第61話 「騙された本人が不幸とは限らないわよ」

「あー、頭痛い」


 本日は就業開始前にとあるイベントがある。

 イベントという名の法令遵守。

 年二回の消防訓練である。

 毎回消防署の係員が立ち会うのだが、今回は都合がつかず従業員単独での消防訓練となった。


 そんな中、頭を抱えながら仕事の準備に勤しむ女性がいる。

 千夏である。


「ちょっと、千夏。大丈夫?」


「んー、頭ってゆーか、お腹が変なのと吐き気がする」


「やっぱり昨日も一緒に寝たからだよ」


「いや、それはあんまり関係無いと思うけど」


 どこかで聞いたことのあるやりとり。

 もちろん二人とも確信犯である。


「は!!!」


「なに!いきなりおっきな声出さないでよ」


「ち、千夏、もしかしてだけどさ」


 千夏の耳に手を当て、こそこそと話し出す。


「……妊娠?」


「はい!?」


 今度は千夏が呆れたような声で吹き出した。


「そのくだり、もういいって」


「だって、千夏をからかうの面白いんだもん」


「いつから千夏はいじられキャラになったんだよ」


 苦笑いする千夏だったが、本当に体調が悪いようで、いつものノリの良さは感じられなかった。


「そろそろ始まるけど、絶対に無理しないでね」


「わかってるって」


 体調は悪くても、イベント事には全力で取り組む千夏。

 そんな千夏を彩音は不安でたまらない。


 ***


 足早に消防訓練が終わり、後片付けに勤しむ二人。


「いやぁ、何事もなく終わったなぁ」


「やっぱり消防の方々がいないと緊張感ないね」


「そぉ?千夏は楽しかったけど」


 相変わらずのマイペースでノリノリで消防訓練をこなした千夏にとっては、緊張感があってもなくても関係ない。

 自分自身が楽しければいいのだ。


「私、これから今日の報告書作るから片付けお願い」


「おけ。千夏も片付けしたら仕事戻るね」


 事務所へ足を向ける彩音だったが、消防訓練が終わってからも終始お腹を擦っている千夏が気になって仕方なかった。


 そして、その不安は予期せぬ形で的中する。


***


 早朝から行った消防訓練の報告書をまとめていた彩音の元に、壮年の従業員が血相を変えて駆け込んできた。


「朝倉さん、大変です!桝屋さんがぶっ倒れました!」


「千夏が!!」


 彩音は駆けつけた従業員に場所を聞くと、一目散に走り出す。


 ***


「ごめんごめん、なんともないって」


 床に座りこむ千夏の顔からは脂汗が滲み出ていた。

 まさかの嫌な予感的中に焦って泣きそうになりながら、心配そうに千夏を見つめる。


「嘘。めっちゃ痛いし立てない」


「救急車呼んだから。もうちょっと我慢して」


「ごめんね、捻挫しただけだと思うんだけどさ」


「え?お腹じゃないの?お腹じゃないの?」


 どうやら片付けの最中、急激な腹痛に襲われ、その拍子で足を挫いてしまったらしい。

 腹痛は治まったものの、今度はぐねった足首の痛みが一向に良くならない。

 救急車が到着し、千夏はストレッチャーに乗せられ近くの病院へ運ばれていった。


「やっべー。初救急車ー!」


 苦痛に顔を歪めながらも、心なしか楽しそうだった。



 ******



「ちなつーー」


 大部屋の扉が勢いよく開いたかと思うと、そこに現れたかわいらしい女性が大声で叫んだ。

 彩音である。

 普段なら周りを気にしておしとやかに振る舞うのに、つい気持ちが高ぶって千夏の名前を叫んでしまった。


「こら、うるさいって」


 千夏に窘められ、我に帰る。

 他の入院患者へ頭を下げて歩きながら、千夏の病床へ行きカーテンを閉めた。


「で、どうだった?」


「骨も筋もなんともないって。でも安静にしなきゃだから今日と明日は入院だってさ」


「よかったー!めちゃくちゃ心配したんだからね」


「ごめんごめん。明日が休館日でよかったわ。てかさ、明日どおしよ。行けそうにないや」


「あ、それなら大丈夫。先輩にお願いしたから」


 明日、エディシャンはメンテナンスの休館日となっており、彩音は立ち会いの為一人ぽつんと出勤する予定だったのだが、全く予期していない予定が入った。

