~小さな来訪者~ 6

 待ち合わせをしていた午後八時。峻は店の前で相手を待っていた。結論から言えば、あの箱は見つからなかった。来た道を辿り、近くの交番にも立ち寄って落とし物が無かったかを訊いたが、それらしきものは届いていなかった。「きっと、家だ」。峻は自分のふがいなさに絶望した。

 道路の向こうから見慣れた姿が見えてきた。近づいてきたその女性は峻に対して謝まる。

「ごめんなさい、遅くなっちゃって」

 「いえ、大丈夫ですよ。利恵さんが来たの、時間通りだし」という峻だったが、何処か固い笑顔になっていた。

「それじゃ、入りましょう」

 利恵にそう言われ、峻は重い足取りで店内へと入る。ドアを開けると女性のバーテンダーが二人を出迎えた。

「いらっしゃいませ。予約された一ノ瀬様ですか?」

「ええ、はい」

 「こちらへどうぞ」とバーテンダーはカウンター席の中央に誘導する。

「本日はお二人の貸し切りとさせていただきますので、どうぞ、お好きなものをおっしゃってください」

 峻は驚いて聞き返す。

「ええ?私は貸し切りなんてお願いしていませんが…」

 バーテンダーは柔らかな笑みで説明する。

「実は、お二人のために、うちのオーナーが、今日は貸し切りにすることを提案しまして。他に予約も入っておらず、今の時期は閑散期ですから、ほとんど飛び込みの来店者もおりません。まあ、もし、ご都合が悪ければ、通常営業にさせていただきますが。もちろん、こちら側の提案ですのでお代は頂きません」

 峻は少し救われた気がした。もし、あの箱がなかったとして、貸し切りで二人だけのこの空間であれば、たとえそれが僅かであっても、成功する確率は上がるかもしれない。

「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせていただきます。本当にありがとうございます」

 利恵は「何か甘めのものをお任せでお願いします」と注文をする。バーテンダーは「かしこまりました」と言い、早速、作業に取りかかる。

 峻も続いて注文をしようとしたときだった。店の外からノックの音が聞こえた。

「どうぞ」とバーテンダーが答えると、一人の男が入ってきた。赤いシャツにストライプのスーツ、丁寧に整えられた顎髭が特徴的な男だった。

 峻は一瞬、客かと考えた。だが、その男は二人に向かい歓迎の言葉を贈ったのだった。

「一ノ瀬様とそのお連れ様ですね。本日はご来店ありがとうございます。私、この店のオーナーをしております、真樹と申します」

 峻は慌てて席を立ち上がり、頭を下げる。

「お、オーナーさんでしたか。今日は、わざわざ貸し切りにしていただき、ありがとうございます」

 真樹は「お節介じゃなかったですか?」と頭を掻いているが、峻にとっては、その心遣いに対して感謝の思いしか抱いていなかった。そして、真樹はあるものを峻に対して差し出す。

「一ノ瀬様、お届けものですよ」

 峻はそれを見て、驚きで声が出なかった。

「これは…」

 真樹は答える。

「ある方が探して届けてくれたのです。これ、必要だったんですよね?」

「は、はい!本当にありがとうございます!ありがとうございます!」

 峻は心から感謝してその箱を受け取った。

 これがあれば。可能性は0じゃない。いや、必ず成功する。端から見ればこれは小さな奇跡に見えるかもしれない。でも、峻にとってこれが今、手元にあるということは運命的とも言える、大きな奇跡だ。

「利恵さん、お話があります」

 今まで、真樹と峻のやりとりを見ていた利恵は突然、名前を呼ばれたことで多少驚いた様子だった。

「は、はい」

 峻はこれまでの事を思い返す。

 家族だったあの子が死んだとき、隣で支えてくれたのは彼女だった。出会いは知り合いからの伝で実現した、普通のお見合いだったかもしれない。でも、そこから自分はこの人を心から好きになった。だから、これからは自分が支えたい。そして、楽しいときは一緒に笑い、辛いときは一緒に乗りこえていきたい。

「利恵さん、あの、僕は決して、立派な男ではありません。利恵さんとお付き合いをするまで、何の取り柄もなく、女性と交際したこともありませんでした」

 利恵は峻の目を見ながらじっと耳を傾けている。

「でも、利恵さんは僕が初めてのデートでレストランの予約の時間を間違えて店に入れなかったとき、落ち込んでいた僕を見て、言ってくれましたよね。『あなたは何でそんな申し訳なさそうな顔をしているのですか?』って。僕はびっくりしました。普通は店に入れなかったら女性は怒ると思うじゃないですか。でも、あなたは僕の腕を引っ張って、行きつけの焼き鳥屋に連れて行ってくれた。その時だけじゃないです。僕がどんなドジなことをしてもあなたは笑っていてくれた。そして、あの子が死んだ時もです。あなたは、ずっと僕の傍に居てくれたじゃないですか。だから考えたんです。僕があなたにできる事は何かと」

