第41話 「私が孝太郎に手を出しても文句言わんよな?」
倒れそうな暑さの七月も終わりを迎える今日この頃。
ようやく夕方になり涼しくなってきた。
ビアガーデンを来週に控え、ここ数日苛立ち気味の彩音。
今日もパソコンとにらめっこしては手元の資料数点を見比べ頭を抱えていた。
「ウフンフッフフ~♪ウッフフッフフ~♪」
そこへ相変わらず陽気な鼻唄を響かせながら湊心がやってくる。
今日の湊心はいつになく上機嫌で、なにかいいことでもあったような様子だった。
「どうした彩音?生理か?」
上機嫌な湊心は、自分とは対称的に思い悩んでいる彩音に声をかけるが、彩音としてはデリカシーのない湊心の一言を否定することすら疎く感じる。
「高寿さんこそ、なにかいいことでもあったんですか?」
「へへへ、三宅っちとちょっとね」
三宅っちとは、三宅支配人のことである。
湊心は研修着任当日に三宅支配人から何かを頼まれており、それがうまくいったらしかった。
「で、彩音は?やっぱり生理?」
「実は……」
彩音は現在抱えている仕事上の不安を湊心に相談し始める。
内容としてはほとんど初開催のビアガーデンに関するもので、彩音の作成したマニュアルに不備あると他の従業員から指摘を受けたとのことだった。
「不備というほどではないが、確かに若干の修正は必要かもしれない」
「高寿さんもそう思いますか?私もどこかひっかかるところがあるんですけど、どこかわからなくて」
「指摘してもええの?」
「え?」
「まずここやな」
彩音の返答を聞くより先に湊心はいきなり彩音の持っていた資料を奪い取ると、要改善と思い当たる部分を提示し始めた。
「マニュアル以前にここや。人件費削り過ぎ。初めて開催するんやし不測の事態に備えて短期か派遣を雇うべきやな。ここの従業員でやれへんことはないけど普段以上に負担がかかるだけやで?それに来年もするんやったら、余計に経費かけとかんと!来年昨対で経費越えたらめんどいやん?」
こくんと頷いて必死にメモを取る。
「次にセキュリティ。こちらの理屈と客の理屈はちゃうで。全員がこっちの決めたルールを守るとは限らへん。事件事故が起こった場合誰が対処するんか、どう対処するんか。今の線引きでは不十分やしこれやと全部彩音が対処せなあかんやろ?同時に複数発生したらどうすんや?」
湊心の指摘はある意味完璧で、彩音の想定の範囲の先を行っていた。
「おっきな不安要素はその二つ。保健所への申請も終わってるし、そこら辺は大丈夫やろ」
そう言って湊心は彩音の隣の席に腰かける。
「マニュアルの修正箇所は、ざっくり言うと誰がみてもわかるようにせんとあかんってとこな。渡して終わりやったら作る意味ないねん。渡して活用されて初めて意味がある。必死な想いで綴っても、ニッチな思い出作ってるわけちゃうんやろ?」
真面目な話をしてるのに最後の最後で韻踏みを決めてくる湊心に、内心イラッとしてメモを取る手が止まる。
「んで、開催後の検証をどのラインに持っていくんや?目標設定をしとかんと、ただやっておしまいってことになるで。次も考えてるんやったら……って彩音。聞いてんのか?」
「す、すいません。頭が追い付かなくて」
頭が追いついてないのは、メモを取りながら湊心に言い返すフレーズを考えていたためである。
だが、それを言うと湊心に負けた気がして口には出せなかった。
「彩音にしては珍しいな」
湊心がやや驚いたように、手に持っていた資料を返した。
「高寿さんはやっぱりすごいです」
「そんなことないって。ただホテルで慣れてるだけ。あっこはクレームのデパートみたいなもんやから」
湊心はあっけらかんとして笑い飛ばしていたが、実際は大変な現場である。
そのことを彩音は色んな関係者から聞いて知っていたので、愛想笑いすら返せなかった。
実際に現場にいない彩音が「そうですね」と相づちを打つことは、彼女自身が失礼だと思ったからだ。
