まるい

千疋るる美

第1話

 涙は丸い。理由の考えつかないうちに体の内側からわき上がり、まつげの上をこぼれ頬を伝い、シーツに落ちた。ベッドの上にできた丸いしみがほかの何よりも恥ずかしくて、美々はそれを枕で隠した。

 壁に向かって、一人で処理を済ませた航が布団に入り込んでくる。まだ汗の乾ききらない肌が美々に触れた。

 美々は思わず息を吸い込む。布団の中の湿っぽい熱がもどかしい。行為が終わってしまっては、声のかけ方すらわからない。沈黙を埋めるように美々は航に体を寄せた。

「あのさ、わかってると思うけど……」

 航はわずかに体を離し、強ばった声で言う。

「わかってるよ」

 苛立った声で美々は航の言葉を遮った。

「今日で、これで本当に……」

「わかってるって」

 こういうところだった、と美々は思い出す。航はなんでも言質をとりたがる。いつだって、航は正しい。「美々も前に言ったじゃん」と、言う。美々はたしかに言ったのだ。航の期待に添う言葉を。

 航は言質をとりたがったから、愛してるも信じているずっと一緒にいようも、何度も何度も確認し合った。美々は言えないでいる。

「航も前にいったじゃん、何があってもずっと一緒にいようって」

 航は美々に背を向けて寝ている。そんなことにいちいち美々は動揺してしまう。もう航には美々のどんな言葉も響かないんだと知る。

「愛することくらい私のペースでやらせてほしい」

 美々はついに言うことができなかった。飲み込んだ言葉でおなかがいっぱいで、今日もおなかが減らない。

 瞼を閉じると、引っ張られるような眠気とともに、先々週の土曜日の夕方のカフェの光景が蘇る。静まりかえった店内と、航の手からしたたり落ちる水滴、テーブルの上の小さくなった氷、震える自分の手。

 小さく痛み出した胃を無視して、眠気に手を伸ばす。隣に航の体温があるうちに眠らなければ、と美々は焦る。また始発が動き出す頃に、航はこの部屋を出ていってしまうから。


 あれから、まだ二週間しか経っていない。よく眠れない、食べられない二週間は恐ろしく長かった。

 この二週間で美々は二キロ痩せた。もともと痩せ型なので、二キロでも二キロ減っただけで美々はずいぶんやつれた。鏡にうつる自分の姿を見て美々は「醜いな」と思う。

 乗り越えたのは航だった。もうしばらく前から別れの予感だけは漂っていたけれど、何度もすんでのところで踏みとどまっていた。その日は航から「話がある」と連絡があったけれど、美々はいつもの流れだろうとしか思っていなかった。美々の家でいつも通りガス抜きの口論が終わればセックスをして航は聞くだろう。「ずっと好きでいてくれる?」と。

 だから、美々はいつも通りの口論をした。

「じゃ、もう無理だね。別れよう」

 航がそう言ったとき、美々は「え?」と聞き返すことしかできなかった。美々はそのときまで、自分たちが完全に別れるという選択肢はないと思っていた。思いこんでいた。

 たとえ航がサークルの後輩の女の子の家に泊まったという噂を聞いても、知らない女の子と学食で一緒にいるところを見ても、ラインを未読スルーされることが増えても、iPhoneを触る時間が増えても。

 航は「価値観が合わない」「お互いのために」とか、きれいな言葉で別れる選択の正当性を主張したが、美々の頭には入ってこなかった。ただ思い出していた。この間、航が知らない女の子と学食でご飯を食べていたときの航の笑顔、あんな笑顔が最後に自分に向けられたのはいつだっただろうか。

 もう好きじゃなくなった女に対して、どんな気持ちなのか美々はわからない。

「別れたくない」

 美々の口は咄嗟にそう動く。本当か? と疑問が美々の中にわいてくる。それを打ち消すように美々はもう一度

「別れたくない」と言った。

「だって、無理じゃん」

 航は用意していたように笑った。少し上がった航の口角につられるように美々の心も片側に傾く。航の学食での笑い方とは全然ちがう。美々の心の中で何かに火が灯る。呼吸が浅く、手足が冷たくなるのがわかった。