 峻は手に握っていた箱をゆっくりと開ける。小さくも、美しく輝く指輪がそこにあった。

「僕と結婚してくれませんか。僕があなたからもらった『思いやり』を返していくには、きっと一生かかりますから」

 利恵は声を振り絞り返事をした。

「よろしく…、どうかよろしくお願いします」

 峻は利恵の手を握る。そして、込み上げる涙を堪えながら、何度も頭を下げる。

「利恵さん、ありがとう、ありがとう」

 

 進士は二人に対してカクテルを差し出す。それは、グラスは違ったものの、どちらも紫色のカクテルだった。利恵の前には少し縦長のグラスが置かれた。

「利恵様、こちらはバイオレットフィズというカクテルでございます。ご要望通りに作らせていただきました」

 そして、峻の前には逆三角形のカクテルグラスが差し出される。

「私は、まだ注文していませんでしたが…」

 バーテンダーは何も言わない。と、代わりにいつの間にかバーカウンターの向こう側に回っていた真樹が答えた。

「それは、ある方からの贈り物でございます」

「ある方って?」

「このカクテルはブルームーンと申します。昔から見ると幸運になると言われている『青色の月』になぞらえ、縁起の良いカクテルとされております。でもね、それだけはないんですよ。バイオレットフィズとブルームーン。この二つのカクテルには同じスミレのリキュールが使われています」

真樹は二人の前に、そのリキュールの瓶を置く。

「『パルフェタム―ル』。フランス語で『完全なる愛』という名前が付けられたリキュールです」

 二人はほぼ同時に、カクテルに口を付ける。利恵が「美味しい」と声を上げる。峻もブルームーンを味わってみる。ジンに、清々しいスミレの花の香りとほのかな甘さが加わり、口では表現できないような感動を覚えた。真樹は一呼吸おいてから、さらに説明を続ける。

「これこそお二人にふさわしいカクテルかと。そして、そのある方というのが、実は店の外でお待ちなんですよ。そして、その方がこの指輪を届けてくれた。この店を貸し切りにして欲しいと頼んでこられたのも実はその方でして」

 峻は不思議に思った。これまでの人生で家族も居らず、友人関係も深い付き合いはなかった。自分のことをこれほどまでに考えてくれる人が利恵さん以外に居ただろうか。

 ハッとする。確かに、「人」では、私の事をそこまで気に掛けてくれる存在は居なかった。でも、あの子なら。いや、あり得ない。あの子はもう死んだはずだ。

「いえ、そのまさかなんですよ。彼女は猫でありながら、あなたにもう一度会いたいと願った。そして、あなたに恩返しをしたいと。だからこそ、あなたの家で箱を探し出し、ここまで箱を咥えて全速力で走ってきたんです」

 峻は慌てて入り口に駆け寄り、ドアを開ける。

「そんな、そんなことって」

 入り口には足から血を滲ませた一匹の白猫が立っていた。

「本来であれば、一ノ瀬様のプロポーズは失敗に終わるはずでした。そうです、指輪を忘れたあなたはプロポーズそのものを諦めるはずだったんです。だが、それを動かしたのは目の前にいらっしゃるこの方です。彼女のあなたへの感謝の思いこそが、運命を変えたのです」

「ミミ!」

 峻はミミを精一杯抱きしめる。ミミの口からも鳴き声が聞こえた。

「ミミ様はこうおっしゃっていらっしゃいます。『私の命を救ってくれてありがとう』と。そして『少しでも恩返しができて良かった』とも」

 峻はミミの頭を優しく撫でながら謝った。

「ミミ、ごめんな。俺があの日、胃潰瘍なんかで職場で倒れたせいで。もし、俺が倒れなかったら、お前は死ななかったかもしれない。本当に、ごめん」

 峻たちに利恵もゆっくりと近づく。

「私のこと、覚えてるかな?峻さんの家で一緒に遊んだよね。そして、あなたは気付いていなかったかもしれないけど、あなたが私たちを結びつけてくれたのよ」

 利恵は微笑んで感謝する。

「本当はね、私は峻さんと一度別れたの。あなたが事故に遭ったのも、峻さんが胃潰瘍になったのも全部私のせいだと思っている」

 ミミは思った。「誰のせいでもない。私が死んだのは、私がドジだったからだ。峻さんも、利恵さんも、何も悪くはない」と。

 利恵はミミと峻を見ながら、当時のことを思い返した。

「でもね、あなたのことを心から可愛がっていた峻さんの姿を、あなたが亡くなった時にひどく落ち込んでいる峻さんの姿を見た時に、こう感じたの。『この人は自分の傍にいる存在を、それが誰であろうと愛し、大切にできる人じゃないだろうか』と。それに気付かせてくれたのは、他でもないあなただった。だから、私はあなたに心から感謝している。それだけは分かってほしい」

 

利恵を見つめて「ニャア」と繰り返す、ミミの鳴き声はどこか嬉しそうだった。

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