第五章
第五章
「はいはい、須藤ですが。」
吉原駅で電車を待っていた須藤聰のスマートフォンが鳴った。
「あ、ブッチャー。いまちょっと電話していいかしら?」
電話をよこしたのは恵子さんだ。
「そうですね、俺、いまから富士岡の呉服屋さんに打ち合わせにいくんですか、電車が来るまで二十分ありますので、少しなら大丈夫ですよ。」
とりあえず、聰は時計をみてそういう。
「実はね。」
「なんですか。」
「ちょっと様子が変なのよ。」
心配そうにいう恵子さん。
「誰が?」
「水穂ちゃん。」
「様子が変って、また何かしでかして、悪くなりましたかね?」
「このままだと、そうなるんじゃないかって、心配でしょうがないの。あたし。」
「あ、ということはつまり、大量に血を出したとか、具体的に何かしでかした、というわけではないのですね。そうじゃなければ一体どうしたんです?」
「そのうち、しでかしちゃうような気がするのよ。そんな気がするの。ここのところ、鹿威しばっかり眺めて、ずーっと何か考えていて、ご飯食べさせてもなかなか食べないし。あたしが、どうしたのかってきけば、いやなんでも、しか言わないし、、、。」
こればかりは、女性特有の感情かもしれなかった。懍であれば、具体的に容体が悪くなったという事実がなければ動くことはない。懍だけでなく聰を含めて、男性は大体そうなることが多い。しかし、女性というのは、不思議な能力のようなものが備わっているらしく、なにか悪いことが起こるのではないか、と根拠もなしに感じとってしまうことができるようだ。それが吉とでるか凶とでるかは、文献によると、大体凶ということが、ほとんどであるが、少なくともそういう能力は少なからずあるらしい。
「あたし、心配なのよ。そのうちまた何かしでかすんじゃないかって。そしてそれに便乗して、容体がまた悪くなるんじゃないかって。黙ってたけど、我慢できないから電話したの。見ていると、不安でしょうがないのよ。先生に話したって、お忙しいから聞いてはくれないし。」
電話の奥の恵子さんは、ひどく心配そうであったが、聰にしてみれば、いい迷惑というか、よく理解できないことだった。
「もう、恵子さん。具体的に何かあったわけじゃないんですから、あんまり小さなことで不安になる必要もないですよ。先生がよく言いますけど、事実が発生してから、対策を考えればいいじゃないですか。実際問題、大量に血が出て、また畳屋が必要になったとか、そういうことが起きたわけではないんですから、変に不安がると、水穂さんも迷惑してしまうのでは?」
「そうねえ、、、。そう考えるしかないかしらね。ま、そういうことなのよね。結局。」
聰がとりあえずそういうと、恵子さんは申し訳なさそうに答えた。
「すみませんね。俺がもうちょっと口がうまかったら、もっといい答えを出せるかも知れませんが、俺はご覧の通り、学歴もないし、肩書もない貧乏呉服屋です。すみません。もっといい言葉を並べられなくて。」
「いいのよ。ブッチャーの良いところは、そうやって口がうまかったらって言ってくれるところ。そういう男はなかなかいないわよ。俺に対してそんな馬鹿なこと言うなとか、俺は忙しいんだから聞いている暇はない、誰のおかげでやっていけるか考えろ、なんて力で女を押さえる男の方が多いんだから。自信もって。じゃあごめんなさいね。忙しいところを邪魔しちゃって。」
恵子さんは、そう続けて、電話を切った。
ピーピーとなる電話の音。
「もしもし、恵子さん?あーあ、俺はもう少し口がうまかったらなあ。杉ちゃんみたいに、面白いことをぽんぽんぽんぽん言えるような、そういう人間だったら、恵子さんを不安から少し、解放させてやれるかもしれないのに。なんでこう、口が下手くそ過ぎるんだろう。」
スマートフォンをケースにしまいながら、聰はそう独り言をいい、ベンチに乗せていたスーツケースをがらがらと動かして、電車がやってくる、ホームのなかほどへ歩いていった。
聰は、駅には他のお客さんは見当たらないので、誰もこの話を立ち聞きしているものはいないだろうと思っていたが、実は、駅にいたのはお客さんだけではないことを忘れていた。
駅員の由紀子がその一部始終を見ていたのである。
