第44話 「小林優真……例のDV彼氏や」

 孝太郎の鈍感さに呆れたのか。

 湊心は首を左右に振りながら、やれやれといった感じでため息をついた。


 湊心の言う『鈍感』の意味が全くわからない孝太郎。

 その単語の本来の意味以上の、言葉としての意味やそれを言った湊心の気持ちなど、自覚のない人間にわかるはずもなかった。


立ち込める湯気の向こう側で、湊心が髪の毛をいじっている。


「本題に入る前に……。孝太郎は彩音の両親のこと、彩音の口から聞いたことある?」


「いえ、なにも」


 湊心と彩音の話のはずなのに、何故か湊心は彩音の家族について語り始めた。


「ほなそっからやな。彩音が物心ついたときに両親が離婚して、彩音は父親に……」


 その話は莉歌から聞いて知ってる。

 孝太郎は心の中でそう思いながらも、彩音と湊心の関係に彩音の両親がどう関係してるのかは気になった。

 だが、気になりはしたものの、湊心の話は既に知っている情報の為、別段興味がわかない。

 そんな孝太郎をよそに、湊心は饒舌に語り続ける。

 まるで孝太郎に彩音のことを知って欲しいと言わんばかりに語っているが、孝太郎は真剣に聞いている素振りはしていても、頭では全く別のことを考えていた。


 ──十一月。あと、三ヶ月、か……


 莉歌から伝えられたその言葉が何度も何度も彼の頭を回り、考えれば考えるほど焦り始めていた。

 その『焦り』とは期日までに問題なく騙せるか、という『焦り』でない。

 彩音を騙し無事別れさせられたとしても、期日が来れば、彩音の元から去らなければならない。

 失敗したとしても同じ事。

 どのみち、彩音とは近い将来、会えなくなる。

 当初からわかっていたことだが、考えれば考えるほど、孝太郎の心に複雑な感覚が芽生え始めていた。

 その芽生えた感覚を、孝太郎は『焦り』だと認識し疑うことがない。

 もしくは、彼の中に芽生え始めた彩音への気持ちを、認めたくないのかもしれない。


「……『こんな生き方おかしい』ってなったわけ。新しい母親とはお互いに仲良くなれず、それで父親にも距離を置いた」


 莉歌から聞かされてない話が耳に入ったのはその時だった。

 両親と疎遠だとは聞いていたが、その理由までは聞いていない。

 それに気づいた時には既に湊心は語り終わり、孝太郎と完全に大事な部分を聞き逃してしまった。


 孝太郎が思慮に耽っている最中、湊心が一人で語っていたのは、今現在の彩音の性格形成の話だった。

 どうしてそう考えるようになったのか。

 喜怒哀楽のどの表現に重きを置くのか。

 人を騙す過程で、その人物の今現在の性格やその生い立ちは非常に有益な情報となる。

 育ってきた過程、境遇や家族構成。

 そういった共通の事柄に親しみやシンパシーを感じない人間などいない。

そういった有益な話を湊心がしていたにもかかわらず、余計な思考が邪魔をして彩音を騙す材料をまんまと聞き逃してしまった。


「でも、そんなことどこの家庭でもありそうですけど」


 慌てて話を聞き直そうと無難な相槌を打つが、湊心は問答無用に話を続ける。


「うん、私もそう思う。だけど『親ではなく、自分で何かを決める素晴らしさ』に気付いただろうな。それで高校卒業して親の呪縛から逃れるように一人暮らし。しばらくは実家と連絡取ってたけど、今では完全に疎遠。唯一本当の母親と本当の妹とは連絡取ってるみたいやけどな」


