第48話 「高寿さん、ごめんなさい」
事務所へと帰る孝太郎。
きっと千夏に責め立てられるに違いないし、もしくは想像を絶する沈黙が漂っているかもしれない。
そんな風に考えながら静かに事務所の扉を開けた。
「お!こいつめっちゃええ体してるやん」
「湊心まぢで言ってんの?絶対汗臭いって」
が、そこにはいつもと変わらぬ風景が広がり、さっきまで言い争いをしていた二人が仲良く男の裸体を見てにやついている。
その姿に、もはや孝太郎はツッコミを入れる気力も起こらなかった。
「あ!孝太郎!」
気配に気づいた湊心が慌てて録画を消す。
「こ、孝太郎。彩音は?」
同じく焦った千夏が早口で尋ねる。
先程まで男の裸体を物色していたとは思えないほどの変わりようだった。
「話そうとしたんですが……。完全に嫌われたみたいです」
「そっか……」
千夏は肩を落としながらも、どこかしら嬉しそうに口角をあげた。
その時、事務所の内線が鳴り、湊心がその場の空気から逃げるように受話器を取った。
「はい、はい、そうです。はい」
湊心は受話器を置き電話を切ると、すぐさま別の場所へ電話を掛ける。
「あ、私。うん、明美いる?……は?昼寝?すぐ起こして連絡させて」
湊心は電話を切るとあからさまに不機嫌な顔で、その場にいた二人に向き直る。
「ちょっと大事な用事を忘れてた。行ってくる」
「おい!今はそれどころじゃないだろ」
千夏の制止を振り切り、湊心は足早に事務所から出ていった。
「仕事とプライベートは別や!」
そう言い残し出ていった湊心の顔は、どこか期待に満ちていた。
******
隣接するホテル。
その一角にマネージャーやチーフの事務所があり、打ち合わせや会議などはここで行われる。
そしてその事務所の前で胸に手を当て、呼吸を整える一人の女性。
彩音である。
ショックな出来事があり、また走ってきたことも重なり、心と体が乱れきっていた。
呼吸を整え、今自分がすべき事柄を頭で今一度整理する。
最後に目を閉じ大きく深呼吸すると、一つの決心を胸に事務所の扉を叩いた。
「失礼します」
「どうした、朝倉さん。急に改まって」
中にいたのは彩音の直属の上司。
三宅支配人である。
いきなり現れた彩音と、彼女の妙に深刻な顔つきに驚いていた。
「実は支配人にお話があります。大変申し上げにくいことなのですが、明後日のビアガーデン及びドリンクガーデンを中止しようと考えております」
いきなりの中止発言に、三宅支配人は眉間に皺を寄せる。
彩音はこれ以上湊心と共に仕事ができないと判断し、イベントの中止を直談判しに来たのだ。
「やめる?いきなりどうしたんだ?」
「交換研修の……高寿シニアと私達の間に当初より認識の違いがありました。なんとか努力はしましたが、やはりお互いの溝は埋まらずこのまま強行することはお互いのメリットにならないと考えます。それに私が作成した計画では細部に重大な瑕疵があり……」
「ちょっと待て!その認識の違いやらは改善案で決着しただろ?」
「え?改善案……ですか?」
今度は彩音がなんのことがわからず、驚いた顔をする。
「なにも聞いてないのか?」
「……と、言いますと」
すると、三宅支配人は自身の机の引き出しから一つの企画書を取り出し彩音へ差し出した。
それは彩音が当初提出した企画書をファイリングしたものであったが、明らかに当初の枚数よりも増えている。
彩音の企画書とは別に『補足資料』として別のものが綴じられていた。
様式もフォーマットも違うその資料を見て、手が震えだす。
「その部分。それは高寿シニアが補正した補足資料だ。恐らく朝倉さんが危惧している箇所には全て彼女の手が加えられている。彼女は朝倉さんと共に練り直したと言っていたが」
「なにも聞いてません」
それは彩音の企画書の不備を補填する資料であり、それにより彩音の企画書は完璧なものに仕上がっており、それは三宅支配人の目にも入っている。
「朝倉さんの懸念してることはほとんどクリアしてるし、面倒なことは高寿シニアに任せておけば良い。何かあれば全て高寿シニアが責任を取ってくれる。なにも心配する必要はない」
その時点で彩音はあることに気づいた。
気づいた今、手だけでなく足も声も震えだす。
企画書の不備を湊心に指摘されたあの時。
湊心が『三宅っち』と話し合いが上手く行き上機嫌だったのは全てこの『補足資料』が通ったからなのだと。
通った上で、その事実を隠し、敢えて彩音に考えさせる。
湊心らしいと言えば、湊心らしい。
「失敗したら、ホテルのノウハウを持ち込んだ高寿シニアの責任にすればいい。成功に終われば朝倉さんの手柄にすればいい。それだけの話だ」
まさにその通りであった。
彩音の作った資料が却下されても既に湊心の資料が通っている。
その事実を隠しておけば、彩音が成功に導いたことになる。
失敗すれば『高寿シニアの責任』と三宅支配人が判断し、彩音にはなんの責任もかからない。
