第1章-17
火白と千次、それに小狐たちがたどり着いたのは、玉子稲荷の周りにつくられた小さな市である。通町に比べれば、無論のこと静かなのだが、それでも結構な賑わいがあった。
たどり着いたころには、既に日も中天を過ぎていた。火白はそうでもないのだが、千次と小狐たちは何か腹に収めなければならない。
今回は千次の金で、味噌をたっぷり塗った餅を買った。餅は竹の串に刺さっていて、山椒の葉が練り込まれた味噌は、鼻につんと来て旨い。一方の小狐たちは、甘いものが欲しいと言い出し、袖の中で火白が金を出して買った大福餅を頬張っていた。
袖がもぞもぞと動いて仕方ないのだが、食べている間は静かなので、火白はそのままにしていた。
串の餅を齧る千次と共に歩き、道行く人の流れを避けつつ、ふと火白はこちらを見ている視線に気づく。
顔を上げてみれば、市を見下ろすように高台に建っている、玉子稲荷の鳥居の上に、白い狐の姿があった。
眼が合うと、狐はケェンと一声上げて、消え去る。その声を聞きつけてか、袂がまたもやごそごそ動いた。
「火白」
だが、千次に肩を掴まれて、火白はそちらを見た。千次の視線の先は、市の賑やかな中心地度は逆の、草木が生い茂るちょっとした大きさの林の方に向いていた。
「何かあったのか?」
「あっちに、よくわかんないんだけど何かいる。多分、妖だと思うんだ」
千次の感覚からすると、かなりの数の妖が集まっているという。昼下がりだというのに、剛毅なものだと火白は口笛を吹いた。
「そうか。ならば行ってみよう」
間髪入れずに言うと、千次が眼を剥いた。
「あ、あのなぁ、あそこには妖が十人はいるぞ。そんなとこにいきなり行くのかよ」
「だがな、元々おれたちは妖に話を聞きに来たのだぞ。一か所にいてくれるならば、手間が省けて良いではないか。それに、この時期にこの場所で妖の集まりがあるなど、怪しいだろう」
狐のきょうだいと、真木を襲った陰陽師に何か関わりがあるかもしれない。
「ここら、妖は多いの」
「ははきつねさまが見て下さる土地だから」
「でも、こんな時間に、みなは外に出ない」
「何かあったのかも」
きゅいきゅいと顔を出して騒ぎだした小狐たちを、火白は元の通りに袖に戻す。
「ほらの。こやつらもこう言っておるし、一度行こうではないか。何、妖十人くらいならば、おれ一人でも何とかなる。これでも、腕には少々覚えがあるからな」
元々、氷上の里は日常茶飯事に力比べが起きるようなところだった。大の男の鬼が五十間ほどぶん投げられて里の空を飛んで行ったり、一抱えもある大岩を砕ける拳同士で殴り合いに発展したりすることも、珍しくはない。火白はそこで、父鬼を除いて負け知らずだったのだ。
多分、そこらの妖と拳で喧嘩しても負けないだろうと思っている。まずいと判断すれば、即座に逃げるつもりだったが。
やや渋る千次を引っ張るようにして、火白は市から離れた林の中へと向かった。
歩きながら、袖の中から小狐たちを取り出して、千次に預けた。もしも荒事になれば、袖の中にいる小狐たちが振り回されてとんでもないことになるからだ。
はっきりと妖気を感じる林に一歩踏み入れる。途端、火白たちは周りの音がぐっと遠くなるのを感じた。聞こえていたはずの市場の賑わいが、急に遠ざかったように感じたのだ。
「何かの結界かのう。一体どうしたのやら」
氷上の里にも似たようなものが張られていて、人から里を隠していたものだが。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」
「うむ、これくらいの結界ならば、いざとなったら壊して逃げればいい」
聞きようによっては物騒な会話をしながら、火白と千次は奥へ進んだ。と、ぱっと視界が明るくなる。木々が途切れ、開けた場所に出たのである。
半径が十間ほどの丸い広場である。そこにいた面々は、唐突に林から飛び出してきた少年たちと小狐たちを見て、ぴたりと動きを止めた。
─────狸に、付喪神……。おや、河童までおるのかよ。
広場に集まっている妖の顔ぶれをざっと眺め、火白はおやおやと肩をすくめた。
「げっ!鬼!」
逆に火白の顔を見た妖たちの顔が、引き攣る。