 最後の部分を聞き終わると、孝太郎は訝しげに湊心を見つめたのだが、それは湊心の言葉を疑ったからに他ならなかった。

 莉歌の話が本当なら、実の妹と連絡を取っているはずなどない。

それに実母と連絡を取っているなど初めて聞いた。

 二人の話は明らかに矛盾している。

 本来ならそこで莉歌の話を疑ってみることも必要なのだが、緊迫した状況下の孝太郎にはそこまでの思慮は及ばなかった。

 むしろ莉歌を否定されたと感じたのか、不服そうに湊心を睨み付ける。

睨み付けたところで、コンタクトを外した湊心に気づかれることはない。


「それと湊心さんにどんな関係が?」


 思わず苛立ちが口をついて出てしまう。


「ん?私には興味ないんやろ?」


 孝太郎は、今までの話と湊心との関係性を聞いたに過ぎないが、それすら湊心の解釈次第でいくらでもひっくり返されてしまう。

 お互い湯面の下は裸という状況下で、湊心の誘惑にも似た問いかけは安易に返答できるものではなかった。

微かだが、湯気の向こう側で湊心が微笑んでいるのがわかる。


「そんなことはないですよ。普段何してるのかとか気になります」


 再三に渡り無難な返答に徹する。


「んー。合コンかみんなで呑んでるな」


 孝太郎としては、普段ホテルでどんな仕事をしてるのかを聞いたつもりだったのだが、完全に湊心に話を歪められた。

 孝太郎の聞き方も問題だが、湊心はプライベートな話の方向へ強引に舵を取りはじめる。


「そんなに合コン行くんですか?」


 もはや、そのまま話を合わせるしかない。

 彩音の話を再び聞くチャンスを伺いつつ、湊心の話に興味があるような顔で彼女の欲しがりそうな質問をいくつも投げ返した。


「うん、それしか趣味ないし」


「合コンって趣味なんですか?」


「ほっとけ」


「桝屋さんもよく行くんですか?」


なんとなく千夏の話題をだす孝太郎。

千夏の話から彩音の話に切り替えようという作戦である。


「前まではよく行ってたけど」


「前までは?」


その問いかけがスイッチを押したのか、湊心はまた饒舌に語り出した。


「うちってさ。あ、ホテルの話な。あっこ毎日毎日色んな取引先さんが営業に来るねん。で、何回か喋って仲良くなるとそうゆう誘いが結構あるんよ。しかもたまにうちの施設とかそっちを利用する人がいてさ、そーなるとやっぱり千夏に目がいっちゃうわけ。千夏って喋ったらクソやけど、見てるだけなら私の次にいい女にみえるやん?だから『次はあの子も誘って』って人が結構いるんよ」


 決して酔っている訳ではないが、口を挟む隙を与えない。


「千夏からしたら、ほとんどタダ飯のタダ酒やし誘えば嬉しがってついてきてたんやけど。でも千夏は気づいてんのよ。私がどうしようもないバカだってこと。だからいつも私のことを心配してついてきてくれてたんやと思う」


 湯気の切れ目に見える湊心の目は、うっすらと潤んでいた。


「千夏はあー見えて結構人のこと見とるんよ。面倒見がいいってゆーか。やから私に恥かかせへんように楽しくもないのに無理に場を盛り上げようとしてくれて、私はそれ見てただ笑ってるだけ。私が千夏やったらそんなこと絶対できひん。ほんとダメな奴だよ、私は」


