30

「お嬢さん、海君の検診何時からですか?」


 庭で花に水やってると、環が声をかけてきた。


「えーと、11時…あれ?環、非番じゃなかったっけ?」


 環は、休みの日はほとんど姿を見せない。


「ええ。今日は私がお供します」


「え?舞じゃないの?」


「それが…おたふく風邪を発症しまして」


「おたふく風邪?あらら…海のがうつったかな」


 海は先週、とっても軽いおたふく風邪をクリアした。



「今朝早くに沙耶が病院に連れて行って、そのまま入院させました」


「入院?そんなにひどいの?」


「用心のためです。新人ですから、きっと無理してしまうでしょうし」


「なるほど…」


 みんな、気が効くな。

 きっと舞は無理してでも仕事をしちゃう。

 人にうつすからおとなしくしてろって言っても、きっと部屋で勉強しちゃう。



「それで非番の環が?」


「私でも構いませんか?」


「……」


 あたしは、少し考えて。


「じゃ、着替えてきて」


 スーツ姿の環に言う。


「え?」


「休みの格好で来てよ。あたし、今日は舞に買物もつきあってもらう予定だったんだもん。そんなビシッとした格好じゃ、あたしもこんな格好じゃ行けないよ」


 あたしは、白い長袖Tシャツに黒いミニのジャンバースカート。


「は…あ、でも…」


「早く」


 あたしが急かすと、少しだけ困った顔してた環は。


「じゃ、少しお待ちください」


 って、別宅へ帰って行った。


「んまっ」


 リビングの窓から海が顔を出した。


「海、環とお出かけよ」


 あたしが、じょうろをおさめながらそう言うと。


「環と?」


 海の後ろから、母さんがヒョッコリ顔をのぞかせた。


「どうして、環と?」


「舞が入院したんだって」


「それは知ってるけど」


「じゃ、なんで聞くのよ」


「だって、いつもならそんな言い方しないじゃない。環は護衛なんだから」


「ああ、買物につきあってもらうの」


「……」


 母さんはキョトンとしたあと。


「そう。いいわねぇ。海君、環とお出かけだって」


 って、満面の笑み。


「楽しんでらっしゃい」


「…何、買物して帰るだけよ?」


「織」


 母さんはあたしの肩に手をかけて。


「環たちはね、毎日緊迫した世界に住んでるの。安らぎなんてないのよ」


 って言った。


「……」


「考えてみなさい。本当なら、彼女と遊びまくったり飲みに行ったりハメはずしたりする年頃よ?それが、何もないんですもの。今日くらい環の彼女になってやったつもりで甘えてやんなさい」