「どうしても無理なの?」

「うん」

「そっか……。わかった」

「本当に好きだったよ」 

 航がそう言ったとき、美々は泣いた。のぞき込むような航の目が、「私も好きだったよ」という言葉を求めているのがわかったけれど、どうしても言えなかった。まだ現在進行形だ。

 航は終電前に帰って行った。美々は部屋の隅で、呆然と座っている。航が美々の部屋で着ているパーカーを抱きしめると、航のにおいがした。勝手に涙が出てくる。グレーのパーカーにいくつもの涙のあとができる。

 

 その日から、眠れないし食べられない。傾いた心をどうにもできない。

 金曜日の四限大学の講義がかぶっていたから、いつも通りに隣に座り、「今日ご飯食べに来ない?」と誘う。

「え、行けないよ」

 航は困った顔をする。航は困った顔をするのが、

 結局は折れて美々の家に上がった。いつもと同じように勝手に冷蔵庫を開け、使ったタオルを洗濯機へ放り込み、いつもと同じ手順でセックスをした。別にそんなにいいものでもなかった。

 始発が動き出す頃、航は布団を抜け出した。美々は背中に視線を感じながらも、寝たふりをする。

 航はシャワーを浴び身支度を整えると、美々に布団をかけ直すと部屋を出て行った。

 美々はまだ寝たふりを続けている。涙は丸い。

 

 いくつもの悪夢を見て、十時過ぎに起き出した。化粧も服も手を抜いて、手帳を持ってカフェに行く。イヤフォンをつけるけれど、iPhoneには航の好きだった曲しか入っていない。 

 美々は航のどこが好きだったんだろう、と考える。航の長所は短所の裏返しだ。優しさはずるさの裏返しだ。誠実さは疑い深さの裏返しだ。考えても考えてもどこが好きかなんてわからなかったけれど、本当に好きだったことだけは確かだった。

 航が一番大事にしている、「優しくて誠実な自分像」に泥を塗ってやろうと思った。少しでも損なってやろうと思った。別れた女とずるずる続いていたことすら、航の性格的に長くもやもやが残るのがわかっていた。美々の友人にどう見られるのか、気にして萎縮するのがわかっていた。

 少し経って、航がサークルの後輩の女の子とつきあい始めたと聞いた。

 大学構内ですれ違うとき、航の目は悲しいほど泳ぐ。美々と仲のいい女の子たちに嫌われていないか、変な噂が流れていないかそっと確認している。

 それは美々が予想した通りの行動だったので、むなしくなった。航がダサくて情けなくて、それで自分がこれまでどれだけ航を見ていたのか、好きだったのかを思い知らされて泣けてくる。

 美々の部屋においたままのパーカーをゴミ袋に入れて捨てた。アスファルトに落ちた涙は丸かった。手帳の文字をにじませた涙は丸かった。


 それから何年も経って、美々は街の中で航を見た。

 美々はオープンカフェにいて、夫と一緒にぐずる娘にサンドウィッチを食べさせていた。夫は新卒で入った食品メーカーの同期で、四年前に結婚して二年間に娘が生まれた。夫は営業課で働き、美々は去年から総務課で時短で復帰している。

 航は髪の長いきれいな女の子と歩いていた。こういう子がまだ好きなんだな、と思い、美々は短く切った自分の髪をなでた。航が目の前にいるのに、ほかの人と一緒にいるのに涙は目の裏に閉じこもったまま出てこない。

 涙は丸かっただろうか、と美々は思う。

 ジュースのおかわりをねだって娘が泣き出す。涙が頬を伝って流れ、テーブルに落ちた。テーブルにしかれたビニールの上で、涙は揺れてかたちを崩す。

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まるい 千疋るる美 @toumyonchan

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