魂喰らい

凩 影途

第1話 遭遇

 足で地面を引っ掻く灰色の犀――【飲み込む犀ディティア】は体表が硬く、生半可な刃物は通らない。22層に生息しているが、その討伐難易度は30層を超える。そのため、いくら便利な素材が採れるとは言っても、なかなか狩る者がいないのが現状である。こいつを楽々と狩れる冒険者ならば、28層の【氷翼の鳥アイード】を狩っていたほうが稼ぎがいいからだ。


 生意気にも自身に挑みかかる冒険者に対し、【飲み込む犀ディティア】は大きく鼻を鳴らした。自身の防御力に絶対の自信を持ち、並み居る敵をなぎ倒してきた膂力を誇る魔獣。


「――ッ!」


 突進は受け止めない。黒鉄グロタル製の大盾すらひしゃげるというこいつの突進を生身の人間が食らったら、すぐに内臓を破裂させて苦しむことになる。

 だが、避けるのもあまり現実的ではない。なぜならこの【飲み込む犀ディティア】のサイズは体高だけで成人男性の2倍。横幅にいたっては3倍ある。受け止めることも、躱すことも不可能に近い。ゆえに、こいつに引き潰される中級者は後を絶たない。広大な22層を巡り、【飲み込む犀ディティア】を全滅させる――というのも、あまり現実的な案ではない。


 眼前に迫る“死”の塊。もう回避が間に合わないことを確信し、【飲み込む犀ディティア】はその目に油断の色を浮かべた。数多の冒険者と魔獣を葬ったであろう突進はしかし、俺に届くことはない。


 俺はまるで迫力に気圧されたかのように後ろに倒れた。こっそり掘っておいた窪みに自分の体がすっぽりと収まり、地面スレスレまで低く下げられた【飲み込む犀ディティア】の角がかすりもせずに上を通り抜けていくのを確認し――


「ハッ!」


 握りしめた剣を一気に突き上げる。手が持っていかれる前に素早く離し、通り過ぎていく灰色の腹を見届けた。【飲み込む犀ディティア】は角や表皮は硬いが、唯一腹だけは例外である。いったいなんのためなのか、腹は柔らかいのだ。狙うのはそう簡単なことではないが。


 血を撒き散らしながら走り去っていた【飲み込む犀ディティア】が倒れ込むのを見届け、俺は起き上がる。途中で抜けて転がっている量産品の剣を拾い、【飲み込む犀ディティア】の腹を捌く。体内から驚くほど白い胃袋を取り出す。このサイズの胃袋であれば、大商人や国が買い取ってくれるだろう。


「はぁ……」


 【飲み込む犀ディティア】の胃袋をしまう。【飲み込む犀ディティア】の胃袋は『冒険者の鞄』と呼ばれる魔具の素材になるため、非常に高い値段でやりとりされる。中級冒険者の中でも上の方にいる人間だけが持てる袋だ。


 【飲み込む犀ディティア】は自身よりも巨大な【巨茸ラウム】という茸を捕食する。この茸、巨大化すると一軒家ほどのサイズになるため、これを捕食するため胃が特殊な進化を遂げた、というのが定説だ。すなわち、実際の大きさよりも多くの物を詰め込める拡張化の魔術。あと、理由は不明だが中に入れておくと食品なども劣化しにくいらしい。


「今月の仕事終わり。帰ろ帰ろ」


 呟き、量産品の剣を見る。命を奪うための鈍色の輝きはくすみ、わずかに折れ曲がっている。そこらへんに捨てようかとも思ったが、こんな剣でも鋳潰せば多少は金になる。わずかに迷い、結局貧乏性が勝った俺は剣を『冒険者の鞄』に収めた。宿屋に折れ曲がった剣が十数本あることを思い出し、今度鍛冶屋に持っていくことにする。


「っ、つぅ……捻ったか……?」


 瞬間右手首に奔った鈍痛に顔をしかめる。どうやら、少し剣を手放すのが遅かったらしい。ともあれ、仕事は終わった。あとは帰るだけである。地上に戻ったら治癒院に寄ることを決意しつつ、俺は足を階段に向けた。





 † † † †





 12層。この層は、いわゆる『登竜門』としての扱いが強い。各所に配置された『小鬼罠』、油断していると大量に仲間を呼び寄せる【肉食蝙蝠スティア・ローク】、毒の鱗粉を撒き散らす【紫毒蛾フィスモス】など厄介な魔獣が多く、それまで勢いのあるパーティでも一度ここで詰まる。全滅することも珍しくない。迷宮に潜るのに必要なのは武力ではなく、知識と経験と頼れる仲間。驕り、迷宮の恐ろしさを甘く見た者からこの12層で屍を晒すことになる。


