第55話 「……いいよ」
優真を通り越して、大声で居るはずもない彩音を呼ぶ湊心。
その常識外れの行動に、次第に優真の顔が苛つき始める。
「ほんといい加減にしてください!警察呼びますよ!」
ドアチェーンを挟んで極めて至近距離で睨み合う二人。
「呼べるんやったら呼んでみろや。そっちの方が好都合やしな」
なんとか低姿勢で話していた湊心だったが、いつの間にか普段と変わらない言葉使いで次第に喧嘩口調になっていた。
一方の優真は、胸ぐらを捕まれた手を振り払おうと両手で湊心の手を掴んだ。
その瞬間、湊心はもう片方の手をドアの隙間から差し込みドアチェーンを外した。
その時、湊心の視界に見慣れた物が写り込む。
ぽつんと置かれた彩音の仕事用の靴。
それは彩音が中にいるという期待を抱かせる証拠であり、優真が嘘をついているという証拠でもあった。
ドアチェーンが外れドア勝手に大きく開きだすと、湊心はここぞとばかりに大声で叫んだ。
「あやねー!負けんな!こんな奴の言うことなんか聞く必要ねーからな!」
「は?なんのことだよ!」
すでに優真も低姿勢での口調から苛立った口調へと変わっている。
「彩音がいんのはわかってんだよ!お前が暴力で押さえつけてるだけだろうが!」
「あれは俺なりの愛情表現だ!そうしないと彩音はわかんねぇんだよ!俺が教えてやらねぇと、あいつは何にもできねぇんだよ!」
「あっそ」
優真の発言に一気に頭に血の気が登った湊心は、胸ぐらを離すと同時に力任せにおもいっきり優真を殴り飛ばした。
「いってー!てめー、なにすんだよ!」
「へ?殴るのって愛情表現なんだろ?」
女子のパンチになんのダメージもなく、優真はただ湊心を睨み付ける。
一方の湊心は殴った拳が思いの外痛かったらしく擦りながら早足で後ろに下がり、孝太郎の後ろに隠れた。
自分の身を守る為、孝太郎を盾にしたのだ。
「私、あんたに一目惚れ。あんたは愛情表現で殴るんだろ?だから私も殴った……ってなんか間違ってる?」
したり顔でニヤリとする湊心。
その顔に優真は奥歯を噛みしめ怒りを露にし、湊心を殴ろうと襲いかかってくる。
危険を感じた孝太郎は優真を動けないように抱きかかえ、湊心の方へ行くのを必死に食い止めた。
その隙に、湊心は部屋に入り込み彩音を探し始める。
明らかな不法侵入となるが、この際、そんなことは言ってられない。
「あやねー!どこだー!今助けるからな!」
「だからいねぇっていってんだろ!くそ!離せ!」
いくつかあるドアの内、ほんのりと照明の明かりが漏れている部屋があった。
そのドアを開け部屋に足を踏み入れた時、湊心の目にうっすらと涙が浮かぶ。
──良かった……生きてた。
ベッドの上で怯えながら壁に身を寄せている彩音がいた。
目や頬は腫れ上がり、寝間着や布団、さらには壁にまで血が飛び散っている。
湊心は小刻みに震えてる彩音を優しく抱擁すると、そのまま彼女の財布とスマートフォンを手に取った。
「逃げるぞ、彩音」
彩音は恐怖から頷くことすらできず、ただ湊心に手を引かれながら玄関を抜け、優真の横を通り過ぎた。
「待て!彩音!待ってくれ!ここに居てくれ!」
優真の叫びに彩音の足が止まる。
「俺、おまえじゃなきゃダメだ!ごめん、もう殴ったりしないから。ほんとにもうしないから」
「……ゆーくん」
DVの典型的なパターン。
何度聞いたかわからないその優しい言葉に、彩音の足は完全に止まり優真の方を向き歩き始めた。
が、湊心が強引に彩音を引っ張り遠ざけようとする。
「待って、彩音。ごめんな。俺、お前のこと一生大切にするから」
「私もだよ!ゆーくん!私も愛してる」
その時、湊心が彩音の腕をぐっと引っ張るとの同時に、彩音の腫れた頬に今までにない鋭い痛みが走った。
「いい加減目を覚ませ!」
湊心は今までになく大声で叫ぶと、彩音をひっぱたいた手で放心状態の彼女を引っ張った。
「孝太郎!あと頼んだ!」
「え!」
「待て!てめぇ!彩音を返せ!」
後を追おうと暴れる優真を孝太郎が必死で取り押さえる。
湊心と彩音の足音が次第に小さくなり、完全に気配が消えた。
その時だった。
「……おい」
小さく低い声が静かに響くと同時に優真は喉を締め上げられ壁に押し付けられた。
「くそ、離せ、離せよ」