「トラブルシューティングはうちのを持ってくるからそれで対応したらええと思うで。明美にゆーとく」
湊心がそう言ったのと同じタイミングで、事務所の扉が開いた。
「あのぉ」
そこにはセーラー服を着た、いかにも今時の女子高生を絵に書いたような女子が泣きそうな顔で立っていた。
「誰や、おまえ」
初対面の人間に対する湊心の威嚇。
「ちょっと、高寿さん。なんでそんな喧嘩腰なんですか?」
慌てて椅子を反転させ、大丈夫だからねと大袈裟にジェスチャーをしながら優しく語りかける。
「どうしたの?直海ちゃん」
この泣きそうな女子高生こそ、数週間前まで孝太郎にぞっこんだった女子高生。
「あの、実はスマホをなくしちゃったみたいで」
「へ?」
直海曰く、今日は平日で学校帰りに来月のシフトを出しにここへきたのだそうだ。
シフトを出し、いつも通りすぐ近くのバス停でバス待ちの時間に鞄からスマホを出そうとしたらなくなっていた。
歩きながら触っていた記憶はあるらしく、もしかしたらどこかで落としてここに届けられているかもしれないと思い、やって来たのだそうだ。
「いや、届いてないよ。どんなスマホ」
彩音は念のため受付に内線し確認したが、やはり届いてはいなかった。
直海はちらちら湊心を見てはおどおどしており、湊心はそんな直海をこっちへ来いと手招きする。
「今、君がすべきことは一刻も早く警察に届けること。家の番号はわかる?固定電話がないんだったら早く帰って事情を説明して一緒に警察に行ってもらいなさい。悪用されたら大変だよ?」
湊心は的確に端的に直海にやるべきことを伝える。
珍しく標準語で優しく丁寧に話してはいたが、敢えて「ご両親に」「ご両親と」とは口に出さなかった。
湊心も彩音の前でその単語を出すことはしない。
千夏と共に彼女も彩音と両親の間に何があるか、何があったかを知っているからだ。
「あのぉ」
直海は湊心の助言にうんうんと頷きながらも、誰かを探すようにきょろきょろする。
「ほかにもあるの?」
彩音は笑顔で問いかけるが、それがそもそもの間違いだった。
「孝太郎さんは休みですか?」
彩音の笑顔が一瞬でひきつる。
睨みこそしなかったが、内心イラッとしたのがその表情でわかった。
「孝太郎は今日は休みやで」
彩音の代わりに湊心があっけらかんと答える。
「朝倉さんは出勤なのにですか?」
「ん?どゆこと?」
湊心は直海の表情から何かを勘繰り、彩音に視線を向ける。
直海からは純粋な問いかけの眼差し。
勘のいい湊心からは説明を求める訝しい視線。
その視線に挟まれ、彩音がテンパり出すのも時間の問題だった。
「私、てっきり朝倉さんと孝太郎さんはもう付き合ってると思ってました」
だめ押しの一言が直海の口から飛び出す。
彩音は眉をピクッとさせあからさまに不愉快な顔をして口を開いた。
「警察いってきまーす」
が、それより先に直海が口を開き、そそくさと事務所を出ていく。
スマホをなくして泣きそうにしていた女の子は、少しいいことがあったような顔でその場を去っていった。
当然、後に残るのは状況からある程度内容を把握した湊心の尋問である。
彼女の冷たい視線が後頭部に突き刺さり、怖くて振り向けなかった。
「で、結局のところどうなん?」
「あ、そ、そうですね。人件費に関してはもう一度見直しながら利益よりも実利優先で」
「違うだろ!このハゲ!」
湊心がかつての話題の単語で罵る。
少し吹き出しそうになるのを堪えながら、湊心が抱いたであろう誤解を解きにかかった。
「い、今のですか!な、ないですよ!私と伊藤さんなんて、もーやだなー、直海ちゃんったら、あは、あははは」
「やんなぁ、彩音にはラブラブな彼氏がおるもんなぁ」
嫌みたらしいその言葉に、言い返そうにも状況が状況のため何も言い返せない。
「じゃあさ、私が孝太郎に手を出しても文句言わんよな?」
「え?」
「ん?」