 周囲を微かに照らす【翠苔ラケ】に懐かしさを覚えつつ、俺は灰色の石でできた通路を進んでいく。32層に生息する【影縫い狼シャフル】の毛皮でできた外套は、問題なく俺の姿を隠してくれている。30層以下の魔獣や魔物は音や魔力感知で敵を探っているので『影潜の外套』は意味がないが、帰り道ならば関係ない。上級冒険者なら必ず持っている道具のひとつだ。


 そうやって敵との戦闘を避けながら帰る俺の耳に、激しい戦闘の音が響く。迷うことなく、戦闘音に背を向ける。迷宮で他者と会うことは、リスクはあってもメリットはほぼない。なにせこの中はほぼ治外法権。冒険者としてのマナーが少しだけ通用するのも20層までだ。それ以降は完全に自己責任。ほかの冒険者に殺されても何も言えない。死者は何も語らないのだから。


 というわけで、俺は段々近づいてくる戦闘音から逃げるように足を速める。このとき、俺は二つの油断をしていた。


 一つ目は逃げながら戦っている人間に追いつかれるわけがない、と高を括っていたこと。まあこれはそこまで致命的な油断ではない。自明の理である。実際追いつかれなかったはずである。


 二つ目、これがよくなかった。言い訳をさせてもらえるなら、そんなことは普通は起きないはずだということ。不運が重なったのだ。


 まさか進行方向からも、戦闘音と悲鳴が聞こえてくるとは。


「……え、挟まれた?」


 徐々に近寄ってくる戦闘音に俺が呆然としていると、まずは1人の男が姿を現した。

 俺が進もうとしていた方向から、妙に煌びやかな鎧を纏った男。数体の【肉食蝙蝠スティア・ローク】相手に長剣を振り回している。


「このっ、この私がこのような浅い階層で――!」


 なんで1人なんだろう、と自分のことを棚に上げて首を傾げる。はぐれたのだろうか。そうして首を傾げていると、背後――逃げてきた戦闘音も徐々に近づき、争っている者の姿が見えた。


「げっ、【荒裂き蟷螂セリガディス】……!?」


 2対の鎌を構え、6本の鋭い足を蠢かす黒褐色の巨大なカマキリ。本来であれば14層に生息しているはずの魔虫だ。油断していると中級冒険者すらも一裂きにする荒々しい昆虫種。

 間違っても、12層に出現していい魔虫ではない。対峙している冒険者の少女は、栗色の髪をなびかせ下がる。通路を塞ぐように前進する【荒裂き蟷螂セリガディス】が、無造作に鎌を振るう。無造作ゆえに予測が難しい昆虫種の一撃に、少女は左手のダガーに右手を添えて迎え撃つ。


(いや、それは腕が持っていかれ――!)


 勢いを殺しきれず吹き飛んだ少女は、軽やかに壁面を蹴り飛ばして着地。腕は無事なようだった。その身のこなし、中級一歩手前の適切な装備。戦意に輝く鳶色の瞳。彼女はまとも――どころか、かなり優秀な冒険者のようだった。しかし、息が荒い。体力の限界が近いのだろう。


「どっちを助けるべきか、は明白か……」


 俺は『影潜の外套』を放り投げ、左手で歪んだ剣を引き抜く。元より中途半端にしか鞘に収まっていなかった長剣は、鈍い光を散らして【荒裂き蟷螂セリガディス】の視線を集める。


「素材はくれてやる。こいつはお前には荷が重い、下がれ」


 このような少女が仲間も引き連れずにこの階層に降りてきているとは考えづらい。何か理由があっての無茶か、仲間とはぐれたか――もしくは、自ら囮になった・・・・・・かだ。


 少女は俺を一瞥し、何も言わずに後ろに下がる。余計なことは言わず、実力を見抜いて逆らわない。もしかすると、なんらかの手段で俺の存在に気づいていて、わざと【荒裂き蟷螂セリガディス】を押し付けた可能性もある。後ろに下がる少女を逃がすまい、と【荒裂き蟷螂セリガディス】はさらに2歩前に出て少女までの間に立ち塞がる俺を狙って鎌を振るう。右手の鎌を振り下ろし、俺はその一撃を体を傾けて避ける。


