第1章-2

 川原に降り立った青年の名を、火白は躊躇いなく呼んだ。


せつト?どうしてここにいるんだ?」

「どうしたもこうしたもない。俺のほうが聞きたい。おい、あれは一体どういうことだ?」


 柳眉を怒らせている青年を見て、火白はおやおやと肩をすくめた。

 彼は名を雪トという。火白の幼友達であり、たったひとりの従者だった。鬼の従者であるからして、雪トも当然鬼である。黒い髪の隙間からは、火白のものよりはやや小さいが鋭い角が二本生えていた。


せつ、それより角が出っ放しだぞ。誰かに見られたらどうする」


 煙管でこんこんと火白が己の額を叩いてみせると、ようやく雪トは気づいたらしく、額に手をやった。

 どうやら、火白の言葉を聞いて角を引っ込めるくらいの冷静さはあるらしい。しかし、どう見ても怒りに震えている彼を見て、火白は内心やってしまったと少々焦っていた。


「用事を済ませて里に帰ってみれば、あんたはいない。誰に聞こうが、死んだ者と思えと言う。それを聞いて、俺がどう思ったか考えなかったのかよ」

「いや、済まぬ。謝っても仕方ないが、おれからは済まぬとしか言えん」

「それなら説明しろ。一体何をやらかせば、あんたが里から放り出されることになる」


 本格的に頭に来ているらしい。火白は煙管をくわえて、ともかく川原に腰を下ろした。


「話が多少長くなるから、まず座れ」


 無言で雪トは腰を下ろす。腕組みをして目を閉じた様子は、ちょっとやそっとでは納得できないという意志が現れていた。

 凡そ一か月ほど前に起きた騒動の顛末、それから己がどうしていたかを火白が包み隠さず語ると、雪トは深くため息をついた。


「なんだってそうなる。あんたなら上手くやれたろうに」

「うん、そう思ってくれるのは嬉しいが、おれにはできなんだ。それならば、仕方ないだろう」

「仕方ないで済ませられるか。あんたは何も悪事を働いてない!生まれた家を追われるようなこと、しちゃいないだろう!」


 己より怒り狂っている従者を見て、火白はのんびり手を振って否定した。


「いやいや、悪事だろう。儀よりも、我を通すほうを選んだおれは、長の器ではなかったということだ。それに、そんな半端な兄がうろついていては、邪魔だろう。誰にとっても」

「だからと言ってな……」


 雪トには納得がいっていないらしかった。

 雪トは他の鬼とは違う。まだ幼い子どもの時分に、火白が己の血を与えて鬼にした、元人間だった。そのため、彼も人は喰えない鬼だったし、前世が人であるが故、人を喰えないという火白の事情も知っていた。

 前世が人だったという記憶を火白が持っていることを知っているのは、父を除けば雪トと、あとは別の里に住んでいる許嫁だけである。きょうだいたちに打ち明けなかった事情を教えたという点でなら、雪トは火白にとって彼ら以上に親しい存在だったのだ。


「おれは誰も恨んでおらんよ。遅いか早いかだけで、いずれこうなることが定めだったのだろうさ。おれと同じように怒るなとは言えぬが、そうかっかするな。額のしわが取れんようになるぞ」


 そういうと、雪トは額を押さえた。


「おい、嘘だぞ。本気にするなよ」

「知ってるっての。今のは、呆れて頭痛がしただけだ」


 表情をからりと改めて、雪トは横目で火白を見、膝を叩いた。乾いた音が、川面に消えて行く。


「言いたいことは色々あるが、まずはこれだけ言っておく。俺もあんたについていくからな」


 やはりそうなるか、と火白は煙を吐き出す。里に戻れと言ったところで、戻らないだろう。この従者が軽薄そうな見た目に反して、言い出したら聞かない頑固な性格をしていることも、命を助けた自分に忠を誓っていることも、わかっていた。

 わかっていて、しかし火白は里から放逐されてからの丸ひと月もの間、彼には便りを出していなかった。代わりに、別の者に便りを出して、雪トをよろしく頼むと言っていたのだ。だが、この分だとその手紙はてんで意味を成さなかったらしい。

