第24話
「されば金四郎様、何卒(なにとぞ)、お屋敷にお戻りを…」
鉄右衛門(てつえもん)はそう言うと、粗末(そまつ)な畳に頭をすりつけた。
「何言ってやがる…、どうしてわざわざ部屋住(へやずみ)のこの俺が、今さら屋敷に戻らなきゃならねぇんだよ…」
金四郎はそう反論した。今さら厄介者になるつもりはなかった。
「それがその…、部屋住(へやずみ)でなくられるやも知れませぬ」
「何言ってやがんだ?」
金四郎には鉄右衛門(てつえもん)の言葉が飲み込めずに首をかしげた。
「単刀直入に申し上げますが、ご嫡男にあらせられる景善(かげよし)様のお加減があまり宜(よろ)しくなく…」
「体が悪いのか?」
金四郎は思わず目を剝(む)いた。
「はい。それゆえ、万が一の場合に備えて…」
「万が一の場合って、兄貴が死ぬってことかよっ!」
金四郎はつい大きな声を出してしまった。だが鉄右衛門(てつえもん)はいささかも動ずることなく、
「されば我ら家来といたしましては常に御家の安泰(あんたい)を第一義に考えねばなりませぬゆえ、当然、景善(かげよし)様の死にも備えねばなりませぬ」
平然とそう答えた。この辺り、貞吉(さだきち)の実父の貞通(さだみち)を髣髴(ほうふつ)とさせる冷徹さであった。
「嫌だっ。ぜってぇ戻らねぇからな」
「どうあっても?」
「ああ、どうあってもだ。そんな…、兄貴の死に備えてだなんて…」
「それでは兄君が亡くなられればお戻り下さいますか?」
鉄右衛門(てつえもん)は追い討ちをかけるようにそう尋ねた。金四郎は心の中で思わず何かが弾(はじ)け、気付いた時には鉄右衛門(てつえもん)の胸倉(むなぐら)を掴(つか)んでいた。
「てめぇ…、あんまり舐(な)めたこと抜かすと、ただじゃおかねぇぞ…」
大抵の者は金四郎のこの脅しで屈するものだが、生憎(あいにく)、鉄右衛門(てつえもん)はその大抵の者のうちには入っておらず、いたって平然としていた。
「どうぞ、ご存分になされませ。それで金四郎様のお気が済みますれば、どうぞ」
鉄右衛門(てつえもん)は顔を突き出す始末であった。負けたな…、金四郎はそう直感し、鉄右衛門(てつえもん)の胸倉(むなぐら)から手を離した。
「ともかく、俺は屋敷に戻らねぇぞ…」
「お父上がお困りでも?」
鉄右衛門(てつえもん)は切り札を出した。父・景晋(かげみち)は金四郎の唯一(ゆいいつ)の弱点であったからだ。
金四郎は世を拗(す)ねるかのようにして実家を飛び出し、放蕩(ほうとう)無頼(ぶらい)な暮らしを送っていたが、しかし、父・景晋(かげみち)のことを嫌っているわけではなかった。それどころか、金四郎は放蕩(ほうとう)無頼(ぶらい)な暮らしを送る己のことを常に温かく見守ってくれている父・景晋(かげみち)のことを敬愛してやまず、そして頭が上がらなかった。江戸に一時帰国している今、金四郎は現況を綴(つづ)った書状を秘かに景晋(かげみち)に送っていた。それは金四郎が屋敷を出る際に景晋(かげみち)が金四郎に約束させたことであり、
「気が向いたときで良いので、無事を知らせる便りをいたせよ…」
景晋(かげみち)は金四郎にそう約束させて、実家から自ら送り出したのであった。その後、間もなく父・景晋(かげみち)は長崎奉行として江戸を発ったために無事を知らせる便りを出すことはなかったものの、こうして江戸に一時帰国している間は週に一度は無事を知らせる便りを出していたのだ。
父・景晋(かげみち)とはそのような間柄であったので、その父が困っているとあらば、金四郎としてはこれを捨て置くわけにはいかなかった。
金四郎は思わず黙り込んでしまった。そんな金四郎を貞吉(さだきち)は不安げな表情で見つめた。どうやら己の元から去って行くのではないかと、そう不安な様子であり、金四郎の右腕をギュッと掴(つか)んだ。それに対して金四郎はそんな貞吉(さだきち)の不安が手に取るように分かり、どこへも行きはしないと言わんばかりにその手に…、己の右腕をギュッと握(にぎ)る貞吉(さだきち)の右手に左手を添(そ)え、貞吉(さだきち)の不安を和らげようとした。
だが、父・景晋(かげみち)の苦境をこのまま見過ごすわけにもゆかなかった。
「分かったよ…、それなら一度、屋敷に戻るぜ」
金四郎がそう答えると、鉄右衛門(てつえもん)はパッと表情を輝かせた。一方、それとは対照的に貞吉(さだきち)は再び不安な表情へと転じた。それどころかどこへも行かないと期待を持たせた分、裏切られたとでも思ったのか、実に悲しげな表情をした。金四郎はそんな貞吉(さだきち)の頭を優しく撫(な)でると、
「但し、貞坊(さだぼう)…、貞吉(さだきち)も一緒にだ」
そう条件をつけた。これには貞吉(さだきち)も再び不安な表情を拭い去ることが出来、逆に鉄右衛門(てつえもん)は如何(いか)にも憂鬱(ゆううつ)そうな表情を浮かべた。
「この貞吉(さだきち)殿もご一緒に、でござりますか?」
「そうだ。じゃなきゃ屋敷に帰ってやんねぇよ?」
鉄右衛門(てつえもん)は苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような表情で、仕方ないとばかりうなずいて見せた。