いつもの湊心なら立て続けに彼氏の話題を出し「さっさと別れろ」と言うのに、何故か話は孝太郎のことを話題に持ち出した。
「なんかさぁ、シンパシー感じてさ」
「シンパシー?」
「私が言ったことにさ、こう返し……アンサーしてほしいなぁってゆー返しを孝太郎はしてくれんねん。そーゆーの初めてやからさ。なんか一緒におって楽しいってゆーかウキウキするってゆーか。ついつい気にしてしまうんよね~」
「それってまさか……」
「ん?なんか不満?」
なんでもありませんと顔では言っているものの、彩音は自分の胸がぎゅっときめつけられるのを感じた。
自分の孝太郎に抱いている隠した感情と同じ感情を高寿さんも抱いているのではないか。
そう考えると余計に胸が締め付けられる。
「そーゆーたら、彩音って孝太郎をホテルに出すの嫌がってたよな?あれってなんで?」
彩音の心を読んでいるかのような湊心の問いかけ。
「好きなん?」
単刀直入なその問いかけに何も言葉が出てこない。
本来なら「いいえ」と否定的なことをいうべきだが、それすら声にならなかった。
「もし私と孝太郎が仲良くなっても彩音には関係ないんやろ?」
「は、はい。従業員同士仲良くしてもらえると職場の雰囲気もよくなって」
「は?男と女の話してんねんけど?」
湊心の勢いに、もはや成す術がない。
「先輩が好きです。彼と別れたいです」と言えればどれだけ楽になれるだろうか。
だが、彩音のプライドや責任感、彼女の性格がそうはさせなかった。
もしかすると湊心はそれがわかっていて聞いたのかも知れない。
もしくは彩音の気持ちを確かめたかったのか。
「まぁ、この話は置いとこ。で、このタイムスケジュールやねんけどさ。もう少し前倒しにして余裕もたせれへん?」
湊心の問いかけに、彩音は無言で首を縦に振るだけ。
仕事の話に戻した湊心は予想どおり言い返さない彩音の態度に苛つきはしたものの、そこでさらに逆撫でしては大人げないと話を別のものに変えた。
湊心は彩音が嫌いではない。
むしろ可愛い部下と思っている。
だからこそ、厳しい態度になってしまう。
彩音には、自分が思っていることをちゃんと言えるようになってほしいのだ。
「楽しい」や「嬉しい」ではなく、彼女の責任感が圧し殺す「辛い」「苦しい」「助けて」の言葉達を。
例え、自分が嫌われ役の悪役になろうとも。
******
時計の針が垂直に伸び、午後六時を指す。
まだ明るいのにうっすらと灯り始めた街灯がそれを知らせる。
「すいませーん」
とある住宅街の交番。
中にいるであろう警察官を一人の女性が呼んでいる。
ラフなTシャツに年季の入ったジーパン。
見るからに安そうなスカジャンを羽織り、手にはボロボロのスマホを持っている。
「どうかされました?」
出てきた若い警察官に、女性は手に持っていたスマホを差し出した。
「実はさっきスマホを拾ったんです。タイヤ跡付いてるから車に引かれたのかもしれないですね。持ち主が探してるかもと思い持ってきたのですが……」
「こりゃひどいな。拾得扱いしますので少しお待ち下さい」
そのスマホはガラス面がぐしゃりと割れ、ほんの僅かだが『くの字』に曲がっていた。
「ここまで割れてるともうダメかもしれませんね」
聞かれてもいないのに女性はべらべらと話し出す。
「それに妙に軽いんです。もしかしたら中のバッテリーや部品が抜かれて、あとはいらないから捨てられたのかもしれませんね」
「へぇ。お詳しいですね」
「ええ。私も以前そういった被害に遭ったことがあるんです」
腕を組み、あからさまに苛立った雰囲気で壊れたスマホに目を落とす。
手段はどうであれ、自分で盗んで壊しておきながら、こういったことを平気でする人間。
それが
「こんなことする奴って、ほんと最低のクズですよね。信じらんない!」
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