由紀子は、聰が駅にやって来て、岳南富士岡駅までの切符を買うのを目撃して、あ、この人も着物を着ている、なんて好奇心から、何をしている人なのか、さりげなく観察していたのだった。聰がスマートフォンをとって、取引先のお客さんと、着物関係の話でもするのかとおもったら、先程のような話をしはじめてしまったので、何となく悪い予感がして、注意深く話をきいてしまう。スマートフォンからの声は聞こえてこないので、恵子さんの声はまったくわからないが、聰が話している内容をきいて、しまいには水穂さんの名を出すと、この人はやっぱり関連がある人で、水穂さんの容体が悪化するのだと直感的にわかってしまった。これは、ことだと確信した彼女は、はやく結果を出さなければなと、決断をする。
本当なら、もうちょっと詳しくききたいけれど、聰は面識もあるわけではないので、声をかけても驚くだけだと思い、それはできなかった。かわりに、
「まもなく岳南江尾ゆきが、二両編成で到着いたします。危ないですから、黄色い展示ブロックの内側まで、下がってお待ちください。」
と、いつもの挨拶だけしておいた。
聰にしてみれば、駅員さん、ばかに機嫌がわるいなあ。ご主人と夫婦喧嘩でもしたのかなあ、くらいにしか、感じられなかった。
その数日後のこと。恵子さんが水穂の味噌汁をいつも通りに作って、それを四畳半に持っていこうとやって来たときであった。
ふすまの向こうから、結構激しく咳き込んでいるおとが聞こえてきたので、あ、やっぱり予感が的中した!と確信し、味噌汁はとりあえず廊下に置いて、ふすまに手をかける。ところが、聞こえてきたのはそれだけではなく、箪笥をあけて何か取り出している音も混ざっている。それと、咳き込んでいる音が代わりばんこに聞こえてくるのである。中ではなにか作業をしているようで、多分その都度手を止めて咳き込んでいるのだとおもわれるが、その間隔がだんだんに狭くなってくるのが心配になってきた。
ついに、どしんとなにか置いた音と、同時に咳き込む音がしたので、恵子さんはふすまをあけてしまった。
「なにをやっているの!苦しいのなら、寝ていた方がいいでしょう?もう、作業はいいから、早く寝て!」
思わずそういってしまう。水穂は、手拭いで手をふいていた。
回りには、何枚か着物が積まれていたが、几帳面な水穂らしく、たとう紙にしっかりはいって、きちんと畳まれていた。
「どうしたのよ!こんないっぱい着物なんかだして。」
「あ、すみません。たとう紙にブランド名でも書いておけばよかったんですが、書くのを忘れてしまって。ほどいて中を確認してみないとわからないものですから。ベテランの呉服屋さんですと、持ってみれば重さでわかるといいますけど、やっぱり確認はしておきたいかなと思ったんです。」
一体なんのことなのか、恵子さんにはよくわからないが、たとう紙をほどくといろんな種類の着物が出てくるため、なんのブランドの着物なのか、確認するために出しているのだとわかった。着物というものは、ブランドで着用場所がかなり違ってしまうものだから、一つ間違えると大変なことになるというのはわかるけれど。
「日頃から銘仙ばかり着ていたので、羽二重をどこかにしまい込んでしまったらしいのです。女性ものとちがって、柄があるわけではないから、鑑別が難しいんですよ。みためと、さわった感触しか、判断材料がないので。」
確かに、それはわからないわけでもなかった。同じ色であれば、生地の見分けかたはなかなかむずかしかった。女性であれば、染め方に特徴があったり、ブランドならではの柄があることもあるので、そういうところからの鑑別も可能であるが、男性ものは一色だけであるから、確かに間違えることはあり得る話だ。
「やっぱり、演奏会ですから、きちんとしていかないとまずいかと。銘仙ばかり着用したら、きっと失礼になりますよ。敬意はきちんと示さないといけないでしょう。」
「演奏会って誰の演奏なのよ!そんなに必要なの?」
やっと、それだけいう恵子さん。
「だから、同級生の小川さん。」
「それだったら銘仙で十分よ。偉いピアノの先生とか、世界的に有名なピアニストだったら、羽二重じゃなきゃいけないのかもしれないけど、同級生なんて、ただのクラスメイトじゃない。別に敬意を示す必要もないわよ。それよりも、必要なものを出したらはやく寝て!もう、顔が辛そう。あたし、見てられない。」
ちょっといらだって恵子さんは言った。
「いえ、昨日に比べたら頭痛にしろなににしろひどくはありません。いつまでも先伸ばしにしていたら、結局誰かに頼まないといけなくなって、かえって申し訳なくなりますから、やれるときにやらないと。」