金四郎が貞吉(さだきち)を引き連れて愛宕下(あたごした)にある屋敷に一時帰宅したのはその翌日のことであった。家臣一同、金四郎を笑顔で出迎えたものの、貞吉(さだきち)に対してはあからさまに迷惑げな視線をよこしてきたので、
「あまりふざけた目で眺めてっと、まだおんでてくぞっ!」
家臣らにそう脅しをかけて、迷惑げな表情を消させた。
そんな中、父・景晋(かげみち)は笑顔で二人を…、金四郎と貞吉(さだきち)を出迎えると、
「この子が御留守居(おるすい)年寄衆の石河(いしこ)若狭守(わかさのかみ)様の御子息か?」
金四郎にそう尋ねた。
「ああ…」
「なるほど…、確かに目許(めもと)のあたりは若狭守(わかさのかみ)様によう似ておられる…」
景晋(かげみち)は貞吉(さだきち)の顔をまじまじ見つめると、そう呟(つぶや)いた。景晋(かげみち)は幕臣として、本城の留守居(るすい)である若狭守(わかさのかみ)貞通(さだみち)と顔を合わす機会があり、それゆえ貞通(さだみち)の顔を見知っており、目の前にいる貞吉(さだきち)に貞通(さだみち)の顔を重ね合わせて、しみじみそう呟(つぶや)いたのであった。そんな景晋(かげみち)に対して金四郎は思わず微笑した。
「何かおかしいか?」
金四郎の微笑に気付いた景晋(かげみち)はそう尋ねた。
「いや…、こいつの親父…、若狭守(わかさのかみ)にも同じことを言われたんでな…」
「同じこと?」
「ああ。若狭守(わかさのかみ)にしても、親父と俺は似ているらしい。特に目許(めもと)がそっくりなんだと…」
金四郎はそう言うと、貞吉(さだきち)をいったんは小川丁にある貞吉(さだきち)の実家である石河(いしこ)家の屋敷に連れ帰ったものの、父・貞通(さだみち)の貞吉(さだきち)に対するあまりに冷酷(れいこく)無比(むひ)な対応に腹を立てた金四郎が長屋に連れ帰った経緯(いきさつ)について、景晋(かげみち)にも改めて説明した。
「なるほど…、そういう事情であったか…」
景晋(かげみち)も微笑を浮かべた。
「それで…、兄貴が病なんだって?」
金四郎は表情を一転、引き締めると、小声で尋ねた。
「ああ…、今も別間にて休んでおる。恐らくはもう、小納戸(こなんど)としての職責は果たせまい」
「そんなに悪いのかよ…」
「ああ、一目会ってやってくれるか?」
「ああ、勿論そのつもりだが…」
金四郎は貞吉(さだきち)の方を見た。さすがに貞吉(さだきち)は、「俺一人でも平気だから…」と金四郎を送り出してくれたので、兄・景善(かげよし)が休んでいる別間へと足を向けた。
そこには青白い顔をいて床に臥(ふ)せっている景善(かげよし)の姿があった。小納戸(こなんど)としての職責は果たせまいとの景晋(かげみち)の言葉は決して嘘でも、誇張でもないようだった。
景善(かげよし)は目を瞑(つぶ)っていたので金四郎は起こさないようそっと床へ近づいた。すると景善(かげよし)は目を開けて、金四郎を迎えた。
「起こしちまったか…」
金四郎は申し訳なさそうにそう言うと、床のすぐ隣に腰をおろした。
「いや…、眠っていたわけではないゆえ、気配で気付いたわ…」
「そうか…」
兄・景善(かげよし)とも決して悪い関係ではなかった。つまるところ金四郎の被害妄想であった。己が屋敷にいたのでは親父や兄貴に迷惑をかけるに違いねぇ…、金四郎の家ではそんな被害妄想の産物であった。
だがこうして長年、顔を合わせていないと会話も途切れがちになる。
「その…、早く良くなると良いな…」
我ながら実に情けねぇ言葉だと、金四郎は自分が情けなかったが、しかし、他に言葉が見つからなかった。そんな金四郎に対して景善(かげよし)は微笑で応じた。
「ありがとう…、だがもう、良くなることはあるまい…」
「そんなこと…、ねぇよ…」
金四郎はそう言って励(はげ)まそうとしたが、景善(かげよし)は既に己の死期でも悟(さと)っているかのように頭を振ってみせた。
「金四郎よ」
「あっ?いや…、はい?」
「お前が遠山家を継げ…」
「何を言って…」
「俺はもう…、駄目だ…」
「そんなことねぇよ…」
「いや、事実だ…、だからお前が俺に代わって遠山家を継いでくれ。この通り、頼む…」
そこで景善(かげよし)は咳(せ)き込んだ。口元を手で押さえると、その手には血が混じっており、それを目にした金四郎は正直、ショックを隠しきれなかった。もう駄目だ、という景善(かげよし)の言葉が真実味を持って、金四郎に襲いかかったのである。
「ともかく、もう休め…」
金四郎は逃げるようにして席を立とうとした。だがその金四郎の裾(すそ)をどこにそんな力が残っていたのかと、そう金四郎にそう思わせるほど、景善(かげよし)は強い力で掴(つか)んで金四郎を引き留めたのだ。
「金四郎、頼む…、父上を…、悲しませないでやってくれ…」
景善(かげよし)はそう言うと、ガクリと頭を垂れた。思わず金四郎は兄の身に何かあったのかと、そう焦ったが、それが叩頭(こうとう)だと気付いて、胸を撫(な)で下ろした。だが重篤(じゅうとく)であることに変わりはない。
「ああ、分かったよ…」
重篤(じゅうとく)の景善(かげよし)を目(ま)の当たりにしては、さしもの金四郎も、家を継ぐ気はねぇ、とその場では我を張り通すことは出来なかった。
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