第七章

第七章

数分後に杉三たちが、店から出てきた。

「あ、どうも。今日はいっぱい食べさせてもらってありがとうね。やっぱりここのラーメンはうまいよね。ほんと、麺もスープもしっかりしてるし。この後だと、三日くらい、ラーメンは食べなくてもいいや。」

杉三がでかい声でそういうと、

「本当だね。しかし、面白い話を沢山聞かせてくれて、杉ちゃん今日は本当にどうもありがとう。きっと、君はプロの噺家になれるよ。」

小川さんもそれに同調している。いつの間に、杉ちゃんは小川さんたちと、こんなに親しくなってしまったのだろうか?

水穂はポカンとしてそれを聞いている。

「あ、もう終わったの?打ち合わせ。」

何のことだと思ったが、これも杉ちゃんの作戦なんだとすぐにわかったので、

「はい。終わりました。ちょうど、電話が切れたところです。」

と答えた。口の周りを拭いておいてよかったと思った。ついでに、血液だらけの手拭いは、もう仕舞ってしまっていたので、それもばれることはなかった。

「右城さんもたいへんですね。まあ、そうですよね。あれだけもてはやされた人だから、演奏の打ち合わせには時間もかかるでしょう。僕たちのような、素人楽団とは、全然違うわけですからなあ。」

不意にメンバーの一人がそういう。あ、つまり杉ちゃんはそういうことを話して、ごまかしてくれたのか。それならそれでよかったと思った。

「そうなのよ。何しろこの顔だからね。会場作りとか、照明とか、すごい拘るよね。やっぱりマスコミ受けは必要だよねえ。」

メンバーさんの話に、杉三はそう答えを言った。

「そうですよね。それじゃあ、大変だ。まあ、とりあえず素人楽団の打ち上げは、これで終了ですから、お付き合いいただいて、ありがとうございました。これからも、頑張って演奏活動してください。」

メンバーさんに頭を下げられて、水穂は返答に困ってしまったが、杉三に突かれて、

「はい、ありがとうございます。」

と、だけ言った。

「じゃあ、お約束通り、僕らを送ってください。道順はえーと、」

「あ、僕が通訳しますから。」

杉三のお願いに、水穂はそう付け加えた。そのままメンバーさんに手伝ってもらいながら、二人は今一度ハイエースに乗せてもらう。

そのまま水穂の案内により、二人は製鉄所に帰らせてもらったが、到着した時はもうくたくたに疲れていた。杉三のほうは、まだメンバーさんと話をするくらいの、体力が残っているようであったが、、、。半分体力を分けてほしいくらいだ。

ハイエースに乗ったメンバーたちが、挨拶をして走り去ってしまうのを待って、製鉄所に入り、四畳半に戻ったときには、もう、着物を脱ぐのも忘れて、布団に倒れこんだほどである。

「あーあ、疲れたねえ。ま、ああいう無理解な人は、いくら説得したって時間の無駄だから、ごまかしたほうがいいのよ。そのほうがいい。」

「確かに、話をしたらもっと疲れると思うよ。もう、ああいう身分の高い人は、一緒にいるだけでも辛いから。」

恵子さんたちが心配して、部屋にやってくるだろうなと思われたが、杉三は、部屋には入れないでとあらかじめ言っておいたので、誰も来ないのが救いだった。

「何も食べてないと辛いだろ。だからはい。これ食べろ。」

杉三が、着物の袖の中から、何か取り出した。カップ入りの白いものと、プラスティックのさじが渡される。

「どうしたの、これ。」

「杏仁豆腐。小川さんに買ってもらった。お土産にするって言ってさ。これくらいしか、あの店では食べられそうなものがなかったの。」

「悪いね杉ちゃん。」

急いで布団の上に座り、封を開いて杏仁豆腐を口にした。

「うまいか?」

さすがに、市販されている杏仁豆腐よりも、味は濃くて、おいしかった。

「ありがとう。」

今になってやっと笑うことができるようになったなと思うのであった。とりあえず、食べ終わると、いくらか体力を回復して、着物と袴を脱いで浴衣に着替えなおし、再度横になった。

数日後。

富貴子はまた、竹村さんたちとの付き合いがさらに嫌になった。夫の話では、ママがご飯を食べるようになったと、美紀ちゃんが喜んでいるようだ。まあ、まだ、肉や魚などカロリーの多いものは躊躇するが、頑張って口にはしているという。奥さんは、努力して食べるようにしているぞ、自分でこうするようにしなければ、前向きにはなれないんだから、お前も頑張って、前向きに何かやってみろ、なんて、晋太郎は言っていたが、富貴子にしてみれば、ただ、先を越されて悔しい気持ちにしかならないのだった。