「うん、おれは鬼だよ。ちょっとすまぬが、聞きたいことがあって寄らせてもらったのだが……」
だが、妖たちは聞こえていないのか、大騒ぎをして広場を右往左往している。琵琶を持った法師は琵琶を投げ出すし、恰幅のいい大男は尻から茶色い二股尻尾を生やして逃げ惑う。
「え、えぇ……」
己の顔を見られた途端にここまで騒がれては、何か悪いことをしでかしたような気分になった。しかし、このままでは埒が明かない。
「千次、ちょいと耳を塞いでおれ」
そう言って、火白は広場の中央に進み出ると、大きく息を吸った。
「静まれぇぇっ!」
びりびりと、昼下がりの空気を震わせる火白の大声が響き渡る。耳を塞いでいた千次、信乃と毛乃はなんともなかったが、間近で聞いた妖たちは揃って動きを止めた。
静かになった広場のほぼ中央で、火白は口を開く。
「いきなりここの領域に入って脅かしたなら、謝ろう。だがおれは少し聞きたいことがあっただけだ。……おれは火白。鬼の、火白童子だ」
それを聞いて、首から上が真っ白い毛並みの犬、下が赤い着物を尻端折りにした人間姿という妖が答えた。
「……知ってるぜ。氷上の鬼の里から追い出されてきたってぇ、馬鹿な若様鬼だろ」
「げ、なんで知られておるのだ」
しかも、氷上の里の名前まで江戸に届いているとは思わなかったと火白が言うと、辺りの妖たちが囁き交わした。
「知らぬのかよ、この鬼」
「我らの間ではとっくに噂になっていたというのに」
「本当に鬼なのか?人の成りをしているではないか」
「連れておるのは、どう見ても人ではないか。それに、狐まで抱えて」
「角もないし、ただの人の童のようではないかのう」
それを聞いて、角を隠していたことを思い出し、火白は己にかけていた術を解いた。たちまち、額の肉を突き破って黒い角が二本めりめりと飛び出し、瞳が金色に変じる。犬歯が伸びて白い牙となり、体も一回り大きくなった。
少年の姿から、たちまちのうちに青年の鬼の姿に変わってみせると、辺りの妖たちがまた引いた。それだけでなく、最も火白の間近にいた千次が呆気にとられて、金魚のように口をぱくぱくと動かしている。
「ほうれ、言った通りに鬼であろう。だがおれは、そこもとどもを驚かせに来たのではない。故あってここに踏み込んだのだ」
「ではお主、してみると、わしらに喧嘩を売りに来たのではないのか?」
「ないない。なんだってそのようなことをせねばならぬ。おれは喧嘩など嫌いだ」
手をひらひらさせて火白が言うと、犬頭の妖は隣にいる、短い手足の生えた鏡の付喪神と何事か囁き合ってから、火白たちの方を向いた。
彼は次のように語った。
鬼というのは、概ね気が荒い。その中でも、一際気が荒く、力の強い鬼の根城と噂されている氷上の里からの流れ者が、江戸に近づいているという知らせが江戸妖たちに伝わったのは、つい最近のことだったという。
だから、お江戸の妖たちはそいつがどんな乱暴者なのかと、気もそぞろであったのだ。
氷上の里のような怖いところであっても持て余されたような、そんなとんでもない者が来るのだと、そう考えていたのだという。
思わぬところで聞いた里と己の悪評に、火白は眉をしかめた。しかし、氷上の皆が気が荒いのも喧嘩っ早いのも本当のことなのだから、否定しづらい。
「おい、あんたの里って、ほんと何だったんだよ。そこから追い出されるって……」
「聞くな、頼むから。おれとてここまで外に噂が流れていたとは、今まで知らなんだ」
胡乱な眼を向けてくる千次に、火白は頭を抱えつつ答えた。が、今は、里のことはさておいて、話を進めねばならなかった。
頭から手を放して、こほんと咳ばらいをする。
「あー、その、もしや江戸の妖には、住むために決まりごとがありでもしたのか?それを破っていたのなら、知らぬこととはいえ謝るが」
「そういうわけではない。わけではないが、氷上の里のような遠いところの鬼が江戸に来たのは、もう随分と昔のことだった故な。驚いたのだ」
妖たちは、印籠や根付け、鏡や文箱など、小さな道具が長年人に使われることで変じて妖となった付喪神か、年経た猫や犬などが妖となったものに見えた。鬼と聞いて、まだざわざわさわさわと草の葉や木の枝を揺らして動揺が見え隠れしている。