恵子さんにしてみたら、演奏会にいくことなんて、本来とても無理であると思う。そんなことはあきらめて、とにかく作業をいますぐやめて、横になって寝てほしいのである。
「どうしてもいかなきゃダメなの?」
「はい。招待券郵送してもらいましたし。」
当然のように言うのが、逆に痛々しいのである。
「じゃあ、せめて着物の選別は、また後にしてよ。今はとにかく寝て。」
「だから、何回も言いますけど、そればっかり言われて、いつまでも実現できないじゃないですか。」
また三度咳き込んで、水穂はもういちど確認作業を開始した。もうやめてといおうかとおもったが、恵子さんは、それをいうこともできなかった。あるいみ、大学のピアノの先生よりも、クラスメイトの方が、より敬意が必要になる、という理論は、最近のいじめについて扱った本などによくでている。それが原因で自殺に追い込まれた子供もいる。例えば先生が家庭訪問に来た時よりも、クラスメイトが家に来た時のほうが、家の掃除を念入りにしてしまうとか。それは子供だけではなく、親にもみられるというのだから驚きである。
「あ、よかった。たぶんこれだと思うんですが。本当に数回しか着ていないので、何も汚れもついてないかな。」
一番最後に取り出した黒の着物がそうだったらしい。もちろん恵子さんは、違いが判るはずもないけど、、、。
「よかった。見つかったなら、早く寝て。」
水穂は無視して、ほかに出した着物を引き出しに戻す作業を開始する。時折手を止めて、咳をするの繰り返しである。
これのせいで、最後の一枚をしまうまでにはかなりの時間がかかった。
「久しぶりに出すと、疲れますね。でも、おかげさまで持っているのをすべて確認できたから、まだよかったかな。」
出した着物の八割から九割くらいが銘仙であったが、中には白大島や羽二重も混じっていた。さすがに、白大島をしまうのはちょっと躊躇していた。
「高級すぎて、使い道がないのも少なくないな。」
ちょっとため息が出る。
「少なくとも、僕が着るにはもったいなさすぎるけど、捨てたら杉ちゃんが黙ってないだろうな。」
そんなことを言いながら、また咳をするので、
「もういい加減に寝て!体がつらいのを大事にしてあげてよ!」
そればかり、口にしてしまう恵子さんだった。
「はい、すみません。」
とりあえずたとう紙に入った着物を引き出しの前において、布団に横になった。
恵子さんにしてみたら、やっとそうなってくれたか、というより、もう怒りの気持ちのほうが強かったのかもしれない。それでもかけ布団をかけてやるほどの、余裕はまだあったのでよかったのだが。
「いつあるの?演奏会。」
「あ、えーと、今度の土曜日だったと思うのですが。」
それをみて、また憂鬱というか心配になってしまう。
「一人で行く?」
「はい。」
当然のように答えるが、
「それだけはやめて!」
と強く言ってしまう恵子さんだった。
「だって仕方ないですよ。演奏番組だって、よほどバロックの知識がある人じゃないと、訳の分からない曲ばっかり取り上げるようですから。」
「そんなことはどうでもいいわ。大事なこと見落とさないでよ。途中で倒れたり、疲れて座り込んだりとか、十分考えられるでしょ、その体じゃ。その時どうするの?」
「だけど、たぶん、一緒にいってもわかる人いないんじゃないですか。ヴィヴァルディならまだわかるかもしれないけど、ドルネルとか、コレッリとか、たぶん知らないでしょう。」
本当は、ドルネルとかコレッリなんてどころか、ヴィヴァルディでさえも知らない恵子さんなのだが、そんなことはどうでもいい。
「知ってるとか知らないなんて、どうでもいいの!それより大事なこと忘れないでよ!なんとかして、チケットもう一枚取り寄せて。で、ちょっとでも体調悪かったら、こっちにすぐ連絡をよこせるようにして!」
「取り寄せできますかね。当日券ならたぶん販売するとは思うんですけど、片方に入場料を払わせるというのも、なんだか気が引けるな、、、。」
まあ確かにそうだ。少なくとも、単独ライブではないだろうから、1000円で入らせてくれるということはたぶんない。ソリストを呼ぶとかそうなれば、5000円くらい平気でとるバンドもある。
「じゃああたし、ブッチャーに電話しようか。一人で行けるなんて、絶対に思わないでよ。もしブッチャーがいいって言ってくれるなら、ホールの外で待っててもらうわ。」