そうなると、夫の晋太郎は、さらに竹村さんとの付き合いを強化するようになった。たぶん、どうして竹村さんの奥さんが、そこまで回復したのか知りたいがためにそうなるのだろうが、富貴子にしてみたら、竹村さんに夫を取られてしまっただけのような気がする。

もう、竹村さんと話すのはやめてもらいたい。そう言いたい彼女だが、それも言い出せなかった。

その日は、夫に行ってみろとさんざん言われて、本当はうるさくてたまらないのであるが、吉原駅近くにあるショッピングモールの、バーゲンセールに行くことになった。とりあえず、雅美に粗末な服を着させて、岳南江尾駅に行く。

改札を済ませて、ホームに行くと、そこにはすでに先客がいて、電車を待っていた。きれいに着つけられたワンピースを着た、竹村美紀ちゃんと、そのお母さんである。つまり竹村さんの奥さんである。以前、保育園で会った竹村さんの奥さんは、見るからに拒食症のためがりがりに痩せていて、なんだか骨と皮という表現がぴったりだったが、今の奥さんは、少しばかり肉をつけ始めていた。

「美紀ちゃん!」

当然のように雅美が声をかける。

「こんにちは、雅美君。」

彼女も振りむいて、声を返してきた。

「土谷さんこんにちは。きょうは雅美君とお出かけですか?」

穏やかな表情でそういってくる竹村さんの奥さんは、普通の女性と特に変わらない口調だった。

「ええ、ちょっと買い物です。」

よそよそしく、富貴子はそう答える。

「そうなんですか。買い物も、結構楽しいですよね。わたしは、買物ができないほど鬱が辛かったんですけど、今は少しづつ、買物が楽しくなってきました。」

にこやかに言う竹村さんの奥さん。

「美紀ちゃんは今日はどこに行くの?」

「バラ公園にお花見。」

雅美の質問に美紀ちゃんは無邪気に答えた。

「え?今桜の季節ではないですけど?」

富貴子が急いでそういうと、

「いいえ、コスモスがきれいだって主人が言ってましたから、連れていくことにしました。あそこは、一年中何か花が楽しめる公園だそうで、外出するきっかけになると聞きますよ。」

笑って返す竹村さんの奥さん。

「あ、そうだね。桜だけではなく、ブナの木も。」

「冬になれば椿が咲いているって、保育園の先生も言ってたね。」

なんだか、だれが見ても仲の良いカップルのように、雅美と美紀ちゃんは話しているのだった。

「そうですか。土谷さんは御急ぎの買い物ですか?なにか必要なものが出たのかしら?」

竹村さんの奥さんの質問に思わずギクッとする。

「何ですか、竹村さん。」

「ちょうどお会いしたところですし、雅美君もうちの美紀もかなり仲がいいことは知っていますから、よかったら、一緒にご飯でもどうでしょう?」

「あら、ご飯なんて食べれないと言っていたのでは?」

富貴子は竹村さんにそうきつく言ってみるが、

「いいえ、頑張って食べるようにしているんです。でないと、本当に食べれない人に申し訳ありません。」

と、答える竹村さん。

「あら、もしかしてアフリカでも旅行されたの?」

からかってみる富貴子だが、

「そういうことじゃありませんよ。こないだラーメン屋さんに行ったときにね、着物姿の綺麗な人が、一人でラーメン屋さんの外で待っていました。きっと体質的にラーメンを食べれないとか、理由があったんでしょうね。あるいは、もしかしたらラーメンというものを民族的に受け入れられなかったのかもしれませんね。それくらい、日本人らしからぬ、綺麗な人でしたよ。そういう人もいるんだから、私の悩んでいることなんて、贅沢なんだろうなと考え直したんです。」

と、竹村さんは続けた。

「ま、まあ、、、。そういうこともあるんですか。何とも贅沢な人ですね。ほかの人に交わらないで我儘を通すなんて。」

「ええ。日本に暮らしている人は、日本人らしい日本人ばかりじゃありませんよ。もしかしたら、親御さんが中東とか、そういう人だっているでしょうしね。主人も、そういう人に遭遇したこともあったと言いましたので、私は驚きはしませんでした。無理して、口に合わないものを食べるより、そうやって待っていたほうが、きっとほかのお仲間も、安心していられるんだとわかったから。」

