~ヒロイン~ 1

 時は二人のグラウンドでの再会から五時間前に戻る。


 歩美はずっと願っていた。もしも、出来ることならあの日に戻りたいと。彼の告白を受け入れていたなら、私は違った人生を辿っていたのだろうか。

「ここはどこ?」

 目を覚ました場所は見慣れない所だった。テーブルに突っ伏して居た歩美は寝ぼけながら顔を上げ、周囲を見回す。

「お目覚めになりましたか」

 少し離れた場所にあるカウンターの端から聞こえてきたのは女性の声。その声の主を確認しようと、そちらに目を向ける。

「私は一体…」

 問い掛けようとすると、ちょうど一人の男性が店の入り口から入ってきた。客だろうか。

「あ、山野歩美様ですね」

 その男は歩美の姿を見つけると、早足で近寄った。どうやら、店の関係者のようだ。

「お待ちしておりました。山野様。私はこの店のオーナー、真樹と申します」

 真樹という男は丁重に頭を下げると、事情を説明しだす。

「驚かれているようですが、それは仕方が無いです。。あなたはここに来るまでのことを何か、覚えていらっしゃいますか?」

 歩美は記憶を辿ろうとする。ぼんやりとだが何が起きたかを思い出してきた。私は階段から落ちたのだ。会社の階段でバランスを崩し、そこから目覚めたらこのバーに居た。

「そう、思い出してきたようですね。あなたの身体は現在、ある病院の集中治療室にあるのです。階段から落ち、頭を強く打ったあなたは生死の境を彷徨っていました。命は何とか取り留めたものの、恐らく脳内出血の影響で、意識が戻った後も半身不随になるでしょう」

 歩美は呆然とした。私は今、ここで生きているじゃないか。こうして、五体満足で動いているじゃないか。真樹にはその考えが読めているのだろうか。言葉を口にせずとも、真樹は次々と質問に答えていく。

「そして今、ここに訪れているのはあなたの精神部分。うーん、魂と言った方がしっくりきますかね?と、現状はそのような感じです。まあ、すぐに信じろと言っても無理な話かもしれませんが」

 そんなもの、当たり前だ。そんな話、誰が信じるというのか。歩美はそう考え、立ち上がると店の入り口のドアへと進み、ノブをひねった。だが、開かない。

「申し訳ありませんが、そこは肉体と精神を両方持った人でないと開かないのです。そういう空間なのですよ、ここは」

「そんな、どういうことよ。一体何が、どうなってるのよ」

「山野様、とりあえず、落ち着いて。私どもの話を聞いて頂けませんか?事態は急を要します」

 何をそんなに急ぐことがあるのだろう。とにかく、私が今居るこの空間が、普通の場所でないことはなんとなく分かったが。

「実は、あなたがここに来たのは必然だったかもしれないのです。そう、奇跡が起こるこのバーに」

 奇跡?この男の話していることは、心から理解しがたい。

「いえ、確かに起きる可能性があるのです。ただ、それには条件があるのです。あなたはあの日、そう、佐原様に告白されたあの日の、あの場所に戻りたいと思ったことはありませんか?」

 驚いた。身体が恐ろしさのようなものに襲われ、身震いがした。あのことは佐原君と私しか知らないはずだ。そう考えた歩美はなんとなく、その真樹という男が何者かを感じ取った。

「なるほど、全部知っているんですね、あなたは」

 歩美が問うと、真樹はゆっくりと首を縦に振る。

「はい。そして、率直に申し上げますと、あなたにはその場所に戻る権利があると言うことです」

 歩美には権利という意味が分からなかった。

「どういうことですか?」

 真樹は一つ、咳払いをして語り出す。

「あの日、あのグラウンドが山野様にとって大きな分岐点になったのは間違いありません。ただ、そこで山野様が選んだ選択肢は、当初と定められた道筋とは違ったものでした。本来ならば…、本来ならばあなたは佐原様と結婚し、幸せな家庭を築いていたはずでした」

 この男の言っていることは、歩美にとってまったく理解できなかった。本当なら歩美と佐原が結婚しているはずだったと、真樹は言っている。

「驚かれるのも無理はありません。ただ、あなたが今回、生死の境を彷徨ったことで、あの場所に戻ることができるチャンスが生まれたのです。難しい説明は省きますが、あなたはあの日の場所に戻ることができるということです。ある条件さえ、満たすことができればの話ですが。ただ、時間は切迫しています。病院にあるあなたの身体に意識が戻る時までに、その決断をして頂き、あの日に戻って頂かなくてはいけないのです」

 条件とは一体何なのだろうか。そう考えると、真樹は女性のバーテンダーに目配せをした。バーテンダーは小さく頷き、歩美に向かって「何かご注文をどうぞ」と言ってきた。流れから言って、この注文がその条件と何か関係があるのかもしれない。

「さすが、その通りでございます。ただ、あなたは、あなたのままでご注文して頂ければ大丈夫かと思います」

「自分のままで…ですか?」

 歩美はカウンター席に着きながら、ゆっくりと思い返した。バーに来たことはほとんど無いが、いつもの私なら何を頼むだろうか。目の前にあったメニューを広げる。さまざまなカクテルの名前が書かれているが、ピンとくる名前はやはり無い。

「それじゃあ、私のままで注文させてもらいますね。あのー、お任せでお願いします」

 真樹はニヤリと笑う。バーテンダーは「かしこまりました」と言って追加で質問をする。

「何かこんなカクテルが良いというイメージはございますか」

「色は赤色で。強めのものが良いです。これが私の注文です」

 真樹は拍手を送りながら歩美をたたえる。

「さすがでございます。あなたがあなたらしく注文をされたものは、こちらの一つ目の条件をクリアされました」

 バーテンダーはすでにカクテル作りに取りかかっている。何やらグラスにいくつかのお酒を注ぎ込み、手早く、滑らかにかき混ぜている。

「こんなアバウトな注文で、良かったんですか?」

「ええ、そうです。逆に言えば、そのような回答でなければ条件はクリアできなかったかもしれません」

 バーテンダーは歩美の前にカクテルグラスを置き、そこにグラスの中のカクテルを注ぎ込んだ。

「お待たせしました。キッス・イン・ザ・ダークでございます」

 歩美はそのカクテルを眺める。確か、こんな光景が前にもあったような、そんな感覚に包まれた。真樹が「どうぞ、お飲みください」と促す。歩美がそのカクテルに口を付けると、ほんのりした甘さと、その奥にある力強さのような深い味わいを同時に感じた。

 パチン。何かが聞こえた。そう、何かが割れたような乾いた音が。歩美はその音の出所を探そうとしたが、その前に真樹が口を開いた。

「それでは、山野様。お話しして頂けませんか?何故、あなたがあの日、佐原様の告白を受け入れずに、あのような選択を行ったのかを。そして、あなたにとって佐原様がどのような存在だったのかを」

 もしかしたら、私の人生は一八〇度変わるかもしれない。あの日に戻れたらと、私は常日頃から思ってきた。その願いが、叶うかもしれない。歩美にとってのあの日は、今でも大切な時間だった。

「分かりました。きっと、それも条件というものの一つなのでしょうから。お話しします」

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