が擦れていく。
まだ彼女になにも伝えていないのだと、唇が震える。
支えようと差し出した手は掠めることもなく、取りこぼしてしまったのだ。
自身をいくら責めても物足りないのだろう。それ以上近づくことも出来ず、立ち尽くす。
――ただ一つ脳裏に浮かび上がるのはカロリーヌだ。
苦しげに開けられた瞳はリュカを探す。霞む視界の中で側に居て欲しいと探してしまう。込み上げてくる吐き気に、吐き出される血に声をかき消される。
赤い水たまりから引き上げた手にはあの青い指輪がある。彼を求めるように空を漂うオーロルの手を取る者はいない。
側で癒やしの炎を燃やすマリユスはその手を取る余裕もなく、求められているリュカはオーロルの方を見ているはずなのに気が付いていない。
声に出して呼ぼうにも、口から溢れるのは真っ赤な鮮血ばかりだ。
青い指輪にヒビが生じる。
細かなヒビは音もなく指輪を崩す。
オーロルの手は力無く自身の溢した赤に落ちていった。
――パリィィィン
繊細な硝子の器を割るような乾いた音が辺りに響き渡る。
何事かと顔を上げたマリユスは突風に晒された。真っ赤な血を流すオーロルが飛ばされしまわないように抱きしめ、自身もまた飛ばされないようにと踏ん張る。
近くに居たリュカはどうしただろうかと見渡せば、光に包まれていた。
この突風はリュカがと疑問を向けようにも、俯いたその表情がわからず困惑する。
何かを呟いていると耳を澄ますが、声は風にかき消されてしまっていた。
オーロルが油断の許さない状況であるなか、リュカのあの様子だ。声を掛けても気が付く素振りはなく、嫌な予感に心臓は早鐘を打つ。
顔を上げたリュカから流れる涙、怒りとも、悲しみとも取れない表情に胸が締め付けられる。
どれだけ彼は苦しめばいいのだろうかと、どれだけ彼に苦しみを与えるのだろうと、浮かび上がってくるのはカロリーヌの慈愛に満ちた笑みだ。
市井では聖女慈母のような人と崇められているというのに、彼女の本性は魔女そのものだ。それを知っているのはリュカに近しい人物だけだろう。
「もう……いや、だ」
風に乗って聞こえてきた声にマリユスは背筋を凍らせる。
全てに諦めたような、怒りも哀しみも含んだ悲痛な嘆きだ。
「殿下! 諦めてはいけません!」
マリユスの声がリュカに届くことはなく、光に包まれたまま空に浮かぶ。
黒い焔がリュカを包んだかと思えばすぐに、金色の光は強くなり、目を開けていることも出来ず、その眩しさに視界が奪われる。
光が消えてもしばらくは目がまともに機能せず、目の前に陰るものはなんだろうかとぼんやりとするそれに、愕然とする。
金色としか言い表せないそれに、茫然とそれを見上げ、その神々しさに膝をつき祈りを捧げる者が表れ、またその禍々しさに腰を抜かし命乞いする。
誰もが逃げるという選択を忘れてしまっていた。
リュカが居るはずの空に『金色の竜』がいる。
『聖竜』とも『邪竜』とも呼ばれることのある伝説上のドラゴンだ。
どうしてここに伝説がいるのだと、疑問符が頭をかき回す。
まともに思考が働かない。
リュカはどうしたのだろうと、探そうにも目の前の『金色の竜』が気になり、またオーロルも放っておけない。
金色に輝く鱗はなによりも美しく、青い眼は神々しくもあり、体の奥底から恐怖を呼ぶ。
悲しみを叫ぶように天に向かって咆吼を上げた『金色の竜』は、矢が射られてきた方向へ向き直り、吐き出された金色の光はそのまま真っ直ぐに進む。
光に触れたものは跡形もなく壊れ、真っ直ぐと瓦礫の道が出来上がっていた。
その軌道上に矢を放った者も命令を出した者もいた。が、光に呑まれた彼らはもういない。
古代竜を倒したと歓喜に沸いていたカレンデュラの街は静寂に包まれた。今までの喜びはなんだったのだろうかというくらいに、人々の表情は凍りつく。
『金色の竜』が自分達に興味を持たないようにと、恐怖を押し殺すように息を静めて見つめていた。見ているしか出来なかった。
突如と黒い焔が『金色の竜』を包み込む。
抗うこともなく黒い焔に包まれていく『金色の竜』は幻だったのかと思うように霞に消え、黒い焔だけが残る。
黒い焔の燃えかすのように、金色の髪を黒くしたリュカが意識無く横たわっていた。
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