第47話 「やめて!触らないで!」

 一気に険悪な雰囲気に包まれた事務所。

 千夏の話の通じないスキルがまさかの本領を発揮し、核心を指摘された湊心に悪寒が走る。

 と、次の瞬間、常軌を逸した湊心がとっさにリモコンを奪おうと千夏に襲い掛かった。


「ちょ!湊心!なにすんの!」


 千夏もリモコンを奪われまいと応戦する。


「ええから離せや!この駄作の蝋人形」


「絶対怪しい!絶対渡さないから!このブス!ブス!ブス!鼻の整形やり直せ!」


「やり直すわけねぇだろーが!いくらかかった思とんねん!」


「知るか!この銭投げババア!」


 こうなってはもう誰も二人を止められない。


「もー二人ともやめてよ!伊藤さん止めて!」


「まぁまぁ二人とも」


 孝太郎がなんとか二人を止めようと間に割って入ろうとした。


「「孝太郎は黙ってろ!!」」


 どこかで聞いたことのあるような台詞に孝太郎は一瞬で撃沈する。


 その時だった。

 揉み合いの中でも映像は順調に流れ、彩音の目にまさかの人影が飛び込んできた。


「ち、千夏……こ、これって」


「あ、あ、……あん!?」


 と同時に湊心はがくっと全身の力が抜け崩れ落ちた。

 同じく孝太郎も顔に手をやり、天を仰ぐ。


 突如、男子脱衣場に現れた湊心。

 カメラの調度いい位置でするすると脱ぎ始める。


「た、高寿さん?これはいったい……」


「おい、湊心!ちゃんと説明しろ!」


 あっという間に全裸になった湊心は一糸纏わぬ産まれたままの姿で浴場へと消えていく。


「……じ……じっ……じ……」


 湊心は床にひれ伏し頭を抱え、ぶつぶつと必死に呟いている。

 こんなに焦った湊心を見るのはその場にいた全員が初めてのことで、誰も何も言えず硬直していた。

 千夏以外は。


「は?湊心!説明しろ!」


「じ、じ、事件だ!!盗撮事件だ!!」


「湊心!こんなことはどーでもいい!!」


 確かに湊心の言う通り、これは立派な犯罪ですぐに警察に通報すべき案件である。

 しかし千夏と彩音にとってそんなことは問題ではなかった。


「おい、湊心!はぐらかすんじゃねぇ!」


 千夏が血走った目で激しく捲し立て、握っていたリモコンを力任せに床に叩きつける。


「なんで、あんたと孝太郎が一緒に風呂に入ってんのかって聞いてんだよ!!」


 その叱責で我に戻ったのか、湊心は数回深い深呼吸をしたあと、ゆっくりと立ち上がる。

 落ち着きを取り戻したようで、逆に開き直ったかのように千夏を鋭い視線で睨み付けた。

 少し瞳を潤ませながらも、その表情や態度は勝ち誇ったかのように堂々としている。


「確かに一緒に入ったし、私が孝太郎を誘った」


 悪びれる素振りもなく淡々と話し出す湊心。


「何事もなくただ浸かって身の上話をしただけ。それ以上でもそれ以下でもない」


「湊心。お前何言ってるのかわかってるのか」


「事実。事実を説明しろと言ったのは千夏だろ?」


 その一言で完全に立場が逆転した。

 攻めるはずの千夏は、逆に湊心に追い込まれ始める。


「千夏、逆に説明してくれへん?私が孝太郎と一緒にお風呂に入って何があかんかったん?」


 感情論でムキになっている千夏に対し、湊心はあくまでも理路整然と客観的事実を述べるだけだった。


 確かに千夏が湊心に憤る理由はない。

 知人同士が風呂に入った、それだけだ。

 再び感情論で攻め立てても、返り討ちにされるだけ。

 千夏は何も言い返せず、ただ黙って奥歯を噛みしめた。


「彩音も何か言いたいことあるならさっさと言って」


 彩音は黙ってうつむきながら、握りしめた拳を胸に置いていた。

 時折、彼女の足元に数敵の涙がこぼれ落ちる。


 千夏と違い、彩音は湊心の行為が倫理的には間違っていたにしても、別段責める理由がないことがわかっていた。

 だが、怒りがこみ上げてくる。

 その理由はただ一つ。

 相手が孝太郎だったということだ。

 何故、孝太郎なのか。

 それに何故孝太郎は一緒に入ったのか。

 問い質したいが、それができない。

 湊心と孝太郎が仮に恋愛関係であったとすればなおさら彩音は口を出せなかった。

 湊心の恋愛に口を出す行為は、湊心が自身の恋愛に口を出しているのと何ら変わらないからだ。

 他人からされて不快なことを、自分がするわけにはいかない。