 手紙を出した者の里は、妖たちの里ではあるのだが、氷上と違って人を喰わねばならないしきたりもない。元が人間の雪トは、訳あってそこに何度も通って馴染みになっていたから、受け入れられるはずだった。

 だが、氷上の里長直々に髪まで切られて正式に追放されてしまった火白は、その里には住めない。

 前世が人だからというあやふやな理由で、一人前の鬼と認められない浮草のようになる道を選んだ阿保につき合ってくれと、言えなかったのだ。

 だが、この従者はあっさりと姿をくらませていた火白を探し当ててしまった。


「従者がなぁ、優秀すぎるのだよなぁ……」

「ん?何か言ったか?」

「何も言っておらんわ。それより雪ト、お前、どうやっておれを見つけた?」

「そりゃあそこは、あんたの行きそうな道を選んだだけだが。人好きのあんたが、まず目指すとなれば江戸だろ?」


 当たっているだけに、火白は苦虫を嚙み潰したような顔になった。それがおかしいのか、ひとしきり笑った雪トは不意に真面目な顔になった。


「そいで、江戸のどっかに伝手でもあんのかい?」

「ないぞ。おれはろくに里から出なかったからな。まあ、人であったころより頑丈な体ではあるからな、適当にさすらっていても死にはすまい」


 跡継ぎだからと、火白は里の外へ出てはならないと教えられていた。それでも監視の目を潜ってちょくちょく外には出ていたのだが、それは如何せん氷上の里に近い人里で、江戸のような大きな街には行ったことがなかった。

 向かおうとしている江戸に、知り合いの妖がいるわけもない。だから、正直なところ雪トに見つかったことに安堵している自分もいた。

 死にはしないだろうし、簡単にやられもしないだろうが、話し相手のいない旅は退屈なのだ。

 ともかく気軽に言ってのけた火白を見て、雪トはまた額を押さえた。指の隙間から、よく光る眼が火白を見ていた。


「それからもうひとつ、姫さんのことはどうするんだい?」


 それか、と火白は額をかく。

 雪トが姫さんと呼ぶのは、ただひとり、火白の許嫁である久那姫くなひめのことだ。美しい長い黒髪と濡れたような黒い瞳を持ち、おとなしやかで気性のやさしい、穏やかな娘である。

 久那は、氷上の里とは山五つ分離れた、同じく妖の隠れ里の姫だった。

ただしこちらには、一人前の者と認められるために人を喰え、というようなしきたりはない。人を見守り、その営みを慈しもうとする、古い山神を長として、その眷属である山の妖たちの暮らす里だった。

 久那は昔、人の娘だった。山の神と人間の女との間に生まれた稀有な存在だったが、幼い時分に命を落とし、その後父である山神の手で妖へと転生したのである。

 鬼の里と山妖の里の長たちは、話し合って互いの息子と娘をめあわせることに決めたのだ。

 幼い時分には、氷上の里で共に遊んだ。歳ごろになって、久那は花嫁修業のためと自分の里に戻っていったが、月に一度は欠かさず雪トに使いを頼んで、文のやり取りをしていたし、己に何かあったら真っ先に久那を頼れと、雪トに言ってもいた。