そこまで自分のことを考えてくれてるのに、どうしてあんなことをするのか。
孝太郎に人工呼吸と称してキスしようとしたり、一緒にお風呂に入ったりする。
それなのに最後には絶対助けてくれる。
頭の中で、心の中で、同じ疑問がぐるぐると回りだす。
三宅支配人は手渡した企画書を返すように促し、返ってきたそれを元あった場所に戻した。
「認識の違いとやらがなんのことかわからんが、ちょうど今別件で彼女を呼んでるところだ。文句があるなら直接言えばいい」
「し、失礼しました」
震えだす声を悟られないように深々とお辞儀し、三宅支配人と目を合わすことなく踵を返した。
「予定通り開催する。これは決定事項だ」
三宅支配人の冷たい声が背中に突き刺さる。
「大丈夫だ。君は高寿さんに守られてるんだから」
一礼して部屋を出た。
扉が閉まるのを確認すると、壁に手を添えながら少し歩き、頭を抱えてしゃがみこむ。
どうしてこんな気持ちになるのだろうか。
既にまともな思考ができぬほど、頭と心は悲鳴をあげていた。
壁を背に三角座りで頭を抱えると、体が勝手に震えだす。
悩みに悩んだ結果、彩音は一つの答えに辿り着いた。
「全部、先輩が悪い」
口に出した途端、急に涙が溢れ頬を伝う。
孝太郎が彩音の前に現れてから気持ちの整理がつかない日が続いているのは確かである。
今回も孝太郎がいなければ何の問題も起こらなかったし、そもそも孝太郎が風呂に入らなければよかった話だ。
彩音の涙の理由。
それは『彼氏がいるのに孝太郎を好きになってしまった情けない自分』への憤りから流れた涙だった。
彼氏を裏切ってはいけないのに、別の人を好きになってしまった。
そのせいで自分の気持ちがぐらついて、仕事に支障をきたしている。
先輩が悪いと言いながらも、次第に全ては孝太郎を好きになってしまった自分が悪いと考えるようになっていた。
彩音と湊心。
お互い心の中にある思いは口に出さないが、結局同じ事を考えていた。
『全て自分が悪い』と。
責任感が強い彼女達ならではの考え方なのかもしれない。
「高寿さん、ごめんなさい」
何故か湊心に対して謝罪の念が沸いてきた。
情けない気持ちのせいで、湊心が悪いと思ってしまった。
確かに孝太郎は彩音の何でもない。
なのに湊心に怒りの矛先を向けるのは見当違いだ。
それは自分が孝太郎のことで湊心に嫉妬してると認めるようなもので、つまりは孝太郎が好きだと認めてるようなものだった。
「高寿さん、ごめんなさい」
結局嫌悪感を抱いていた湊心に守られていた。
彼女に対して「申し訳ない」気持ちと「ありがとうございます」の感謝の気持ちが身体中で渦を巻く。
「高寿さん、ごめんなさい」
その「ごめんなさい」にどんな意味が込められているのか。
再び自分の気持ちを声に出したその瞬間、走馬灯のように湊心との思い出が頭をよぎった。
******
「はじめまして、明後日からお世話になります。朝倉彩音と申します」
「あー話は聞いてるよ。ちょっと待って」
「千夏ー!こっちこーい!」
***
「はじめまして、明後日からお世話になります。朝倉彩音です」
「あ、えと、ここで働いてます。桝屋千夏と言います」
「は?働いてます。ってなんだよ。働いてるからここにいんだろ?」
「うっせー湊心!この全身ボトックス!」
「してねぇよ!またお前はパートの分際で偉そうに!」
***
「高寿さん、異動ってほんとですか!」
「おぉ。でもすぐ隣のホテルやしこっちにも用事あるから……っおい、彩音どうした!」
「だって、だって私、高寿さん居なくなったら、私……」
「そんなぐらいで泣くなや!私がおらんくても千夏がおるから大丈夫やろ」
「でも、でも……私なんにも高寿さんに認めてもらってません」
「んなことねーよ。彩音はとっくに私を追い抜いてる。焦んなくても大丈夫!ゆっくり頑張んな」
***
「彩音~♪」
「あ、高寿さん。どうされたんですか?」
「どうされたんですか?じゃねーよ!ふふふ、聞いたぞ、猪中に告られたんだろ?」
「え!な、なんでそれを!」
「で、付き合うんだろ?」
「いや、その、なんてゆーか」
「おい!彩音はもっと自分に自信持て!」
***
「元気出せよ、彩音!失恋なんかに負けんな!私が守ってやるから」
「高寿さん。私、もう……」
「うざい!泣くな!」
***
「……彩音。お前、本気?」
「高寿さん。私、彼と」
「そんなことは聞いてへん。本気で言うてんのか聞いてんねん!自分が何しようとしてるんか、ちゃんとわかってんのか!」
「私が誰と付き合おうが私の勝手でしょ!湊心さんには関係ない!」
「……ごめん、彩音のこと見損なった。もう勝手にしな」
***
「……彩音?」
呼び掛けられたその声にびっくりして顔をあげると、さっきまで思い出の中にいた人物が目の前に立っていた。
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