 体のすぐ横の空間を切り裂いていく鎌を見届ける。だが【荒裂き蟷螂セリガディス】の攻撃の恐ろしいところは一撃の鋭さではない。こいつの攻撃は重いが、それ以上に速く、そして続くのだ。右上からの鎌の振り下ろしは避けられて当然の一撃。続いて左上の鎌による薙ぎ払い。上半身を後ろに逸らして掻い潜る。右下の鎌が交差するように横に薙ぎ払われる。足元を狙った一撃を、俺は背を逸らしたまま後ろに跳び跳ねることで回避、鎌の間合いから外に出る。地面に手をついて反転、靴の底を削りながら下がる俺を、冷たい鳶色の瞳が見下ろしていた。


「……そんな目で見るな。戦力の把握は終了した」


 気まずさを振り払うため、咳払いを1つ。背後では鎧男の悲鳴がぎゃーぎゃーと響いているが、俺も少女も無視だ。全身金属鎧フルプレートメイルの装備をして一人で迷宮に降りてくるようなヤツに気をかける理由はない。


 歪んだ長剣をそこらに放り捨て、俺は背負った『冒険者の鞄』に手を突っ込む。長剣は銘が入った業物ではないとはいえ、量産品の中では質が良い。だが、こういった魔獣を相手にするのであれば力不足。


「力を貸してくれ――」


 赤く仄かに光る槍、“朱槍ディルムス”。俺とともにいくつかの戦場を駆け抜けた相棒であり、それ以上に思い出深い槍である。剣を使って戦うことが多い俺だが、こういった近接型かつ間合いが広い相手には槍を使う。

 久しぶりに握るディルムスは、妙に手に馴染んだ。冷たい金属の塊のはずだが、そこには確かな温もりがある。


 迷宮で槍を使うのは定石ではない。この通路は比較的広いが、中には槍を振り回す空間がない階層も存在する。迷宮に潜る冒険者たちが剣を好むのもこのあたりに理由がある。


「ふっ!」


 薙ぎ払われる鎌にディルムスの穂先を合わせる。敵の攻撃の瞬間を見極め、その先端に合わせる技術は、生半可な努力で身に着けられるものではない。自分でやっておいて言うのもなんだが、高等技術である。


 ディルムスが魔力に反応し、赤熱する。穂先が真紅に染まり、周囲の気温がわずかに上がった。【荒裂き蟷螂セリガディス】自慢の大鎌は、いともたやすくディルムスによって半ばから断たれていた。床に落ちて軽い音を立てる鎌の残骸。感情など窺えぬ昆虫種だが、その目は驚愕で彩られているように見える。


「呆けている場合か?」


 槍を回す。一度回せば足が二本斬り飛ばされ、もう一度回せば左の鎌が切断される。大上段に構えた槍を、勢いをつけて振り下ろす。頭から腹までを一息で切り裂かれた【荒裂き蟷螂セリガディス】は、最後まで驚愕の表情で俺を見つめながら崩れ落ちた。


 俺にとって20層より上の魔獣は全て片手間で狩れる敵でしかない。それは慢心でも油断でもなく、ただの厳然たる事実だった。


「で、状況は?」

「……私たちはいつも通り、この層を探索していました。そしたら【荒裂き蟷螂セリガディス】に遭遇して、安全な場所にみんなを逃がすために、私が囮を――」


 端的に説明された状況。脅威となる【荒裂き蟷螂セリガディス】が倒されている今、急ぐ必要はないように感じる。だがどうも、背筋を伝う違和感と不安が拭えない。まるで氷でできた手に心臓を掴まれているような悪寒。


「来た道を覚えているか?」

「はい、これでも斥候の端くれなので」


 淡々と言葉を返す少女。パーティの目であり耳である斥候は、誰よりも冷静に頭を巡らせなければならない。指示と鼓舞がリーダーの役割なら、斥候の役割は情報伝達と攪乱。しかしこの口ぶりだと、地図作りも彼女が担っていたのだろう。


「とりあえず、来た道を戻るか。俺もついていこう」

「あ……ありがとう、ございます……少し、急いでもいいですか?」

「ああ、構わない。俺も――」


 嫌な予感がする、と言いかけてやめる。不安を煽る必要はない。ただでさえ斥候役は打たれ弱く、こうしてパーティから離れるのは不安なはずだ。いくら自ら買って出た囮だとしても、不安というものは簡単に消えるものではない。少女は落ち着かなさげに周囲に視線を走らせる。


「ぐっ……! このガロエラ、こんなところで死ぬわけには――!」


 顔を見合わせた俺と少女はまだ【肉食蝙蝠スティア・ローク】と戦っている鎧男を無視することに決め、移動を開始した。“朱槍ディラムス”をしまうかどうか迷い、結局肩に担いで走る。


 魔獣が階層を移動するのはさほど珍しいことではない。2階層移動することも、珍しいが過去に例がないわけではない。だが、非常に嫌な予感がして、俺は背筋を震わせた。

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