確かに、竹村さんのように理解をしてくれれば、少数民族も生きやすい世の中になると思われる。竹村さんは、事実にはちょっと脚色して話していたけど、富貴子は自分が能力がないと言われているようで、ちょっと悔しかった。

「いいわね、竹村さんは。そうやって理解のある人もいるんだから。」

「理解なんていらないわよ。あたしたち自身が何とかしようと思わなきゃ。」

にこっと笑って、そう返す竹村さん。

「まあいいわね。そうやってラーメンを食べに行けるほど気力があって。私は、家事がやっとだわ。」

「もう、土谷さん。確かにつらいかもしれないけど、少しは自分で何とかしようとか、そういうことも考えないと。ある程度、人間、孤独でも立ち上がるくらいの強さがないと、だめなのよ。あの時ラーメン屋さんで待っていた人も、自分だけが辛いのかもしれないけど、異国の地で生きていかなきゃいけないとでも思ってるから、耐えていられるのかなとあたしは考えていますよ。」

「竹村さん、自分で何とかしようと思っても、きっかけがないと何もならないでしょ。竹村さんは、そのラーメン屋さんで会った、外国の綺麗な人と、言葉を交わしてきっかけを作ることができただけじゃないですか。それじゃあ意味がないでしょうに。あたしは、そういうきっかけがそもそもないんです。竹村さんは、自由に外出できるけど、あたしは、それができません。」

富貴子は庶民らしい理由を言った。

「それにしがみついていたらダメですよ。つらさから回復するには、何々がないなんて、思ってしまうと、絶対にできませんよ。」

明るくいう竹村さんに、それは経済力と家族の協力がなければ、できるはずがないと反論してしまいたくなる富貴子だった。その間にも、雅美と美紀ちゃんは、ホームに設置されている看板の内容を読んだりして遊んでいる。子供だから、階級がどうのとか、そういうことを気にしないで話せるのである。大人になってしまうと、余分なことばっかり目が行ってしまって、肝心の内容はつまらないものになってしまう。

「竹村さんは、御主人の協力もあるし、お金だっ、、、。」

と言いかけたが、

「間もなく、吉原行きの電車が到着いたします。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側にてお待ちください。」

と、間延びした駅員の声が聞こえてきて、黙ってしまった。

「ほら、乗りましょ。そんなに本数もないんだし。次の電車を待っていたら、三十分以上待たされることになるわ。」

その通り、いつも乗せて行ってくれる、赤い色の二両編成の電車がやってくる。竹村さんたちは、何も迷いもなくその電車に乗った。雅美と美紀ちゃんは当然のように隣の席に座った。子供から目を離すのはもちろんいけないことだから、富貴子は竹村さんの隣に座る。

竹村さんは、富貴子が隣に座ると、先日美紀と主人と一緒に遊園地に連れて行ったが、人が多すぎて逆に疲れてしまった、美紀もそれをわかってくれたようで、これからは遊園地ではなく、公園に遊びに行けばいいからと言ってくれた時は、本当に嬉しかったので、さらに頑張らねばと思った、などなど語った。これを聞かされる間も結構つらかったのであるが、竹村さんは、無視して語り続けた。その傍らでは、雅美が美紀ちゃんと、人気テレビ番組である下町ロケットの話をしている。この二つのペアの表情を見ると、片方は本当に楽しそうで、もう片方は苦虫をかみつぶしたようであるから、過敏な人であれば、ちょっと変だなと気が付くだろう。でも、一般的な大人はそれに気が付かない。

暫くして、電車は終点の吉原駅に到着した。駅員の今西由紀子が、やってきた電車を出迎えた。

ドアが開いて、何人かの高齢の乗客を降ろした後、二組の親子が降りてきたのを由紀子は目撃した。一人の母親は、とても楽しそうにしゃべっているが、もう一人は、もう嫌で仕方ないという顔をしていた。その間に子供たちは、全く差別意識もなく、純粋無垢そのものに、会話を楽しんでいる。JRにいたころは、ほとんど見かけられなかった光景なので、由紀子が声を掛けることはしなかったものの、なんだか現代社会を象徴するような親子だった。もちろん、片方が変に地味とか、服装や所持品に対して差異があるわけでもなく、二人とも普通の親子なのだが、なんで明るく見える親子と、暗く見える親子というものは、はっきりわかってしまうのだろう。

「えーと、アピタは、ここからだとバスで中央駅に行くんでしたよね。」

竹村さんはそういった。

「そうです!」

やっとすくいができたと思って、声を上げる富貴子。

「じゃあ、私たちは違うわね。バラ公園は、バスが出ていないから、タクシーで行くんです。以前はバスもあったんですけど、なんだか最近遊園地ができて、みんなそっちへ行ってしまうから、路線が廃線になってしまったそうなので。」