つい数分前の優真を抑え込むのに必死な孝太郎はそこにはいない。
そこにいるのは、彩音や湊心には決して見せられない暴力的な孝太郎だった。
「刑法二百四条傷害罪……」
やれやれといった感じで、渋く重く言葉を吐き出す。
「刑法二百四条傷害罪、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」
「何言ってんだ、おまえ」
「刑法二百八条暴行罪、二年以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金又は拘留もしくは科料。よく覚えておけ」
淡々と必要な事だけを話し優真を解放すると、彼はぜぇぜぇと呼吸を整えながらその場にしゃがみこんだ。
「今度彩音に手を出したら、法の元にお前を罰してやる」
苦しがる優真を見下ろしポケットから小型のスタンガンを取り出すと、しゃがみこんで彼の首元にそっと添えた。
スイッチを入れると、皮膚に接した先端が激しく電気火花を散らし、優真は気を失い床に倒れこんだ。
辺りを異様な静けさが吹き抜ける。
「いつでも殺せるんだが……」
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……だが、今日はよそう」
服の乱れを整え、急いで湊心の後を追いかけていった。
******
帰りの車内は誰も口を開かなかった。
後先考えずにやってしまった行動やこの先の対応等、気にかければかけるほど沈黙が続いた。
だが、彩音だけは違う。
俯き思い詰めたような表情を浮かべながらも、彼女なりに今の状況を整理していた。
そして、彼女なりに一つの答えにたどり着く。
「高寿さん、伊藤さん、ありがとうございました」
弱々しくもゆっくりと口を開く。
「これは私が撒いた種です。私がちゃんと刈り取ります」
その後、誰も口を開かなかった。
***
エディシャンに到着するや否や、湊心は一目散に車から降りる。
「じゃ孝太郎、あとは任した!」
「え!」
「千夏に無理言って押し付けてきたんや。私がみんなに頭下げて回らんと千夏がかわいそうやろ」
それだけ言って走り去る湊心はどこか嬉しそうだった。
「先輩、私……」
ふいに彩音が語りだす。
助手席に孝太郎、その後ろに彩音。
彩音は自分の抱いていた悩みや葛藤、不安や恐怖を嗚咽混じりに吐露し始めた。
「私、小林優真との関係を考え直します」
黙って彩音の話を聞いていた孝太郎は、その言葉にびくっと反応し小さく微笑む。
別れるという選択肢が彼女の中に芽生えたことを実感したからだ。
それはつまり、孝太郎の仕事が完遂に至る一歩を踏み出したということでもあった。
「先輩。全部終わったらもう一度話聞いてもらってもいいですか?」
「……いいよ」
彩音のすすり泣く声が車内に響く。
彼女の気持ちの整理がつくまで、孝太郎は車から降りることはしなかった。
******
目を覚ました優真。
全身を襲う疲労感の中、スマートフォンが鳴っているのに気付いた。
画面に表示された名前を見て、なぜかほっとした顔をする。
「……はい」
仰向けになり、電話にでた。
「あれ?今まずかった?元気ないみたいだけど、なんかあった?」
電話の向こうからは、明るくて元気な女性の声が聞こえる。
「実は彼女が急に出ていってしまって」
「え!なんで、ケンカでもした?」
「わかりません。俺はただあいつのことを思って」
「うんうん。優真君は彼女さんのことすっごく大切にしてたもんね。羨ましいなぁ、彼女さん。優真君っていつもは明るくて堂々としててすっごく頼り甲斐があるけど、ほんとは誰かに弱いところを見せたいし悩みを聞いてほしいって心の中で叫んでるでしょ?お姉さんはちゃんとわかってるんだから。だから大丈夫。きっと優真君の魅力に気づいて、ちゃんと優真君の所に帰ってくるって。それに、私なんかでよかったら……いつでも優真君の話、聞いてあげるよ?」
電話先の女性は何度も名前を連呼し、胡散臭いストックスピールを挟みながら、優真を優しく労う。
「今から会えませんか?……莉歌さん」
「……いいよ」
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