「私孝太郎が一緒に入ったことが問題?それとも私孝太郎と入ったことが問題?どっちにしろ、彼氏持ちのお前には関係ないやろ?」


 彩音の心の声を読んでいるかのように、冷静に挑発する湊心。

 あまりの悔しさとやり場のない怒りに思わず湊心を睨み付けてしまった。


「そんな目で睨まれても口に出してもらわんとわからん」


 湊心に睨み返されると怖くて目を合わせられず、とっさに孝太郎を睨み付けた。

 そして、くるりと反転し事務所から駆け出す。


「待て!彩音!聞いてくれ」


 孝太郎も彩音を追いかけ事務所を飛び出した。


 残された千夏と湊心。

 重苦しい空気がその場を支配する。

 千夏もまた、そのやり場のない怒りに頭がどうにかなりそうだった。





 パンッッ



 それは、一瞬の出来事だった。

 乾いた音が事務所に響き、気がつけば千夏の右掌に鈍痛が走り微かに痺れている。

 頬を赤らめじっと痛みを堪える湊心は、これでいいんだと言いたげな顔をしていた。


「湊心、言い過ぎだ」


「ごめん、千夏」


 湊心が非を認め謝れば、二人の間にそれ以上の謝罪などいらなかった。


「湊心、さすがにこれはダメだ。千夏は大丈夫だけど、彩音にはショックが多きすぎる」


「そんなつもりじゃなかったんだ」


「でもこれじゃますます湊心と彩音の仲が……」


「私は、私の事はいいんだ」


 湊心は俯きながら怯えたように呟く。


「孝太郎に全部話した。私は孝太郎にかけてみる。それで彩音に嫌われても」


「おい!ほんとにそれでいいのかよ!」


「こうなった以上、彩音はもう私の話を聞いてくれない」


 湊心が静かに語ったその言葉に、千夏は何も言い返せなかった。



 ******



「彩音。これにはちゃんとした理由が」


「聞きたくありません!」


 現実から逃げるように走り去る彩音とそれを追いかける孝太郎。


 感情的になるあまり、心に秘めた孝太郎への想いが口から出そうになる。

 以前であれば、こんな状況でなければ自分の気持ちに正直になっていたかもしれない。

 しかし今は違う。

 湊心とのあんな場面を見た後では、孝太郎と今まで通りに接するなどできるはずがない。

 実際には湊心と孝太郎の間に何も起こらなかったのだが、二人の事を信じられなくなっている彩音にとっては想像が勝手に膨らみ、孝太郎に裏切られたという気持ちで苛立ちと軽蔑と悲しみの感情が入り混じっていた。


「彩音、頼むから俺の話を聞いてくれ!」


 孝太郎の声が耳に入ってくる度に、体中に虫唾が走る。

 彩音に追い付いた孝太郎は彼女の腕を掴むとそのまま壁に押さえつけた。


「やめて!離して!」


「彩音、頼む。話を聞いてくれ」


「やめて!触らないで!」


 必死で抵抗する彩音をなんとか押さえつけ、しっかりと顔を見つめる。

 いつもの彩音の甘えた上目遣いも、今日に限っては睨みあげる眼光に変わっていた。


「彩音、俺の話を聞いてくれ」


「何も聞きたくない!聞きたくない!」


 首を左右に振りながら、ギロリと軽蔑するかのような視線を孝太郎に向けた。

 彩音の叫びが孝太郎の胸に深く突き刺さる。

 彼にとってこの事態は大誤算であり由々しき問題だった。

 彩音の立ち振舞いから、本来の目的達成が遠退いたことは火を見るよりも明らかだ。

 成功へのシナリオが描けない。

 もしかすると金輪際、彩音に会えないかもしれない。

 そうなるぐらいならと、彼はある決心を固める。


「聞いてくれ。彩音にとって大事な話なんだ。俺は、本当の俺は……」


 その瞬間、睨み付ける彩音の双眼と視線がぴったり重なり、不思議と彼女の瞳に引きずりこまれるような感覚に陥った。

 今まで彩音に感じたことのない感覚。

 胸の奥が、瞳の奥が、急に熱くなるのを感じた。







 バチンッッ


「やめてください」


 振り切った右手が孝太郎の頬を赤く染め、そのまま彼を勢いよく突き飛ばす。


「腕つかんだり、キスしそうになったり。そーゆーのは高寿さんとなさったらいいんじゃないですか?」


 彩音はそれだけ言うと、振り返ることなくどこかへ走り去っていく。


 孝太郎は壁に背を預け、握りしめた拳を何度も壁に叩きつけた。

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