「何よそれ。あたしの甘えなんてウンザリしてるんじゃないのぉ?向こうで散々だったなんて愚痴こぼしてなかった?」


「だから、環の彼女になったつもりで甘えてみなさいよ」


「彼女ねえ…そろそろできてるんじゃない?万里君にも沙耶君にもいるし」


 当初、彼女のいなかった三人。

 が、万里君は先月から本部の女の子とつきあっている…らしい。

 続いて沙耶君に年上の彼女が出来た。

 環はー…そういう話をしないから分からないけど…


「いない、いない」


 母さんが、首を振りながら言った。


「彼女がいたら、すぐ分かるもの」


「どうして?」


「環は、すぐ顔に出るでしょ?」


 あたしは、考える。


「…そうかな」


「そうよ」


 あたしにとって、環は…

 厳しくて、正直で、唯一あたしを甘やかさない人。

 でも、優しくて頼りがいがある。



「ま、あんただって、ろくに遊んでないんだし。今日は遅くなってもいいからたくさん遊んでおいで」


「遅くなってもいいって、今日のメインは海の検診なのよ?」


 あたしは、リビングへ上がり込んで海の着替えを始める。


「じゃ、母さんもついてく」


 ふいに、母さんがそう言って笑った。


「え?」


「決まり。さ、行きましょ」


 母さんは一人で納得して、玄関に向かってる。


「お待たせしました」


 ちょうど、環が着替えてやって来た。

 こっちでは、久々のカジュアル。

 休みの日とか言っても、見かけた時はわりとちゃんとした格好してるし。



「あ、母さんも行くって言い始めちゃったけどいい?」


「…姐さんが?」


 環は、眉間にしわを寄せて自分の姿を見おろした。


「問題ないわ、環」


 環の後ろから母さんが上機嫌でやって来て。


「織、早く支度なさいな」


 待ちきれない様子で、あたしを急かした。


「はいはい」


 海をつれて玄関に向かう。


「ちあー」


「はあい。おばあちゃんと行きましょうねー」


 門前で母さんが海を抱えて。


「どうぞ」


 環が後部座席のドアを開けたけど。


「あ、織は今日は助手席」


 母さんがそう言って後部座席に乗り込んだ。


「え?」


 環と顔見合わせる。


「…ま、あたしはいいけど」


 助手席なんて、新鮮だな。

 あたしは喜んで助手席に乗り込む。

 環は少しだけ困った顔をしたあと、運転席に座った。



「さ、海くんお出かけよー」


「わうっ」


 あたしたちの後ろで、母さんは海を抱えて妙にはしゃいでいた。



 * * *



「じゃ」


「ちょっ…母さん?」


 あたしと環は、呆然。

 海の検診が終わって、母さんはベンツを自ら運転して海を連れて帰ってしまった。

 しかも。


「10時まで帰っちゃだめよ」


 なんてすごみをきかせて。



「…私は…何か気に障るようなことでも言いってしまったのでしょうか…」


 環が、真剣に悩んでる。


「…それはないと思うけど」


 あたしは開き直った。

 仕方がない。

 こうなったら、環に一日つきあってもらおう。



「ね、とりあえずお茶しよ?」


「お茶…ですか?」


「何よ、いやなの?」


「いえ…思ってもみなかった展開で…」


 なんだか、初めて見る。

 環の狼狽えてる姿。

 いつもは歳よりいっちゃって見えると思ってたけど。

 今日は服装も手伝って歳相応。



「そんな困った顔しないでよ」


「困った顔してますか?」


「うん、すごく」


 環は自分の頬をペシペシって叩くと。


「参りましょう」


 歩き始めた。




「あたしね…」


 あたしは、環を目の前に話し始める。


「こっち来た時、環が苦手だった」


 あたしがそう言って小さく笑うと、環はコーヒーを手に苦笑い。


「だから正直言って、向こうでもヒヤヒヤしてたのよ」


「すみません」


「どうして謝るの?」


「私は、よく言葉や態度がきついと…」


「続きがあるの」


 あたしはストローでアイスティーの氷を突く。


「苦手だったけど、環が一番あたしを理解してくれてるなって思う」


 まっすぐに環を見て言うと。


「……」


 環は、目を丸くしてあたしを見た。


「環の言葉の一つ一つが、真実だけを伝えてくれてるような気がする」


「…私はお嬢さんを傷つけたことも…」


「あれはあたしが勝手に部屋に入って知ったことだし…それに、知らなきゃいけないことだったんだから」


「……」


「前は意地悪だなって思ったこともあったんだけどね。本当は、あたしのこと思って言ってくれてるんだよね…?」


 花壇を賭けた柔道も射撃も何もかも…

 結局は、あたしが二階堂を継ぐことに必要不可欠なこと。

 それを無理やりじゃなく、あたしが自分で始めるように仕組んだり。

 環って、知能犯だな。



「昔に比べて優しくなったよね。あたしが慣れたのかな」


 あたしが笑うと。


「…私が優しくなったわけでも、お嬢さんが慣れたわけでもないですよ」


 って、環は静かに目を伏せた。


「?」


「お嬢さんが大人になられたんです」


「……」


 あたしは…環を見つめる。

 気が付かなかった。

 きれいな目。



「いつか、きちんとお礼言わなきゃいけないって思ってたんだけど」


「お礼?」


「向こうでのこと。環がいてくれなかったら、あたしー…あんなに安心して海を産めなかったと思う」


「安心されてましたか?」


「してた。環がいてくれて、すごく心強かった」


「…ありがとうございます」


「どうして?それはあたしのセリフなのに」


「そう言っていただけるだけで、充分ですから」


 そう言って環は、コーヒーを一口。



 …あたしたち…

 一年以上も二人で暮らしてたのに。

 こんなこと一度もなかったな。

 あたしは自分の出産のことで頭がいっぱいで、環のことなんて考えてあげてなかった。


 でも…

 環は常にあたしのこと…


 勉強や訓練は当然だとしても、それ以外。

 環はいつも、あたしに苦痛を味合わせないようにしてくれてたと思う。

 舞との時間を作ってくれたり、景色を楽しむ余裕をくれたり。

 …すごく穏やかだった。

 全て、環のおかげで…。



「…ね」


「はい」


「今日は、織って呼んでくれない?」


 あたしがそう切り出すと。


「…………はっ…?」


 環は見た事ないような、困惑した顔。


「母さんに言われたんだもの。今日はデートして来いって」


「デ…あ…姐さんが?」


「どうせ出かけるなら、あたしだってその方が楽しいわ。デートらしいデートなんてしたことないし。環って、そういうの詳しそうだし」


 あたしがおどけた口調で言うと。


「そっそんな、俺は…」


 って、環は慌てた。

 今、環…

『俺』って言った。

 あたしはキョトンとして環を見る。


「…失礼しました」


 環は咳払いして。


「…買物には、喜んでお共いたします。でも、その…デートだなんて私には…」


「あたしとじゃ、物足りない?」


「まっまさか、そんなこと」


「環が俺って言うの、初めて聞いたなー」


「す…すみません、つい…」


「今日は、それでいて?」


「え?」


「俺。あたしのことも、織。万里君たちと話すように普通に話して」


 あたしがズラーッと言いきると。


「無理です」


 環は、眉間にしわ寄せたまま、キッパリ言った。


「母さんの命令よ?」


「……」


 あたしのトドメの言葉に、環はうつむいてうなだれて。


「…努力してみます…」


 ってつぶやいたのよ…。

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