ムキになって恵子さんがそういい返すので、水穂もさすがにブッチャーにこれ以上迷惑をかけてはならないなと思った。それでは何か、必要な人材を確保したほうがいいと、考え直す。
だけど、そういう人材っているんだろうかと考えると、思いつかない。ブッチャーは優しいから、すぐに手伝うと言ってくれるとは思うのだが、彼にバロックの知識なんてどこにもない。ブッチャーに会場に入って、バロック音楽を聴いてもらうとなったら、お姉さんのこともあり、ちょっと酷という気もする。
そうかといって、蘭ではチケットを転売してしまえとか、そういうことをいう気がする。蘭であれば、恵子さんよりもっと強固であるはずだから、お前は絶対に行ってはいけないというだろうし、金がもったいないから、ネットオークションとかメルカリに出品してしまうことも平気でする。でも、チケットの表紙に、転売は無効ですと、しっかり書いてあることも思い出す。それに、蘭は、具体的な指示を出す前に、たっぷりのお説教を食らわすのも予測できた。
青柳教授は忙しすぎて、問題外であるし、そのようなことを頼むなんて、自身で責任を取れと叱るだろう。
最終手段として、水穂はよいしょと布団の上に起きた。
「ちょっと、せっかく寝たのにまた起きるの?」
恵子さんがそういうが、
「当たり前じゃないですか。電話くらいしなければ。」
水穂は机の上からスマートフォンを取った。
「どこへかけるの?」
「小川さんのお宅ですよ。もしかしたら、まだ稽古をしているかもしれないですけど、電話すれば着信履歴に残るでしょうから。」
と、小川さんの番号をダイヤルした。恵子さんはまだ、心配そうに見つめている。
「あ、突然電話してすみません。いまもし、お邪魔じゃなければ、ちょっとお願いがあるのですけど、、、。あ、そうですか。じゃあ、すみません。少し時間ください。あの、今度の土曜日の演奏会、もう一人見たい人がいるので、当日券を取り置きしていただけないでしょうか。ええ、お代は僕が出しますから。」
同級生なのに、なんだか先輩とか先生にいうようなしゃべり方だった。そこがもう、格差を感じさせた。でも、小川さんはそういうところはまったく気にしないで、からからと笑ってこういうのが聞こえてきた。
「あ、いいよ、招待券、もう一枚速達でそっちに送るよ。速達であれば何とか前日には届くでしょ。代金は気にしないでもいいよ。今年は、10回目の記念演奏会なのに、なぜかお客さんの入りが悪くてさ、チケットの売り上げが悪いんだ。だから、一枚くらい招待券を増やしてもたいして変わらないから。」
「そうですか。でも、大事なことですので、お支払いはしますけど。」
「いいよ、気にしないで。じゃあ、今外だから、家に帰ったら招待券もう一枚そっちに送るから。やっぱりお前は顔が広いな、そうやって誰かを連れてくるんだからな。」
たぶん、誰か音楽仲間でも、連れてくるんだろうなと思っているのだろう。そういう人物ではないのがちょっと悲しいところであるが、仕方ないことだった。
「すみません、お稽古中に電話かけてしまって。たぶん、お弟子さんたちに迷惑がかかるでしょうから、もうこれで失礼します。」
「いや、もう練習は終わって、片付けしているところだから別にいいよ。これから、お弟子さんたちと飲み会をして帰るんだ。みんな、楽器も好きだけど酒が好きだからな。そういう付き合いも大事なんだよ。招待券は、また送るからな。それよりお前、体調どうなんだよ。少し楽になった?少なくとも病院には行っただろ?」
また同じセリフを言われるのも嫌なので、
「変わりありません。何も。」
一言だけ言い、電話を切った。
たぶん、小川さんには、いい迷惑だろうが、次のセリフを聞かないようにするためにはそうするしかないのである。
恵子さんが、心配そうに見ている中、もう一度スマートフォンを取って、水穂は別のところに電話をかけ始めた。
一方。
駅員として勤務をし終えた由紀子は、今日はいつもコーヒーを買っていく、コンビニによることもなく、真っすぐ自宅マンションに帰った。
部屋のサボテンに話しかけることもなく、カバンを適当に放り投げて、すぐに机の上にある、ノートパソコンのスイッチを入れる。
そのまま、インターネットにアクセスするアプリケーションを立ち上げて、熱心に何か調べ始めた。
駅員帽をかぶったままなのも全く気が付かなかった。
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