 湊心は割り込む隙の無いほどに饒舌に語りつくし、黙って項垂れた。

 うっすらと浮かべた涙を片手で拭うような仕草をし、軽く鼻をすする。


「桝屋さんのこと、好きなんですね」


「好きってゆーか、まぁ頼りにしてる」


 湊心の周りには、既に語りきって何も話すことはないような雰囲気すら漂っていた。

 だが、まだ肝心な話を聞いていない。

彩音の話を聞き直さなければならない。

 このままでは、深夜にミルキー風呂に入って肌がスベスベになったという話になってしまう。

体も温まり、お互いもう湯船から出てもおかしくなかった。

 それでも孝太郎は湊心を話の舵取りに少し修正を加えるように、朝倉彩音の名前を口に出す。


「朝倉さんは?」


「へ?」


「朝倉さんは合コンとか行かないんですか?」


「一度だけ連れてったんやけど」


 一瞬孝太郎から目を離し、バツが悪そうな声でそう答えた。


「もう、連れてくことはないな」


 湯面から自身の右足首を出し、それをじっと見つめる。

 その湊心の行動を孝太郎は見逃さなかった。

 それは苦手ものや嫌なことと対面する時に無意識に注意を他へ移してしまう反応にほかならない。

本題に差し迫っている証だった。


「ノリが悪いとか酒癖悪いとか」


「そうじゃない。そうじゃなくて、なんていうか」


 合コンの流れで彩音の名前を出した途端、湊心の様子が変わったのは火を見るよりも明らかだった。

 さっきまでの饒舌な湊心はそこにはいない。

目の前にいるのは、目線を落とし中途半端な覚悟の顔をした自信無さげな湊心だった。


湊心は両手でお湯を掬い、その掬った水面を覗きこんでは、びしゃっと自身の顔に浴びせた。

その行為を数回繰り返し、その間沈黙が続く。


「彩音の彼氏、知ってる?」


 ふいに湊心が意味ありげな問いかけを口に出した。


「おられるのは知ってますが、名前とか顔とか知りません」


「じゃあDVのことは?」


 湊心は自身の胸のアザに手を当てながら、孝太郎をまっすぐ見据える。

湯気でぼやけても、それははっきりとわかった。


「誰も声には出さないし教えてもくれないですけど、うっすらとは気づいてます」


「そっか」


 湊心は天を仰ぎ何かを小声でぶつぶつと呟いた。

 気になって聞き耳をたてるが、なにも聞こえない。

 と、突然両手を湯船から出し、両頬をパチンと叩いた。


「よっしゃ!」


 湊心の威勢の良い叫びが二人しかいない浴場に響き渡る。


「ほな、本題に入るわ」


 湯船の中で膝を抱えながら三角座りをしているようで、膝小僧が白波にひょっこりと顔を出す。


「彩音な、物凄い失恋した時期があるねん」


 その可愛らしい浮島を見つめながら、湊心は物語を紡ぐように語り始めた。


「私がホテル異動なったんと同じ時期に当時ここにいたパートの男と付き合い出したんやけどさ。相手は確かに真面目でおもろいええ男やったわ。彩音は告白されて迷っとったんやけど、皆の応援もあって付き合い始めた。もちろん私も応援した。やけど、ある日その男が急に失踪して家族が警察に捜索届け出す程の話になってん。もちろん彩音に行き先なんか心当たりないし、そもそも当時の彩音にいきなり失踪した彼氏を探す余裕なんてなかった。あの真面目で責任感強い彩音が無断で仕事休むし、それが原因で今より痩せたからな。ほんまひどかったわ、彩音の落ち込み様は」


 湊心は孝太郎をちらっと見てから再び膝小僧に視線を落とし、少しの間沈黙した。

 しばらく何かを考えていたのか、ようやく決心がついたように話を続ける。


「で、そんな落ち込んだ彩音を元気付けよってなって私と千夏と明美で合コンに連れてったんよ。うちらもいつまでも落ち込んでる彩音見たなかったし、ちょっとでも気晴らしになればなぁって。でも、あれが間違いやった」


「間違い?」


「案の定、彩音はうちらから離れて隅っこで暗くなっててん。そんな女に話しかけようとする男なんて普通おらんやろ?でも一人だけ彩音の隣に座ってずっと話を聞いてた男がおってん。彩音に同情したのか、親身になって彩音を励ましてた男が」


「まさか、それって」


 話に口を挟んだのが悪かったのか、湊心はギロッと彼を睨みながら話を続けた。


「そう。私が引き合わせてしもた最低の男」


 そこまで言われれば、さすがの孝太郎でも湊心が次に言わんとする台詞はだいたいの察しがついた。







「そいつの名前は小林優真こばやしゆうま……例のDV彼氏や」

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