なるたけ穏やかに見えるような表情で、火白はことの次第を説明した。途中から、小狐たちも千次の腕の中から口を挟み出す。
江戸の商人に妙なことを仕掛けた陰陽師がいた。話を調べていくと、その陰陽師が狐の大妖の娘と、その守り役の狐を襲い、狐の妖のほうを攫っていたことがわかった。
狐を攫う際、陰陽師と狐たちはここらで相当にやり合った。だから、その光景を見ていた誰かがいないだろうか、いたのなら何か手がかりになることを教えてもらいたくて来たのだ、と火白は話を締めくくった。
瀬戸物の皿や徳利が集まり人の形をしているような妖が、かちゃかちゃと陶器の擦れ合う音を立てながら、腕組みをする。見たことのない妖に、火白は眼を丸くする。付喪神なのだろうが、どうも名前を知らなかった。
「あれは瀬戸物大将って言うんだ。晴秋の持ってた本に描いてあった」
後ろから、千次が耳打ちで教えてくれる。周りの妖のことを、おっかなびっくり見渡していたが、だいぶ慣れて来たらしい。
「なあ、火白童子。お主、確かにその陰陽師を探しているのかい?」
最初に話しかけて来た、犬頭の妖がそう尋ねて来る。火白は頷いた。
「探してなんとするのだ?」
「こ奴らの兄狐を、そいつが捕えたままなのなら、取り返す。それから、おれが世話になっている店にかけた分の迷惑を支払わせる」
具体的にどうするのか、実のところ決まっていない。これが鬼の里の話であったなら、話はもっと単純で、それこそ長の判断により、命で償わせているところだ。 だけれど、ことは人間の話であるから、火白には決めかねた。
「ふうむ。……まあ、よいか。確かにわしらは今、その陰陽師が絡んで困っておる。というのもな、ほれ、そこに稲荷神の社があったじゃろ?」
「ああ、玉子稲荷だろう。先ほど、狐を見かけたが……。それがどうかしたのか?」
大いにな、と犬頭の妖は続けた。
ここら一帯の妖は、あの玉子稲荷の御膝下で暮らしていた。稲荷神に仕える狐の大妖のお陰で、妖同士が気兼ねなく集まり、騒ぎ飲み食いできる数少ない場所であったのだ。
「ところがの、その狐の大妖殿が、子を守るためにこの地から離れるという。離れて、いずれか遠い神の領域に近いところにまで行ってしまわれる。そうなったら、わしらは困るのだ」
「まさか、その狐の大妖というのは……」
「お前の話にでてきた、真木という娘の母狐のことさ。狐の大妖、
瀬戸物大将の言葉に、火白と千次は思わず顔を見合わせた。
ここに集う妖たちは、場所を貸してくれる相手がいないと、おちおち騒げなくなる。だからどうしたものかと、昼間から集って話し合っていたのだ。それに加えて、件の氷上の里から追放者まで近づいているというのだから、彼らの話し合いは暗雲が立ち込めていたのである。
元の通りに娘が人間の中で平和に暮らすというなら、珠月狐はこれまでと同じく、娘の様子を伺うために、きっと留まってくれるに違いない。火白たちが騒ぎの原因になった陰陽師を捕まえてくれるというなら協力しようと、彼らは言った。
陰陽師の騒ぎで、困り果てている者はここにもいたのである。一体、どこまで話が広がってゆくのやらと、火白は懐手をして首を捻った。
「では、お主らの中に実乃狐と陰陽師が争ったところを直接に見たものはおらんのか?二か月ほど前のことらしいが」
火白が声を大きくして言えば、さわさわと妖たちの垣根が震えて、否定の声が返って来た。直に見たものはいないというのである。
だが、火白たちが肩を落としかけたとき、いくつかの影が出て来た。ぶち模様の毛皮を持つ猫又に、丸っこい人間の男に化けた狸、それに深編笠を被った一つ目小僧である。
彼らは歩み出ると、ぺこりと頭を下げた。
「あたしらは、その騒ぎを見ておりませんけど、でも近頃、怪しい寺の話があるのは知っております」
不忍池の北にある古いお寺だったが、数年前に何があったか坊主たちがいなくなったのだという。
打ち捨てられたその廃寺に、最近人の出入りがあるというのだ。人のいなくなった寺だが、建物そのものは大きい。なんとなく取り壊されずに残っているその廃寺に、最近行灯の灯が見え、人の話し声がするというのだ。
「あの辺には誰も寄り付いてなかったはずなんですがねぇ。それなのに、最近どうやら人がいるようなんですわ」