 今回、雪トが火白の側を離れていたのも、久那への文を出しに行っていたからだ。

 月に一度は、彼女に会っていたわけだから、雪トが久那のことを気遣うのも道理かと、火白は素直に答えることにした。


「どうもこうもないだろう。いずれ良縁に恵まれるだろうさ」


 火白が里から追い出されたのだから、当然婚約もなかったことになるのだろう。だが、完全にこちらが原因であるから、彼女の疵にはならないだろうと思っていた。

 だが、雪トは焦れたように額を指で叩いていた。


「そうじゃなくってだな、あんた自身はそれでいいのかい?あれだけ綺麗な姫さんなのに、惜しくはないと。姫さんのこと、どう思ってたんだい?」


 やけに突っ込んで聞いて来るな、と思いながら、火白はこれにも正直に答えることにした。


「好いているよ、心から。だから猶更、会いには行けんだろう」


 氷上の里から追放されたのだ。それも、髪を切られた上に、死んだ者とするとまで宣言されたのだから、扱いは罪人一歩手前である。

 気性のやさしい娘だから、きっと幼馴染の追放を聞いて泣くだろう。だが、芯の強い姫だから忘れてくれるだろう。

 そういうと、雪トは深く、沈み込みそうなほどに大きく息を吐いた。


「そこまでへこむか?」

「当たり前だっつうの。はー、そりゃ確かにあんたは阿保としか言いようがねぇわ。姫さんも大変だな、こりゃ」

「お前、たまに急激に無礼になるな。久々に組手でもするか?」


 やれやれと大げさに肩をすくめる雪トに、火白のこめかみにぴしりと青筋が立った。


「そいつは勘弁だ。だが、姫さんのことに関しちゃ、あんたは阿保だぞ、紛れもなく」

「はあ?どこがだ?」

「第一に、あんたは鬼たる姫さんの情を軽く見すぎだ」


 にやりと、人の悪い感じに笑った従者に、火白は急に嫌な予感を覚えた。雪トは一向気にせず、指をもう一本立てる。


「第二に、俺がわざわざ問うた意味を考えてないことだ」


 ほれ、と雪トが懐から丸い鏡を取り出したのを見て、火白は首を傾げた。


「いいから、覗いてみろって」


 言われるがままに覗き込み、火白は固まる。そこに映っていたのは、火白の顔ではない。


『お久しぶりです、火白さま』

「久那……」


 鏡に映っていたのは、ほころび始めた桔梗の花のような笑みを浮かべた、美しい若い娘だった。艶やかな長い黒髪が、陶器のような白い顔を縁取っている。


『事情は、あなた様から送られた文で理解しています。雪トさんを頼む相手に、私を選ばれたときは、嬉しく思いましたよ』


 静かに淡々と、たおやかな姫は鏡の向こうで言葉を紡いでいた。この鏡が何か、火白は知っていた。確か、久那の里に伝わる二つでひとつの鏡で、持っていれば鏡を通じて言葉を交わすことができるという宝だったはずだ。


『ですが』


 久那の眼が、ざんばらに切られた髪に向いた。


「あのな、久那……。これはだな」

『いえ、わかっております。今までのお話は、すべて聞いていましたから』


 ちらりと見ると、雪トはやたらさわやかな笑みを浮かべていた。


「あんたが文で俺のことを姫さんに預けてたんだから、俺の主は姫さんになってたわけだ。ま、主に橋渡しを頼まれりゃ、従者として嫌とは言えんだろ」


 つまり、久那と繋がった鏡を持っていることを隠して、ここで交わしたやり取りをそっくりそのまま伝えていたのである。


『事情はわかりました。では、私もついて行きます』

「は?」

『問題がありますか?許嫁についていこうというのです。……では、雪トさん。私とるりがそちらに着くまで、火白さまをしっかり捕まえておいて下さい』

「あいよー。でも急いでくれよ。俺よりよっぽど強いからね、このお人」


 承知していますよ、という笑顔と共に、鏡の中から久那の姿は消えた。鏡のような表面には、火白の背後の星明りだけが光っていた。

 鏡が、火白の吐息で曇る。鏡を、横に座る従者に返した。


「……怒ったか?」


 火白は答えずに、煙管をくわえて白い煙を口から吐いた。

 白い煙が河面の上を流れて消えるまで、火白は一言も口を利かなかった。


「いや、な。怒ってはおらん。昨日までのおれを、ちょっと殴ってやりたくなっただけだ」


 弾みをつけて、火白は立ち上がった。


「おれとお前だけなら、根無し草でも良いが、久那とるりが来るならまともな家を構えんとな。江戸でなんぞ仕事でも探すか」

「できんのかねぇ。主、働いたことあったか?それに人の中でやるんだぞ」

「痛いところを突くな、お前。やってやれんことはないだろう。江戸は大きいところだから、紛れて暮らす妖もそれなりに多いと聞いたぞ」


 煙管を懐にしまったそのとき、ふと火白は気配を感じ取った。それも、なんとなしに剣呑なにおいがする。雪トも同じく異変に気づいたらしく、表情が引き締まった。

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