 隣接のホテルがドラマの撮影場所として使われることは以前より知っていたのだが、明日が撮影の初日となり、湊心の計らいで見学できることになったのだ。

 一人で行くのが嫌な彩音は付き添いとして千夏を呼んでいたのだが、千夏が行けなくなったので孝太郎に声を掛けたのだった。


「それってさ、仕事と見せかけて実質デートだよな」


 敢えてその事実に気づかないフリをしていたので、千夏に言われ少しムッとする。


「明後日の仕事終わりに迎えに来るね」


「いいって。自分で帰れるから」


「ほんとに?」


 大丈夫だよとニコニコ微笑む千夏を見て、ほっと胸を撫で下ろした。


「あ、そうだ、彩音」


 何か思い付いたように千夏が笑い出す。


「孝太郎に聞いといたよ。彼女いないってさ」


「え!ちょっと、千夏!」


「大学の時の彼女だっけ?全然連絡取ってないってさ」


「そ、そうなんだ」


 興味がないような素振りをしながらも、どこかしら安堵の雰囲気が彩音から漂う。

 それを見た千夏はいたずらな笑みを浮かべ彩音を見上げた。


「ん?なに?」


 にしにしと笑う千夏に何かを察する。


「彩音~。明日さ、家使っていいよ」


「う、うん。そのつもりだったけど」


「違うって」


 きょとんとする彩音の瞳に、にんまり顔の千夏が映った。


「一人だと不安だろ~?孝太郎呼んで泊めてもいいよ~ってこと」


「ちょ、千夏!」


「大丈夫大丈夫。彩音が孝太郎呼んで千夏ん家で何しても気づかないふりしとくから。あ、千夏ん家が気を使うならさぁ、ボロい方に誘ってさぁ~。でもあそこだと壁が薄いしなぁ~」


 千夏の妄想に彩音の顔が瞬く間に真っ赤に染まる。

 そして恥ずかしさから無意識に千夏の負傷した箇所をおもいっきり叩いた。


「ぁぐっっ」


 千夏は声にならない叫びをあげた後、悶絶してそのまま意識を失う。

 その後、彩音がテンパって騒ぎまくり、駆けつけた看護師にうるさいと叱られ同室の患者達に謝罪してまわったのは言うまでもない。



 ******



「で、話って?手短にお願い」


 同時刻

 とあるカフェの一席。

 神妙な面持ちの男女が向かい合ってお互いの表情を探っている。

 孝太郎と理恵である。


「僕が今対応している案件ですが、恐らく無事に終了すると思います」


「そぅ。で、それがどうしたの?」


「いえ。無事に終了すれば……仮に失敗したとしても僕はこれを期に篠原さんの元を離れようと考えています。篠原さんには感謝しています。でも、これ以上他人を騙して不幸にすることが耐えられないんです」


 孝太郎のまっすぐな眼差しに、理恵は何も言わず、ただため息をついた。


「それに、僕は僕の人生を生きてみたい」


「僕の人生?」


 その言葉が癇に障ったのか、今度は呆れたようなため息をつく。


「そぅ。で?私がそれを止めるとでも思った?」


「いえ」


「えぇ、その通りよ。そもそも私とあなたが互いどう生きようが関係ない。でもね、私はあなたに感謝してるの。あなたがいなければ殺されていたかもしれない事実は変わらないんだもの。その点であなたと私は運命で結びつけられているのよ。わかるかしら?あなたがそれを否定しようがしまいが事実は変わらない。それを受け入れなさい」


「それはどういう意味ですか?」


「意味なんてないわ。意味なんて必要?意味なんて後付けでしょ?」


 理恵は孝太郎の目をじっと見つめると、孝太郎は狼狽え視線を外した。


「それに騙したからって、騙された本人が不幸とは限らないわよ。特に今回みたいなケースはそうじゃないの?」


 理恵にとって自身の発言は常に正論であり、故に、時折物事の本質を露呈させることがある。

 幸せかどうか。

 不幸かどうか。

 それは本人が決めるのであって、周りが決めることではない。

 その人の人生や運命はその人そのものなのだから。

 それが篠原理恵という女性の思考の根底にある。


「その『朝倉彩音』って子を見殺しにしたかったのなら別だけど」


 相変わらずのちんぷんかんぷんな理恵の持論にただただ頷くしかできない孝太郎であったが、最後の一言に何も言い返せなかった。

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