「あたしらの寝場所だったってぇのに、後から出て来て、図々しいったらありゃしない」
狐と一つ目小僧が、憤懣やるかたないと溢す。妖たちからしてみると、己らが空いている寺に勝手に住み着くことは構わないが、後から来た者に追い出されるのは気に食わないようだった。彼らの理屈は、当然のことながら人間の決まり事には従ったりしないのである。
火白は鼻の頭をかいた。
「そこらの人間の宿無しが、勝手に使い出しただけなのではないのか?」
「違いますよう。だって、われらちょいと脅かしてやろうと思ったのに、できなかったんです。お寺の門を潜ろうとした瞬間、びりびりっと尻尾に来ましてね、気づいたら、御池の中に叩き込まれていたんでさぁ」
あれは絶対結界に違いないと、ぶち猫又は言い募る。隣で、化け狸と一つ目小僧も何度も首を縦に振っていた。
「ちなみに、その寺に人が入るようになったのはいつだ?それと、その寺の周りに墓はあるか?」
「もう、三か月……いえ、四か月ほどになりますかねぇ。何しろあたしらも、連日通ってたわけじゃないんでそこらはなんとも……。ああでも、墓地でしたら小さいのですがあったと思いますよ」
化け狸が、面目無さそうに頭をかいた。
火白は辺りを見回したが、どうやら妖たちからはこれ以上怪しい何かと言われても、心当たりがないと言う。それに、相変わらず氷上の里の鬼は怖いのか、いくつかの影は明らかに怯えて、そわそわと落ち着かなげに身を揺すっていた。
火白は軽く息を吐き、元のように角を消して牙を縮める。再び千次と同じほどの背丈の少年に戻り、広場に集まる妖たちに向けて頭を軽く下げた。
「わかった。話を聞いてくれて感謝する。では、おれたちはこれにて失礼する」
「約束だぞ。氷上の鬼。きっとその陰陽師をとっ捕まえて、われらの居場所を守ってくれい」
出会ったばかりの者に、己らの場所を守ってほしいと頼むのは如何なのかと思わないでもなかったが、火白は頷いて彼らに背を向けた。
来たときと同じように、林の中に踏み込む。視界を塞ぐ木の枝を払いのけて進むと、ふいに音が戻って来た。
出て来たのは、先ほどと同じ市の外れにある林の前である。
「……まあ、無駄ではなかったのう。話はあまり聞けなかったが」
まさか、己の故郷が妖にすら畏れられる場所だったとは、火白は知らなかったのだ。
「知らなかったってんなら、仕方ないだろ。っていうか、知ってたとしても、生まれた土地が怖いって言われたら、それはあんたにはどうしようもないことだろ」
「うむ、それはそうだが」
己の故郷の評判を知っていたとしても、どの道ああして正面から頼みに行く方法しか取れていなかった。
千次にばしばしと肩を叩かれながら、火白は少し笑った。
「それにしてもお主こそ、妖気にあてられなかったか?」
「ま、入って見たら案外マシだったっていうのかな。それと、あそこにいた誰より、火白の妖気が一番でかかったしな。角生やすまではわかるが、でかくなるなんて聞いてない」
火白の姿が変わった瞬間に増えた妖気は確かに怖いほどの大きさだったが、火白の気配や飄々とした態度そのものは少年のときとまったく変わっていなかった。だから、千次はそこまで恐ろしいとは思わなかったのだと言った。
それは小狐たちも同じだったらしく、千次の腕の中から、再び火白の袂の中に潜り込む。どうやら、柔らかい布に包まれているほうが好みらしかった。
「ねえ、これからどうするの?」
「その、ふるい寺に行く?」
放っておいたら、今すぐ飛び出して行きそうな信乃と毛乃である。だが、火白は首を振った。
「もう夜に近い。知らぬ場所を尋ねるのにいい時間ではない」
さすが妖の術と言うべきなのか、林の結界の中と外の時間の流れとは、微妙にずれていたらしい。入ったときには、昼を少し回ったくらいの時間だったはずが、既に日が傾いて、夜の闇が迫って来ていた。黄昏時は怪しの時間である。
「探しものをするのに、向いておらん。一度、皆のところへ戻ろう」
火白が言った途端に、彼以外の三名の腹のなる音が、草原に響いたのだった。
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