「ええー。できれば雅美君と一緒にいたい。」

声を上げる女の子。

「何言っているの。保育園に行けばいつでも会えるでしょ。その時にうんと仲良くしなさいよ。今回は、保育園じゃないんだし、雅美君のママは用事があるんだから、その邪魔をしちゃだめよ。」

優しく言い聞かせるお母さん。ちょっと体が細くて頼りなさそうだが、お母さんとしての自覚はしっかり持っているのかな、と、傍観していた由紀子はそう思った。

「僕も、美紀ちゃんとコスモス見たかったな。」

ぼそっと男の子もそうつぶやく。

「わかった。じゃあ、あたしがコスモスの写真撮ってくる。保育園に行って写真あげるね。」

「わざわざ持っていかなくても、後でママがメールで雅美君のママに送ってあげる。そのほうが、早く雅美君の家に届くわよ。」

そうか、今は手紙よりも早く遅れるツールはあるんだ。でも、なんだか先の楽しみがなくなるというか、ちょっと物足りないなと由紀子は思ってしまった。

「いいですよ。竹村さん。私、スマートフォンを持っていないから。」

「ああ、大丈夫です。携帯でも、写真は縮小すれば送信できますから、気にしないでください。」

富貴子はそう断ったが、竹村さんはあっさりと笑った。

「土谷さんのメールアドレスは知っていますから、あとで送りますね。暫く待っていてください。じゃあ、遅くなっちゃうから、美紀ちゃん、行こう。」

「楽しみに待っててね。雅美君。」

竹村さんにとって、こういうことは負担ではないから言えるのだと思うのだが、富貴子には、保存場所がなくていい迷惑なのである。それに、プリンターの使い方も、夫である晋太郎に教えてもらわないと、よくわかっていない。晋太郎は、簡単だというが、元々鬱のある富貴子には、ちょっとしたエラーでも苛立ってしまい、操作ができないのである。

「うん、美紀ちゃんがコスモスの中で笑っているのを楽しみにまってるよ!」

子供ならではの、忖度のないセリフだった。大人ではとても恥ずかしくて言えないセリフを、子供は平気で発言する。大体が、テレビや童話の主人公の台詞を引用したものであるが、本人にとっては、それこそ、かっこいいセリフと思っているのである。

「じゃあ、写真送りますから、楽しみに待っててください。土谷さんも、アピタでほしいものが見つかるといいですね。」

「雅美君、またね。」

竹村さんは、そんなことを言い合って、切符を切りに、改札口のほうへ歩いて行った。

「ばいばーい!」

屈託なく、二人を見送る男の子。

由紀子は、二人の切符を切りながら、ほほえましくこの光景を眺めていたが、男の子の母親が、ぎょろっとした目で二人を眺めていることに気が付いてしまった。それは、般若というより、怒りで他人のいうことが聞けなくなってしまった、真蛇の目に近いものがあった。女の嫉妬を表現する能面は、怒りの度合いに応じて種類があるようだけど、そのくらい細かく分けられるのは、本当なんだなとわかる。

二人の切符を切りながら、この親子、何か様子がおかしいなと直感的に感じ取った。たぶん、あの女の子たちにはないものを彼女たちは持っている。

二人の背中は、女の子たちと少し色が違うような気がした。駅員の自分が、そういうことに気が付くのもおかしな話なのだが、、、。

とりあえず、親子はバス乗り場に向かっていったが、そのあと由紀子は二人ともどうするのだろうと思う。いやな予感がした。女性特有のあの能力だ。気が付いていないかもしれないが、由紀子にも備わっていた。

富貴子は、予定通りバスに乗って、約束したアピタというショッピングモールに雅美を連れて行った。本来、買う予定はなかったけれど、雅美に新しいジャージを買ってやった。店員さんの提案で雅美はそのジャージを着て帰ることにした。これでやっと、雅美は寒さから解放されたというのが正確である。

子供らしくうれしかったと丁寧に礼を言ったので、富貴子はまた、この子は私にはなつかない、竹村さんや、美紀ちゃんたちのほうが、私なんかよりよほどいいんだと確信した。

そうなると、なんだかものすごく絶望的な気持ちになり、、、。

ある決意が生じた。

「雅美、時間があるから。」

富貴子は、ショッピングモールのバス停で、雅美にそう声を掛ける。

「ちょっと、寄っていこうか。」




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