壱:ある日の話

 空がある。黒い空だ。太陽は疾うに地平線の底に沈み月が世界を支配している。

赤や青を帯びた銀色の瞬きがちらちらと輝いていた。

 ちりん。ゆるく吹いた風が窓辺の鈴を鳴らす。軽やかな音に誘われるように、彼はゆるりと窓辺の安楽椅子に腰を下ろした。ふぅ、軽く吐かれた息に疲労が零れる。

 熱を帯びた目頭を軽く指で押さえて、閉じた視界に先程まで見ていた光が焼き付いているのに苦笑。疲れているのか、と問われたら即座にNOと答えるだろう。

―この程度でなどいない。

 ふ、と窓の外で月光が陰る。白と黒と灰色のコントラストを描いた厚い雲が月を飲み込んでいく。うすらと瞳を開けて、その様子を視て、瞬間脳裏に浮かんだ光景に思わず咳き込む。

 咳き込むのと同時に身体の奥深くから吐き気がこみ上げてくる。ぐ、と喉が鳴る。

 いっそしまえば楽なことは解っている。けれどそれを吐き出せる場所などない。確かに喉元まで上がってきたそれを無理矢理飲み込んで、乱れた呼吸を整えるために両手で口を抑える。は、は、短い吐息を抑え込むように。

反射的に浮かんだ涙と汗をぬぐい、今度こそ安楽椅子に身体を投げ出す。




 水の流れる音が聞こえる。整えられた中庭に流れる人工の小川だ。ぴちゃり、鯉が水面を乱す波紋を描いて、瞬間、自分が何をしようとしていたのかを忘却していた。

 きらりと水面を反射した陽光が目を灼いて、嗚呼、と思い直す。

 自分は用事を言いつけられたのだった。

 反りの合わない養母とは言えど、確実にこなさなければ後でなにを言われるか解ったものじゃない。だから、面倒くさいと思いながら表面だけは従順に、丁寧に受け取ってきた。それを渡せば用事はおしまい。それだけのはず。

 それなのに、何故。

 目の前にある引き戸が異様に大きく見えるのか。


 、脳髄の深くから警鐘が鳴る。殴られたかのように頭が痛い。じくじくと内側で腐っていくような鈍い痛みが広がっていく。


 だめだ。頭では解っているのに。それなのに手は止まらない。


 からり、引き戸を開けた瞬間に鼻腔に広がる錆びた匂い。映る色は赤。真紅と黒が白に映えて気味の悪いほどのコントラストを描いていた。ずちゅ、ぬめった音が奇妙な程に耳に響いた。


……声が出なかった。


 目の前にある光景はある意味見慣れたもので、酷く現実味がなかった。遠い何処かで起こっていることを見ているような感覚だった。


 かたん、思わず落としてしまった荷物が乾いた音を立てる。その音にはじかれるように向けられた顔の、その昏い眼窩に。


『これがお前が望んだことか』

―違う。


『お前の眼に映る俺はさぞ滑稽な道化だっただろう』

―違う。


『   の為だなんて上手い言い訳が出来て良かったな』

―違う。


『何が違う? お前は自分のやりたいことを   の為にと建前をつけて最もらしく聞こえるようにしているだけだ』



「―違う!」


 跳ね起きた。

 周囲を見回して、そこが先程と全く変わっていないことに安堵の息を吐く。


「違う……私は……私はただ、」


 誰に向けるわけでもなく、口唇から声が漏れた。吐き出そうとして、それを口唇を噛んで堪える。言ってはいけないことだ。これは決して、言ってはいけない。

 罪悪感があるのか、と自問するけれど自分の中をどれだけ探してみてもそんなものはなかった。

 きっとあれは自分の本心なのだろう。それが正しくないことなど解っている。誤魔化しなんて無駄なことももう、解っている。

それでも、まだ。


 これ以上、甘えるわけにはいかない。だから。





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